ラスト付近、潜入後のシーンから

状況:夜半、シルディアナ市民の大反乱を城内に導き、玉座を破壊させるという象徴的事件の計画を実現させるため、アーフェルズ――皇帝の異母兄アルトヴァルト・シルダはラナに二つの使命を課した。一つはシルディアナ城に潜入し、金で丸めこんだ門番から魔石認証鍵を拝借して六箇所ある城門の鍵を解除することで、彼女はそれを達成。二つ目は、出来れば、でよいから、彼の異母弟――皇帝イークライト・シルダを救うことだった。




 真夜中を過ぎた頃。視界の悪い中でシルディアナ城をぐるりと回って城門の鍵を解錠することはなかなかに骨の折れる使命だった。


 ラナが認証画面に魔石認証鍵をかざして解錠する音を聞くやいなや、市民はあろうことか莫大な予算が投入されて鋳造されたフェークライト鋼の重い扉をありとあらゆる火器、小さいが威力抜群の火魔石製の爆弾と術士の術で以って破壊しながら、城内になだれ込んだ。ひとたび開け放てば、何処の城門からも人の群れが我先にと言わんばかりにどっと溢れだし、アルジョスタの少女はその波に飲まれそうになりながらも全ての城門を封鎖から解き放った。


 そして、それが終わった今、行くべきは一際高い塔を抱く城の本殿――イークを助けるのだ。これはアーフェルズから彼女に課されたもう一つの使命だった。ラナは走り、急ぎ己のサヴォラの元へ駆けつけ、風魔石がたっぷり入った麻袋――最後の一つだ、それを片手にひらりと飛び乗り発動機の蓋を開け、口を開けるその中に向かって餌を喰らえと言わんばかりに袋の中身を全てぶちまけた。ザラザラと小気味よい音を聞き終わるやいなや音を立てて蓋を閉め、目を覆うようにラウァを装着した彼女は発動機を起動させた――サヴォラの風力排出口から勢いよく空気の波が吹き出し、白い機体は、尖塔建築の間を泳ぐ上昇気流を捉えて一気に地上から舞い上がった。


 彼女は探した。安全かつ迅速にサヴォラを停められて、イークの部屋に近い場所。本殿の塔の周囲をぐるぐると旋回するうちに見付けたのは、二人が初めて会ったバルコニーの真上にあるサヴォラ一機分しかない平らな隙間だった。しかし、バルコニーに降りるときは風魔石を使って空気抵抗を生み出してから着地しないと足を折ってしまう。ラナは先程持ち合わせていた全ての風魔石をサヴォラの発動機に全て食わせてしまっていた。幸い、注視した隙間の奥には人間ひとりなら通れそうな窓があり、彼女は、そこから城内に入れば大丈夫だろう、という結論に至った。


 これから彼を連れて逃げるのだ、万が一のことがあっては適わないので、隙間に滑り込むと同時に彼女は発動機を停止させた。フェークライト鋼の踵がついたブーツで窓を数回蹴って綺麗に割り、左腰から短剣を一本抜いて、ラナは足から中に飛び降りた。


 そこは小さな部屋だった。同時に彼女は息をのんだ。


「……覇王の剣?」


 純白の石に彫られた見事な竜の彫刻が部屋の中央に寝そべっており、その身にうっすらと光を帯びる一振りの神々しい剣を腕に抱いていた。後ろ脚の隙間には金銀宝石で飾られ、洗練された美しさを抱く技巧の凝らされた鞘が差し込まれている。

何処の誰がこれを打ったのだろう、何時か聞いたことのある伝説では選ばれた者の鎚によって光り輝く覇王の剣ケイラト=ドラゴニアは作られたということではあるが、まさか本物かもしれないものが侵入した小部屋に鎮座しているとは、ラナは考えもしなかった。


 息を殺し、彼女は一歩剣に向かって近付いた。


 竜の瞳には大陸東部のケールンから取り寄せたのだろうか、多彩色に輝く蛋白石があしらわれており、その荘厳な空気を纏う頭部はしっかりと此方を見据えている。近付けば今にも動き出して襲いかかってくるのではないかと恐ろしく思ったが、彼女が二歩目、三歩目を踏み出しても彼は微動だにしなかった。されど彫刻、何人をも寄せ付けないものを醸し出している。


 そこではた、とラナは気が付いた。こんな所で立ち止まっている場合ではない。


「――イーク」


 彼女は竜の向こうに扉を確認した。剣を抱く竜の像の脇から正面に回り込み、彼に背を向けて扉に近付き、そうっとそれを押した。鍵はかかっておらず、案外簡単に扉が開いたのに安心して廊下に出た所で、彼女はいつの間にか目が飛び出さんばかりに驚いた近衛兵二人と真正面から向き合っていた。


「だ、誰だ――」


 考える暇もなくラナは大声を上げかけた一人の胸を硬いブーツの底で蹴り飛ばし、柄に水の魔石が輝く剣を抜こうとしたもう一人の、兜の隙間からのぞく顔面を拳で力いっぱい殴り付けて昏倒させた。倒したと思ったのもつかの間、声を聞きつけた他の兵士達が廊下の向こうから十数人駆けつけ彼女を取り囲み、あっという間にその場は金属がぶつかる音で満ちた。


 しかし、侵入者は伊達に隠密行動を繰り返してきたわけではなかった、幾度となく兵士の囲いを突破してきた彼女にとって近衛兵十数人などは楽にかわせる相手だった、わずかな間に覇王の剣の小部屋の前は伸びて転がっている近衛兵で一杯になった。


 ラナは短剣を仕舞い、駆けだした。覇王の剣をどうしようか、ひとたび振れば数多の命がひれ伏し万物が従う、などという伝説が全て本当だとしたら、いや、そうでなくても、あれは市民が下手に触っていいものではない――きっとアーフェルズがどうにかしてくれるだろう、そう思いながらイークの部屋に向かって廊下を走る。アルジョスタ・プレナの指導者はシルダ家の人間でもある、剣について知らない筈がない。


 誰もいない階段を下の階へ何度も駆け下り、彼女は素早くあたりを見回した。影は見当たらない、やはり近衛兵でさえも大半が市民との戦闘に駆り出されているのか、侵入した小部屋の周辺以外に目立った帝国軍兵士の集団はいなかった。いるとすればやはりイークの側だが、引っ込んでおいて貰わねば此方の使命が遂行出来ない。


