柳澤 弘樹
キャァー、と誰かが悲鳴を上げた。
ヤナギサワッ!と誰かが名前を呼んだ
「ちょ! 待っ……」
その男子が叫ぶように何かを言い掛けた時、
ガーン!
彼の身体は高い体育館の天井の梁の鉄骨に、飛び上がったスピードのまま全く減速せずに激しく激突した。
あたしのいた位置からそれは少し離れた三年の先輩方の列の方だったが、べきっという音とぐしゃっと言う音──人体が壊れる音が衝突音に混じってはっきりと聞き取れた。
代わりにスマートフォンのコール音は止んだ。
彼はそのまま糸の切れた人形のように真っ逆様に落ちて来た。
直下の群衆が慌てて別れて、生徒の列の中にぽっかりと穴ができた。
どーん、という音とが耳に、重い物が床に叩きつけられた衝撃と振動が床を伝わって足に届いた。
再び悲鳴が上がったが、それはギャアと表記していいような絶叫で、体育館の中に長く尾を曳いて響いた。
誰かがへなへな座り込み、あたしの近くでは女子が一人気を失って倒れ込んで、周りの生徒が彼女を支えようと動いた。
「柳澤先輩じゃね……?」
「えマジかよ……生徒会長の?」
そんな囁きが聞こえたかと思えば、誰かが激しく嘔吐する音と、吐瀉物が床にぶち撒けられる音がそれを搔き消す。一人や二人じゃない数の女子が嗚咽を漏らして顔を覆っていた。逆に、はははははは、と乾いた笑いを漏らす男子もいた。
突然の、あまりの出来事に、体育館は混乱の渦中に飲み込まれつつあった。
「静かに!」
スピーカーから凛とした声の指示が飛んだ。
「電気はまだ点けないで。竹岡先生、柴崎先生、用具室から担架を。彼を保険室へ」
それまで石にでもなったかのように動かなかった先生方だったが、大沢先生に名指しではっきり指示を出された二人は流石に石化の呪縛を解かれたように我に返って動き出した。大沢先生が電気を点けさせなかったのは遺体──誰の目にも彼が死んだことは明らかだった──その様子をなるべく衆目に晒さないようにする為だろう。
「あ、柴崎先生!これを……彼に」
大沢先生は白衣を脱いでステージの袖に駆け寄った化学の柴崎先生に渡した。そして自身も付き添う為に降壇した。
二人の男性教諭は担架を手に生徒を掻き分けて柳澤先輩の落下地点まで行くと、暫くごそごそした後、せーの、と声を掛け合って何かを持ち上げる動きをしたようだった。
薄暗い体育館の中、モーゼが海を割ったように生徒の人波が割れる。あたしのところから見えたのは、向かい合って担架を運ぶ二人の先生の頭。人混みの間からちらちら覗く白い白衣とその生地に僅かに滲んだ赤い血。
担架からだらりとはみ出した、生気のない人の腕。
ああ、彼は死んだのだ、とあたしは思った。
何が起きたのか。妙な言い方だが、あたしの頭は熱を帯びて凍り付いたようにその判断の一切を勝手にやめて、ただ淡々と目の前の出来事を受け止め続けていた。
悲鳴を上げるタイミングは完全に逸した。
泣く理由も、へたり込む理由もあたしにはなかった。
不可解な人の死を目前にしたくらいでは気を失ったりしない神経の太さを喜べばいいのか嘆けばいいのか分からないが、そのどちらでもない気がした。
「ぱかぱかさん……」
その誰かの呟きは力なく、小さかったがあたしの耳はやけにはっきりとその言葉を拾い上げた。
「ぱかぱかさん……」
「電話……鳴ってたよね」
「ぱかぱかさんだ……」
「ぱかぱかさんの呪いだ」
「ぱかぱかさん……」
「ぱかぱかさん……」
「ぱかぱかさんの呪い……」
ぱかぱかさん、という名前の呟きが低く、何重にも重なりながら波紋のように生徒の間に拡がっていった。
目鼻の無い顔の、しかし口元に微かに笑みを浮かべた真っ白な少女が、あたし達の間を通り抜けるイメージが脳裏をよぎった。
あたしはゾッとして鳥肌を立てた。
「いや、違う」
その言葉は自信に裏打ちされた確かさを伴ってあたしの耳を打った。
それは男子の声で、すぐ近くから、はっきりと聞こえた。
あたしは溺れる者が浮かぶ物を探すような真剣さで、その声の主を確かめようと辺りを見回した。
がしゃん、と体育館の電灯の電源が入り、館内は明るくなった。
「呪いなんかじゃ、ない」
あたしのすぐ隣に、顔色一つ変えずに立っていた眼鏡の男子が、右手の人差し指で眼鏡の位置を上げながら、きっぱりとそう言い切った。
あたしは「この人が犯人だ」と確信した。
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