 真っ直ぐ続く廊下に行き当たった。飛び出そうとして、左の曲がり角から聞こえてきた声に、ラナは踏み止まった。


「――侵入者は何処から?」


「それが、覇王の剣の間からかと存じます、陛下――」


「何だと?」


 何故そこからの侵入を許した、と捲し立てるのはイーク、そして相対するのは誰かの声だった。そのまま会話は右の曲がり角へと早足で通り過ぎて行く、きっと彼の部屋へ行くわけではないだろう――時間がない。


 その時、左の曲がり角にもう一回視線をやった彼女は気が付いた。近衛兵の小さな集団がこっちへ向かってくる。上手くいけば皇帝を出歩かせずに部屋へ帰すきっかけとなるかもしれない――ラナは意を決して短剣を抜き、先頭の一人に向かって力一杯投擲した。


 悲鳴が響き、近衛兵が咄嗟に威嚇の声を上げて魔石付きの長剣を抜いた。血がどくどくと流れ出る片目から短剣を引き抜いた一人と、彼女の目が合った。


「――あいつだ!」


「どうしたのだ、何があった?」


「陛下、直ちにお部屋へお戻り下さい!」


「追え、逃がすな!」


「侵入者だ!」


 呼応し、飛び交う怒号にイークの声、ラナは全てを背中で受けて走り出した。




 混沌と殺戮の合間に、彼は宮殿の方角を振り仰いだ。幾つもの尖塔が立ち並ぶ、その中であの少女は今、どのような状態で何を想いながらいるのだろう……無事だろうか、生きているだろうか。門の解錠は成功した、後は皇帝を救い出すだけだ――彼の弟を。


「――ラナ、イーク」


 アーフェルズ、否、アルトヴァルト・シルダは、構えた剣の向こうにいるふたりの名を呟いた。もしも帰って来ないならば自分が乗り込むまでだ、と心に決めて。




 近衛兵を撒いた。イークの部屋に近付くようにラナは疾走した。ある時は物陰に飛び込んで誰かが追ってくるのをかわした。またある時は、走っていく近衛兵の後ろから気付かれないように這い出したりもした。


 だが遂に、彼女は数人の近衛兵と鉢合わせた。その向こうにちらりと見えたのは、以前見たことのあるイークの部屋の重厚な扉、それの表側だった。ここを突破すれば、後ろから誰かが来ない限り己の勝ちだ。少女は襲い来る剣の中をひるみもせず舞った。


 正面からの攻撃を後ろに飛んでかわし、右腕は剣を防ぎ、左腕は斬撃を弾いた。が、弾いたと思った筈の剣が左腕の手甲の上に付けている母の形見の腕輪に引っ掛かり、彼女は腕に衝撃を感じて、咄嗟に身体を捻り地面を這うように蹴って転がり包囲から逃れた。肌身外さなかった腕輪だったが、命の方が惜しかった。短剣を握ったままの右手で左腕の腕輪を払い捨て、目の前まで迫っていた近衛兵の側頭部を振り上げた足で蹴った。そして、ラナはふらりとよろけた彼を抱え、全体重と反動を利用して近衛兵の集団の中へ思いっきり放り投げた。


 近衛兵の装甲は、どんな衝撃にも耐えるようにかなり重く、厚く作られていた。たった一人の重さを受けた何人もの哀れな兵士達は互いにぶつかり合い、他人と己の装備している金属の塊に衝撃を受けて皆がその場で昏倒した。


「――やった」


 彼女は息をついた。先刻からずっと走っていた為、流石に疲れていた。


 イークはもう部屋の中に戻っているのだろうか、ラナはフェークライト鋼の重厚な扉を見つめ、思った。自分の部屋の前でこんな騒ぎが起きているのだから、流石に気付いているだろう。だが彼が開けてくれる筈はない、何しろ今の自分は殺戮を撒き散らす姿隠れし賊なのだから。しかし彼女には躊躇っている暇などない。そのまま扉に近付き、ありったけの力で以ってそれを押した。


 フェークライト鋼は重い、だが彼女は諦めなかった。己の力だけでは足りないことを知り、気絶した兵士達の持ち物を探った。幸い、そのうちの一人が火魔石製の小型爆弾を幾つか懐に持っていたので、それを扉に投げつけた。轟音を立ててフェークライト鋼は砕け散った。


「イーク、いる? イーク!」


 ラナは部屋に掛け込み、大声で怒鳴った。だが、返事はない。


「イーク、いたら返事して! 私よ、ラナよ!」


 色々な扉を開けながら発した彼女の言葉には、何物も呼応しなかった。開けた扉の向こうに衣装部屋を発見しながら、ひょっとしてまだ戻って来ていないのではないか、そう考えて幾度も訪れた部屋の中を数度見渡した時、小さな机の上に電子画をはめ込んだ金属の枠が伏せられて、上に何冊もの書物を置かれているのが、視界の隅にきらりと光った。


 埃まみれのそれに近付き書物を除けて見てみると、かなり古いその電子画の中には、豪奢で色鮮やかな服を纏い額に金冠をいだく男を中心として、二人の女と年若き少年が一人、そして生まれたばかりであろう乳飲み子が映っていた。右側の地味な服装の女は大きな目に高い鼻、茶目っ気のある口元はにっこりと微笑んでおり、すぐ右隣には地味な服装の整った顔立ちの少年が、雨季の湿った恵みの風を想わせるやわらかな微笑みとともに立っている。左側の女は涼しげな目元にしとやかそうな笑みを湛えており、その腕に赤子を抱いている。その場にいる皆が金髪に碧緑の眼だった。ラナは気付いた。これは皇帝一家の筈だ――少年はアーフェルズ、赤子がイークだ。皆が幸せそうな表情だった、妾腹で使用人の子であると己を呼んだアーフェルズさえも。そして、皇帝とアーフェルズの顔がよく似ていることに気が付いた。


 だけれど、と彼女は己の置かれている状況を忘れて、考えた。アーフェルズは宮殿の隅で生活していたと自ら語っていた。それに、若帝の母親は彼を生んで四日後に亡くなった筈だ。ならば、彼を抱いているのは誰だろう、乳母にしては中心に座す皇帝によく似ている――


「何者だ、そこで何をしている――」


 突然の男の怒鳴り声に彼女は飛び上がって咄嗟に短剣を引き抜き、素早く相手を振り返った。そこにいたのは――


「……ラナ?」


 目の前に、驚いた顔のイークが覇王の剣を構えて立っていた。鞘を片手に、切っ先をラナに向けて完全に固まっている。


「イーク」


 彼女は呟いた。彼は少し痩せただろうか、これまでのシルディアナ市における不穏な動きを己の身で常に感じ、溜めこんでいた心労のせいだろう、ここのところ眠れていなかったらしい、目の下にはくっきりと隈が残っている。だが、また来てくれるか、と前に彼女に尋ねた筈の若帝は覇王の剣を掲げる腕を下げはしたものの、鞘に戻そうとはしない。


「……何をしに来た、ラナ」


 ややあって放たれた言葉は冷たい棘を含んでいた。


「そなたらの敵、皇帝である私を殺しに来たか?」


「違うわ」


「ならば、何故私の部屋にいるのだ」


 イークは自嘲めいた笑みを口の端に浮かべ、その右手に覇王の剣を握っているにもかかわらず皮肉げな口調で続ける。


「無残にも壊された扉の前に見慣れた腕輪が転がっていた、もしやと思って入ってみれば、目の前には愛したひとが武器を片手に、此方を見ている」


「……違うの、他の誰かだと思ったから剣を抜いただけで――」


「私の声に聞き覚えがないとは言わせないぞ」


 彼が一歩近付き、ラナは一歩下がった。恐ろしい程に澄んだ碧緑の目が射抜くように此方を見つめてくる。


「……驚いたの、いきなりだったから」


 暫し沈黙が訪れた。イークは自分が手にした覇王の剣をちらと見やり、ややあって何かを諦めたような顔つきでそれを鞘に戻し、そしてもう一度、氷のような声音で訊く。


「何をしに来た、ラナ」


「……貴方を助けに来たの。アーフェルズの願いよ」


 彼女は答えた。事実だったが、相手は鼻で笑い、口の端を歪める。


「アーフェルズ? 反乱の首謀者になった小間使いが何故、私を助けようとする? 情けなど無用だというのに」


「それは――」


 彼の言葉に思わずアーフェルズは貴方の兄だと言いかけて、ラナは口をつぐんだ。このことは二人だけの秘密だった筈だ、それをこんな所で言ってしまっていいものだろうか。それに、彼女は単にアルジョスタ・プレナの指導者からの使命であるから彼を助けに来た、というわけではない。


「それは、何なのだ。救い出すという名目で私を連れていって、何か吐かせるか? それとも、首謀者の目の前で私の首を落とすか? 或いは、私がそやつの小間使いになるのか――」


「違う、違うのよ、イーク」


「違っても違わなくても構わない、どちらにしろ城はこの有様だ、もう駄目だろう。好きにするといい、どのみち私は死ぬさだめにある、そしてそなたも皇帝に通じていたアルジョスタ・プレナの裏切り者として、市民に殺されるかもしれないぞ、ラナ。そうだな、今ここで愛する者と共に死ねるのならば、私は幸せかもしれないな」


 ラナは首を振った。彼女が望むのはそのような末路ではない。


「……じゃあ、貴方は死にたいの、イーク?」


「だから、ラナ、死にたくとも死にたくなくとも、私にとって状況が変わらない限り目前に迫った死からは逃れられない――」


「私はそういうことを訊いているんじゃあないわ!」


 突然の怒鳴り声。不意を突かれたイークは僅かに目を見開き、口を噤んだ。大声の後に続く少女の言葉を聴く。


「これから死に行くのが貴方のさだめだろうとそんなものはどうでもいいの、問題は貴方自身よ、イーク、どうしたいの? ここから逃げて、皇帝でも何でもない平和な人生を送ることだって出来るかもしれないの、もっと幸せになれるかもしれないの、ねえ、ここで死んだらそれで終わりなのよ、アーフェルズも同じ考えだわ。兎に角私はここから出るわ」


「……どうして」


 呟く、彼の表情が揺れている。ラナの言葉は多少なりとも皇帝の心の中に往生際の悪さを生み出し、その奥底にある生への願望に触れた。若者が抱く戸惑いの視線は部屋の中のあちらこちらをうろうろと彷徨う。


 彼は幾ばくか覇気を失った声で、動揺を隠しもせず、ぽそりと吐いた。


「どうして、そこにアーフェルズが出てくる? あやつは小間使いだった筈――」


「アーフェルズは」


 彼女はもう躊躇わなかった。小さな机に歩み寄り、先程立てた電子画を手に取る。


「アーフェルズは唯の小間使いじゃないわ……本当の名前はアルトヴァルト・シルダ、貴方のお兄さんよ、イーク」


 ほら見て、とラナはそれをイークに向けた。彼はそれを注視し、はっとした表情を見せて暫く動かなくなって、最後に呟いた。


「ラナ……それを、何処で」


「埃まみれの本が何冊か重なった下にあったわ、ファールハイト帝の頃から弄られていなかったみたいね、そこの小さな机」


 小間使いならば何故、この母子が地味な服装のままであるにも関わらず皇帝と共に電子画の中へ収まっているのか。答えは明白だった、彼らは家族であるからだ、そしてこれがアーフェルズの言う“最初で最後の一回”になる筈だった産まれたてのイークとの面会であったに違いない。ラナは言葉を続ける。


「そうね、やっぱり、貴方達は似ているわ。この電子画の中のアーフェルズと今の貴方、そっくりだもの。前の皇帝陛下にも似ているわ、本当に。アーフェルズは貴方が四歳の時にシルディアナ市から出たから、貴方にはそっくりなのかどうか分からないのでしょうけど……この電子画、あってよかったわね。私ならただの他人だから分かる」


 そこで彼女は一回、大きく息を吸った。


「……それはともかく、私はこんな所で死ぬわけにはいかないわ、生きるわよ。それに」


 彼女はイークライト・シルダという名の青年を真正面から見つめる。覇王の剣を持ったままだらりと垂れ下がった腕を取り、もう一方の腕も取り、その瞳に真っ直ぐ向き合って、嘘偽りのない己の心を言葉にした。


「どうせ生きるなら、貴方と一緒に……イーク、貴方と一緒に、生きる未来が欲しい」


 再び部屋の中には沈黙が満ちる。若帝は雷に打たれたような表情をその顔に浮かべていたが、何も言わなかった。ただ、剣を持っていない方の手で己に触れた温もりをぎゅっと握りしめた。


 と、突如、サヴォラの尖塔が立ち並ぶこの広い宮殿の何処かで誰かが何かを破壊しようとしているのだろうか、凄まじい爆発音が外の空気から部屋の壁から伝わってきて、全てを揺らした。全てが、音の方向を振り返る二人を逃すまいと追ってきている。


 だからラナは言った。


「時間がないわ、イーク、行こう」


「行くとは、何処にだ――」


「上の階に覇王の剣の間があるけど、その窓の外にサヴォラを置いてあるの。さあ、早く着替えて、何でも粗末な服に。それこそ、小間使いみたいなのがいいかもしれないわ。あそこ、衣裳部屋なんでしょう、一つぐらいあるわよね、早く!」


 彼の心の中でどんな変化があったのかはラナにはよく分からないが、彼女の視界に映るイークは何かを決心したようにきびきびと動き始めた。すぐさま覇王の剣を放り出し、衣裳部屋の扉を開けて中に潜り込み、しばらくごそごそやった後に、息を切らし、髪をぐしゃぐしゃにして戻ってきた。その手にはお忍び用だろうか、庶民的で質素な服が抱えられている。


「……これで大丈夫か?」


「うん、いいわ、もうそこで着替えて。後、貴方は髪をどうにかしないと、外に出たら一発でばれて処刑台送りになるかもね」


 彼がその場で大急ぎで着替えている間、ラナは室内の棚や机の引き出しを漁って散髪に使えそうな鋏を探した。手紙の封を切る時に使うような小さいものしか見つからなかったが、それでも構わない。チュニックの腰をズボンごと帯で縛ったイークが近付いて来るのを確認すると、彼女は椅子を引いて鋏を手に取った。


「座って」


 言えば、彼はぎょっとした顔で身を引いた。


「……そなたが切るのか、ラナ?」


「いいから早く、時間がないの。私、自分の髪は自分で切っているわよ」


 半ば無理矢理イークをそこに座らせ、肩口で綺麗に切り揃えられた美しい髪をラナは躊躇うことなく、うなじのあたりでざっくりと切った。彼が肩を強張らせたのを感じたが、構うものかと横髪にも鋏を入れた。彼女は竜人族のマルクスの髪形を思い浮かべていた、さっぱりと短い、そこらを歩いていそうな、そして今の自分がさっさと整えられそうな。


「ごめんなさい、イーク。後でもっと、ちゃんと整えてあげる」


 ラナは更に彼の金髪を短く整えていった。前髪にも手を加えた。一通り終わった後に彼の顔を正面から覗き込んでみれば、そこにはすっきりした頭の青年が座っている。間に合わせにしてはいい出来だと満足感を覚え、彼女は彼の瞼、頬や肩に引っ掛かった髪の毛を払いながら言った。


「終わったわ」


 宮殿の何処かでまた爆発が起こったようだ、先程よりも近い、不吉な重音が再び城内に轟く。ぐずぐずしている暇はなかった。イークは頷いて、覇王の剣を手に取って彼が先ほどまで身に着けていたマントを引き裂いて鞘の上から巻き、帯の隙間に差した。それをどうするつもりなのだろうか、しかし扱えるのは皇族だけだ。放って行くわけにもいくまい。ラナも頷き、壊された扉の向こうに向かって二人同時に視線を向けた時だった。


「――陛下、イークライト陛下!」


 イークの表情が凍りついた。


「――まずい、宰相だ」


「抜け道なんかはないの、イーク――」


 ラナが訊く。非情にも宰相キウィリウスの声は近付いてくる。


「お部屋にいらっしゃるのですか、陛下――」


「父上に教えられてはいるが、上ではなく下に抜ける道だ、市民に押さえられているだろう――」


 ならばどう考えても扉から行くしかないのだが、焦ったような宰相の声はもうすぐそこまで迫っていて――


「陛下、お逃げ下さい……腕輪か、何だこれは」


「――選ぶ道はもうないわ」


 ラナは短剣を抜き、駆けだした――損壊した扉の前で癖のあるイオクス材木色の長い髪をうなじのあたりで纏めた宰相が何かを拾っている、その喉元に得物の切っ先をあてがい、叫んだ。


「動かないで!」


 宰相はびくりと肩を震わせて彼女を振り返った、そしてどういうわけか目を見開き、拾った腕輪を握りしめた。淡く翠に光るそれはラナのものだ。そういえばイークもこれを見てよもやと思ったなどと言っていた、と思いながらこの男をどうするかについて考えを巡らせた時、喉に短剣をあてがわれて今や死の淵に立たんとする男は、眉間に皺を寄せ、掠れた声で、言った。


「……ティリア?」


 彼女は自分の耳を疑った。どうして、この男は自分の母の名を呼んだのだろう?


「……私はティリアなんて名前じゃないわ、あと、その腕輪、返して」


 宰相は暫し押し黙った。そして、腕輪を握ったままこう口にした。


「……君は、アイスラー族か?」


「半分だけど、そうよ、貴方の命令で焼き払われた村でお母さんは生まれ育った。形見なの、早く返して」


 どうしたのだろう、しかし宰相キウィリウスは腕輪を手放そうとはしなかった。何かを考え込むようにそれを見つめ、再びラナを振り仰ぎ、じっと見つめてくる。その翡翠のような目には、この場には似つかわしくない、誰かに対する喜びと悲しみが混ざり合ったようなものが宿っていた。


「……君の名は?」


「ラナよ」


 半ば苛つきながらそう名乗った瞬間、宰相の瞳が大きく揺らぎ、大きく息を吸って、彼は再び呟いた。


「――ラレーナ?」


 今度はラナが眉間に皺を寄せる番だった。そしてそれは記憶の彼方から呼び起こされる。それはいつか何度も見た夢、狭い視界の中に、裾の長い美しく染色された服を着た誰かが母の声でラナ、と呼んで、自分に向かって腕を伸ばしてくるのだ。抱き上げられたその傍で、殆ど顔も覚えていないが、父だろうか、男がラレーナ、と呼び大きな手で頭を撫でてくれながら、朗らかな笑い声を上げている。そう、その声は目の前にいる宰相とそっくりで――


 母と二人で暮らす前。私は何処にいたのだろう、と、彼女はふと疑問に思った。


「……私はラナ、よ」


 気付いてみれば、無意識に心の何処かで彼女自身が何処で生まれたのか疑問に思っていたのかもしれない、ラナはだからこそ、己を“ラナ”だと思い込んでいた。お父さんはシルディアナ市民だったけれど、最初から一緒に暮らしてはいなかった、気が付いたらアイスラー族のお母さんと一緒に、シルディアナの酒場に住みながら働いていた、ただのラナ。


「……この腕輪に見覚えがある、いや、私が贈ったものだ。妻のティリアの故郷の伝統工芸を取り入れさせて職人に作らせたものだ」


 しかし、ただのラナは今や崩れ去ろうとしている。イークが後ろではっと息を飲むのが聞こえてきた。宰相キウィリウスの唐突な話は、彼女が知らなかった事実をこんな時に、そう、ぐずぐずしている場合ではないこの時に、目の前に突きつけてくる。


「陛下のご生誕と時を同じくして、ティリアが娘を生んだ。ティリアによく似ていた……目の色だけはアイスラー族の蒼ではなく、私と同じだった」


 視線がぶつかった。互いにそらすことが出来なかった。


「君はこれを形見だと言ったね?」


 宰相は何かに確信を持ったように、その言葉を口にした。ラナも頷いて、だんだんと現実味を帯びてきたその考えに確信を抱きつつも、もう一度同じことを織り交ぜ、言った。


「……そう、早く返して、私達、行かなきゃいけない」


「……そこにいらっしゃる陛下と共に、か?」


 それを責めるような声音はなく、見つめ返してくる瞳は穏やかだった。


「なら、行くがいい……最後に、訊いておきたいことがある。ティリアは今、息災か?」


 彼女は首を振った。その代わりに、母の今際の言葉を思い出した。


「五年前に病気で死んだわ……もしあの人に会ったなら、分かっていたけれど傍にいるのが辛かった、愛している、って伝えて、なんて言われたけれど」


「そうか」


 宰相キウィリウスは暫し何かを懐かしむような表情を浮かべてから二人にくるりと背中を向け、もう一度、行くがいい、と言った。何かを決意したようなその後ろ姿を、ラナはどうしようもなくやりきれない想いを胸にじっと見つめた。


 イークがそっと呼び掛ける。


「……ラナ」


「ええ、わかっているわ」


 宰相をその場に、二人はすぐ傍の階段を上へと駆け上がった。覇王の剣の部屋の前で伸びていた近衛兵は侵入者を捕らえる為だろうか、全てが姿を消しており、最早障害は何も残っていなかった。白い竜の彫刻を回り込んで、割った窓に辿り着く。

果たしてサヴォラは来た時のまま、そこで持ち主を待っていた。


「これか、ラナ」


「そう、窓から出て、乗って……」


 だが、そうは言ったものの彼女は動くことが出来なかった。自分と同じ色をした、あの目が忘れられない。侵入者であり敵であるにもかかわらず、穏やかに、あれだけの確信を持って彼女自身を射抜いてきた視線。そして、ラナにとっての母を妻と呼んだ、きっとあの男は――


「……駄目、私、行けない」


「ラナ?」


「イーク、私――戻らなきゃ、二人だけじゃ駄目」


 彼女は身を翻し、即座に駆け出した。後ろでイークが名を呼んだのが聞こえたが、そこにいて、と叫ぶぐらいしか出来なかった。今、頭の中は宰相のことで一杯だった。ああ、まだあの人はその場にいるのだろうか、それとも、既に何処かへ行ってしまっただろうか。だが、関係ない、自分は何としてでもあの人を探し出さなければいけない。もしかしなくとも、彼女にとってグナエウス・キウィリウスは――


 彼女は必死だった。一段飛ばしで階段を駆け下り、皇帝の部屋の前に滑り込めば――これ程までに精霊達に祈りを捧げたくなったことは今まで生きてきた中で一度もなかっただろう。幸いなことに宰相はその足でフェークライト鋼の扉の残骸の前に立っていた――ラナは叫んだ。


「お父さん!」


 宰相グナエウス・キウィリウス――父は、弾かれたように振り返った。


「ラレーナ――」


「行こう、ここから出よう、一緒に……お父さん」


 驚愕に見開かれたその翠色の目は、大きく揺れ、そして己に生きる資格などないと言いたいのだろうか、視線は何処か悲しそうに下を彷徨う。


「だが、自分は民にとって忌むべき存在だ、この国では父である前に宰相であって――」


「いいの、そんなこと、どうでもいいの」


 彼女は何度も首を振った。


「ティルクが死ぬほど怒ると思うけど、そんなこと、どうでもいいの。私もよく分からなくてまだ信じられないけど、でも――」


 ラナは父に走り寄り、その服の袖をしっかりと掴み、訴えた。


「行こう、お父さん、ちょっとでも死にたくない、って思うなら、行こう、私、お父さんと一緒に暮らしてみたいの。イークの部屋に使用人の服がもう一着ぐらいあると思うわ」


 彼は頷き、全てが決した。ラナが後ろを振り返ってついてきていたイークと言葉を交わす間、父は皇帝の部屋の中に掛け込み、凄まじい速さで着替えを終えて、部屋の中に何かを放り投げてから出てきた。


 直後、イークが部屋の中に舞い戻る。一瞬で飛び出してきた彼が引っ掴んでいたのは、少し色褪せたシルダ家の笑顔が写るフェークライト鉱の電子画のフレームだった。


 そう、邂逅の時に心の中で生まれた様々なもの、明らかになった真実の数々を吟味するのは今ではない、三人は急ぎ、爆発音が皇帝の部屋らしき所から聞こえても、走り、階段を駆け上がって覇王の剣の間にある窓まで辿り着いた。


 息を切らす暇もなく、彼女は今やその座を追われようとしている皇帝を急き立てて窓をよじ登らせ、サヴォラに押し込んだ。次いで、宰相の肩書を捨てようとしている父を行かせた。二人に予備のラウァを放り投げ、イークの懐近辺にある発動機を起動させ、勢いよく風が吹き出る、彼女は急いで自分もラウァで目を覆いサヴォラの下部に伸びる二つの車輪軸の前方を引っ掴む――機体は夜明けの空に舞い上がった。


 地平線が薄く金色に輝き、天に伸びる幾つもの尖塔の遥か上に瞬く星々が、帝都シルディアナに永遠の別れを告げようとしていた。おそらく、近いうちにここはもう帝国の首都ではなくなるだろう。そして、この国も変わる。吹きつける風の中、必死に両手で車輪軸を掴み直したラナの耳に青年の叫び声が聞こえてくる。


「どうすればいいのだ、これは――何をどう動かせばいい、ラナ!」


「俺に代われ!」


 サヴォラは、上昇気流を捉えたはいいものの操縦者が訓練を受ける筈のない……受けていない者だった為、縦に横に揺れて少女を振り落とそうとする。それが、少し後にぴったりと止んだ。


「ラレーナ、無事か?」


 後方の車輪軸に足を引っ掛けて体勢を立て直し、息をついた彼女の耳に、今度は幾ばくか落ち着いた父の声が降ってきた。


「大丈夫よ、お父さん……お父さんが操縦しているの?」


「そうだ、これでも昔はサヴォラ乗りだったからな!」


 ラナはそうだったの、と大声で返して、自分の視界に下の景色を映した。帝都のあちこちから炎が上がり、兵器庫と思しき所が見るも無残に破壊され、瓦礫の山と化している。フェークライト鋼の残骸が特に目立ち、宮殿に近い方を見やれば高い尖塔が数本、根元から崩れ落ちていた。本当にこれが自分のやりたかったことなのか、と彼女は考えた。確かにこの国の統治機構は変化するだろう、しかし――


「全く、私は……どうしていいかわからない! 恐ろしいことに、前も、今もだ、為政者としても情けなかったが――」


 再び、イークの大声が聞こえてきた。私もわからないわ、と呼応しようかと吹きつける強風の中で口を開こうとしたが、父の方が早かった。


「そうだ、これしきが操縦出来ないとは情けない! 今は皇帝陛下などという立場は消えてなくなったから、敬意を払う必要もないってことだ、イークライト! そういうわけで、君の頭にサヴォラの操縦の仕方を叩き込む必要がある!」


「な、何だって、キウィリウス――」


「そんなことより、何処まで行こうか、いや何処に行くべきだ、ラレーナ?」




 何処かへ行ってしまった君達を想わなかった日などない、と、グナエウス・キウィリウス――父は言った。一人乗り用サヴォラの魔石燃料が尽きるのは普段の三倍早く、スピトレミア地方に入るか入らないかの所でぐんぐん高度が下がり始めた為、急いで着陸したのだ。ラウァを外して、うっすらと跡が残るだけになってしまったアエギュス街道の終わりに立ち、東に視線をやれば、人気の全くない荒涼とした大地に棘だらけのスピトがぽつぽつと、くすんだ緑色に生え育っている。とある伝説では、ここを荒れ地にしたのは火の化け物であったとか……彼女は思い出していた。酒場で働いていた頃、厨房のナグラスから聞いたのだ。


 すっきりした短髪を弄るイークは町から出たことがないのだろう、あたりを歩きまわりながら、ひっきりなしに右へ左へきょろきょろと首を動かしている。ラナは、声の聞こえた自分の隣、サヴォラの長く白い翼に腰掛ける父を見た。こうして見ると、使用人のような服を着た一介のサヴォラ乗りに見えてしまうから不思議なものだ。板に付いている。


「確か十七歳だったね、ラレーナ」


「うん、そうよ」


 彼女は頷き、大地から空へとゆっくり、視線を上げた。たなびく雲は細く薄く、何処か物悲しい印象を受ける空は金色の光にあふれ、美しい薄蒼に輝く。


「……そうだな、イークライトと同じか。いや、よく……よく、生きていてくれた」


 此処にいればそのうちアルジョスタ・プレナの皆と会うだろう、ラナは考えた、しかし、この二人を連れてきたことについて説明しなければならない。父だからといって宰相が許されるわけなどないだろう、お飾りだったとはいえ、退廃の象徴としての元皇帝もいる。指導者の癖に誰よりも穏やかなアーフェルズがいるとはいえ、彼らを排除するためにアルジョスタ・プレナはあった。彼女自身もそれを目指していた。ところが今はどうだ。


 と、父の温かい右手が頬を撫でてきた。


「これからきっと、俺達は会うのだろうな、アルジョスタ・プレナの人々に。彼らは俺達を引きずり下ろす為に動いていたのだろう、そしてラレーナもその為に動いていたのだろう。そうだなラレーナ、共に暮らしてみたいとは思うが、本当にそれが出来るのか、とここまで来て思う……燃料が尽きた今、改めて逃げる手段もない」


「……お父さん」


 寂しそうなその声音に、ラナは思わず父の右手に触れる。ただ淡々と喋り続けるその表情は何かを諦めていた。


「この十三年間、何度も会いに行こうか、顔だけでも見に行こうかと考えた、だけど行けなかった。国を思うが故の苦しい決断の後だった、合わせる顔もなかった……今、会っていればよかったと後悔しているよ、もっと父親らしく、色々なことをしてやりたかった。こうも思う、あのアイスラー族の村を焼いていなければ、シルディアナ帝国が滅んでいたかもしれない、それこそあの疫病に皆が侵されて……シルダの末裔イークライトはどうか知らないが、帝都に住んでいた民、俺やティリア、ラレーナだってとうの昔に死んでいたのではないかとね」


「出来るだけ小さな犠牲で国を救えたのね?」


「いや、俺にそう言う資格はない、本当なら犠牲を出さずに済ませるのが正しい在り方だ……だけどラレーナ、悲しいことにそれは起きてしまった、そうなった時にただ指をくわえて被害が大きくなるのを眺めているなど、出来ないだろう? 如何に最小で食い止めるか、が鍵になっていた、だがな……悔しいことに、焼き払うしか方法を思い付かなかった俺の負けだ、恨まれるのは覚悟だった。この十年で人口も驚くほどに増えていたからね、余計に……それに、仕事を求める者も多くなった。帝都は古代から城壁を備えた町として完成していたから、働き口を増やすのが困難だった」


 話を聞きながら、ラナは散歩を続けるイークを観察した。少し向こうに生えているスピトの傍に寄って、何やら熱心に観察している。棘に指を近付け、触り、痛かったのだろうかすぐに指を引っ込めた。皇室育ち故の無知さと無防備さを見事に兼ね備えているようだ。


「そんな時に、サヴォラが増えてきた。貴族は自宅のある帝都でも、治める地方の領地でも、私設軍の為にと離発着用の尖塔を欲しがった。だから民に働き口としてその建設を命じたのだよ。ただ、間に合わせの仕事だ、いつか尖塔建築現場での仕事も尽きる……今思えば、行き止まりだったのかもしれない、国の限界だったのかもしれない。薄々気づいてはいたのだが、その次に何を描くべきなのかは想像出来なかった。他国を奪ってその土地を利益の対象にするなど、残酷なことなどするべきではないからな……そう主張する貴族の輩もいたが、俺はそういう奴は皆、権力の座から叩き落してやった。只でさえ先々代や先代やらが他国とやらかした後だったしな、下手をすれば国が潰されてまた犠牲が増えるだろう」


 グナエウスはそこで息をついて、空を見上げた。この人はこんなにも国のことを想っていたのか、ラナは知らなかった。知らずに、倒すべき相手だとずっと思っていた。父親でなかったら、このような話を聴く前にこの人の命を力ずくで奪っていたかもしれない。


 そう思うと胸の奥が痛くなって、彼女は腕に力を込めて父に抱きついた。


「お父さんが、私のお父さんでよかった。ちゃんと、お父さんの話を聴けたもの。どれだけシルディアナのことを考えていたか、私とお母さんのことを考えていたか、ちゃんとわかったもの。お父さんと一緒に来てよかった」


「――ラレーナ」


「疫病は悲しいけど、仕方ないもの。起こってしまったことで、もうどうしようもなかったのよ、終わってしまったし……だから、今から、どうするかだと思うの」


「……そう、だろうか」


「そうよ、お父さん」


 父のがっしりとした腕がしっかりと背中に回ってくる。ラナがその肉付きのよい胸に顔を埋めると、上から柔らかな低い声が降ってきた。


「ありがとう、ラレーナ」


 と、乱れた風の音がすぐ側を通り抜けていく。続いて上空からサヴォラではない奇妙な音が聞こえ、親子は聞いたこともない何かを妙に思って朝日が輝く空を見上げる――同時にイークが声を上げた。


「ドラゴンだ、此方に向かってくる!」


「何だって?」


 グナエウスは今一度、その方角を見た――三人が今いる場所に向かってどんどん近付いてくる翼の影の形は奇妙に歪んでおり、棘の付いた尾や頭は紛れもなくドラゴンのそれだった。彼はアルジョスタがまさか、と呟いた。


 何故、とラナは思った。アルジョスタ・プレナはドラゴン族と意思疎通が出来るラライの民まで懐柔して、ドラゴンまでも連れてきたのだろうか、いや、そんな話は一言たりとも聞いていない。アーフェルズは基本的に何でも喋る人間だ、作戦などは全員が把握出来るように全てを、参加している人員の種類、数まで何もかも直接伝えてくれる。そんなことを考えているうちに、朝日に照らされるドラゴンの体色がそれは見事な翠だということまでわかるようになった。しかし、三人はどうすることも出来ない。


 逃げようか、ラナと父が数歩下がり、戦うつもりか、イークが腰からマントの塊を出して覇王の剣を取り出そうとした時、それはあたり一帯に木霊した。


「イークライト・シルダ、その剣を破壊しなさい」


「――何だって?」


 彼は囁いた。ドラゴンの上には誰かが騎乗していた、近付いて来るにつれて、それが黒髪の若い女であることに三人は気付く。凛とした声はもう一度言った。


「祝福された人間と祖なる竜との、百年の約束です。懇意にしている旅のエルフが私達に使いを寄越しました、その剣を破壊しなさい」


 ラナはイークの方を見た。


「どういうことなの、イーク」


「剣にかけられた百年の呪いの話は聞いているのだが……約束?」


 翠のドラゴンは巨大だった。それはサヴォラと三人の目の前に地響きを立てて着地し、その背に取りつけられた鞍の上から黒髪の若い女が軽々とした身のこなしで飛び降りるのが見えた。ラライーナだ、彼女は早足で近付いてきて頷き、言った。


「ええ、約束です。これは祖なる竜から聞き語り継いできたこと、祝福された鎚を持つものは剣を打つことを望んでいませんでした。百年を越えて剣が破壊されなかった場合、剣を求めたシルダ家の者が剣を手放したくなるようなことが起き、破壊せざるをえなくなるように、という強い願いを掛けたのです。イークライト・シルダ、それを保ちたいと考えますか?」


 イークは押し黙った。彼は考えているようだった。


 覇王の剣の呪いの話なら、ラナもナグラスから少しだけ聞いたことがある。近いうちに、あの剣のせいでシルディアナに大きな事件が起こるのではないか、と料理人は言っていたが、それはアーフェルズが言うところの大革命、という形で表れた。


「……剣を破壊しないことで、これ以上何かが酷い形となって起こるのなら、これは破壊されるべき代物だと思うのだが、どうだ、ラライーナの女人よ。それに、私はもうシルディアナを統治する皇帝ではない、剣など無用の長物だ」


 少し間をおいて彼は言った。すると、ラライーナの若い女は全く表情を変えずに再び頷いた。


「私の名前はアリスィア・レフィエール、竜の末裔です。ならばイークライト・シルダ、竜の楔が穿たれたアイスラー族の村へ向かわなければなりません。私は剣の破壊の為、第一に貴方と剣を連れ出そうと帝都に向かいました。ところが宮殿の上空へ来た頃には剣が抱く竜の波動が消えていて、その時に普通ではありえない三人乗りをした一人乗り用サヴォラが竜の波動を放ちながら東に向かって飛んで行くのを見たのです、それを追って来ました」


 アリスィアは次いで、ラナと視線を合わせてきた。


「それと、そうですね、そこの……お嬢さん、とでも言うべきかしら? 見たところ、半分だけれど祝福された鎚を持つ者の末裔でしょう、来た方がいいわ。ついでにそこの宰相さんも見ておいた方がいいかもしれない。行けば、アイスラー族が持つ真の運命を知ることになります。さあ、そのサヴォラは燃料切れでしょう、ウィータに乗って下さい」


 翠色のドラゴン――ウィータが穏やかに喉の奥で唸る。相棒であるサヴォラをここに残していくのは躊躇われたが、皆の表情は急いている。ラナは再びラウァで目を覆い、前を向く。そして、あることに気が付いて地面に転がる石を手に取り、固い地面の上に深く文字を刻んでいった。




 痛いほど吹きつけてくる向かい風の中、ラウァを付けたまま、アーフェルズはちらりと後ろを振り返った。シルディアナ大革命の結末は市民らの手に委ね、彼の手の中には色々な事後処理が残っているだけだ。その為に彼は都シルディアナを離れ、革命の最中に飛び去って行ったらしい白のサヴォラの行方を市民から訊き出し、自ら一人乗り用のサヴォラに乗って東へ、追った。後ろからついてくるのはティルクのサヴォラだ。


 不思議なことに、さほど時間は要しなかった。果たして、スピトレミア地方の入口に探していた白のサヴォラは停泊していた。発動機の燃料が切れたのだろうか、何かが動いている様子はない。ラナに渡した風の魔石は袋三つ、スピトレミアのアルジョスタ本部から行って、帝都を一周して、誰かを乗せてまた本部まで引き返しても十分足りる量だ。おかしい、と彼は考えた。


「アーフェルズ!」


 と、背後のサヴォラからティルクが叫ぶのが聞こえ、再びアーフェルズは振り返り、自身も大声を出した。


「どうかしたか、ティルク?」


「地面を見てみろ!」


 地面に何かあるのか、それを傷つけてはいけないと考えて彼は白いサヴォラの上空を旋回する。そして覗き込んだ眼下、荒涼とした大地に刻みつけられた文字を見て、会いたい人がいないその意味が一瞬にしてわかった。


百年の約束を守るべく竜の末裔と共に

楔を穿たれたアイスラーの廃村へ向かいます ラナ


「何だって」


 アーフェルズは思わず囁いた。百年の云々、といえば彼は宮殿の一角にあった覇王の剣の間を連想するのだが、それは呪いであると聞かされてきた。その剣と、焼かれてしまったアイスラー族の村が関係していることなどは露ほども考えてこなかった訳で――


「俺は行くぞ、アーフェルズ!」


 ティルクが叫んだ。叫びながら、アイスラー族の青年は何かがあると踏んだのだろう、自らの重力で機体を器用にするりと北に向け、驚くべき速度で飛び去って行った。


 あまりにも一瞬の出来事だったのでアーフェルズは暫しあっけにとられていた。それからはた、と思い直し、自身も機体を北に向けた。あの文字は、刻みつけられてからさほど時間が経っていない。上手くいけばいざという時に自分がその場に居合わせることが出来るが、このまま放っておけばよくないことが起こるのではないか、という何かよくわからない予感が心の中に渦巻き始めていた。




 ドラゴンの足に結えつけられた縄を体に巻き付け、サヴォラとはまた違った不思議な浮遊感に揺られ、ラライーナのアリスィアに大声で自己紹介をしながら、彼らは低い山岳地帯一つと草原を越えてその焼け跡に到着した。その時には太陽は既に高く上がり、降り立ったグナエウスが額に汗をかくほどだった。


「ここがアイスラー族の村……」


 ラナは呟く。草原の終わり、森との境目に、十三年前に焼かれた村はあった。彼女の右隣で父が唇を噛み、うなだれたのが見える。その背に右腕を回すと小さな声で、すまないありがとう、が返ってきた。地面に横たわる焦げた柱や梁は粗方分解され、苔生した残骸が日陰にひっそりと息をひそめている。彼らは見つかっても何も言わないし、逃げもしない。ただ、物言わぬ碧緑の生命達はじっと動かずに、村の入口に佇む来訪者の様子を窺っている。


「ラナ、楔の……村の中に入るのは、まだよした方がいいわ。もしかしたら影響が出るかもしれないから」


 と、アリスィアが名を呼んでこう言ったものだから、彼女はどうして、と思ったことを疑問としてそのまま投げかけた。


「影響って何?」


「シルディアナの人々が疫病だ、と考えたものの正体よ」


 ラライーナはそう答えながら、自ら村の中へ歩を進める。

果たしてその身には何も起こらなかった。彼女が振り返り、再び口を開く。


「私はラライーナだから、何も起こらない。それに、イークライト・シルダ、グナエウス、おそらく二人とも大丈夫でしょう。村の楔の中で、聖剣――ケイラト=ドラゴニアを破壊する為の衝動が鍛冶師の子孫だけに発現する筈……私が祖なる竜から聞いたことが全て正しければ。では殿方、こっちへ来て下さい。その前にイークライト・シルダ、ラナにケイラト=ドラゴニアを渡して欲しいのです、鎚と剣が楔の中で共鳴し合ってとんでもないことが起こる可能性もあるので」


 呼ばれ、ラナの両隣にいた二人は躊躇いがちに一歩踏み出し、イークは何も疑問に思わず、振り返って右後方にいる彼女に覇王の剣を差し出した。彼女がそれを受け取ると男達は視線を交わし合い、意を決したようにアリスィアの傍まで歩いて行った。流れた一瞬の緊張は一陣の風と安堵の息がさらっていった、二人の身には何も起こらない。彼らはそこでまた顔を見合わせ、何とはなしに頷いた。


「大丈夫だったみたいですね。じゃあ、殿方には私と協力してこの楔――村の中にある筈の祝福された鎚を探してきて欲しいのだけれど、ラナは……そうね、村の入り口でそれを持ったままウィータと一緒に待っていて頂戴」


 ラライーナは言い残し、村の奥へと姿を消した。それを見て、イークとグナエウスも二手に分かれて去って行った。


 疫病の発生源となり、焼かれることになった母の故郷。取り残されたラナはドラゴンの近くに寄って、その場に座り込み、考えた。しかし、自らを竜の末裔と称したアリスィアはこう言ったのだ、シルディアナの人々が疫病だ、と考えた――楔の、村の中に入るのは、まだよした方がいい。アイスラー族の血を半分引いている彼女だからこそ、だったのだろうか。


「……アイスラー族、だから?」


 彼女は囁いた。そして、その“疫病”が起こった時に楔――村の中にはおらず帝都にいた彼女の母とティルクは、聞く限り何事もなく生きていた。そして、彼女自身も。

祝福された人間と祖なる竜との、百年の約束です。数刻前のアリスィアの言葉が、ラナの脳裏によぎった。


 これは祖なる竜から聞き語り継いできたこと、祝福された鎚を持つものは剣を打つことを望んでいませんでした。ならば、覇王の剣は、望まれずして生まれてきたものだということだ……彼女は考える。


 百年を越えて剣が破壊されなかった場合、剣を求めたシルダ家の者が剣を手放したくなるようなことが起き、破壊せざるをえなくなるように、という強い願いを掛けたのです。その強い願いが、人々が言う“疫病”の根源で、剣を手放したくなるようなことが、村の焼き払いから始まるアーフェルズが先導した革命なのだとしたら?


 アイスラー族が祝福された鎚を持つ者の末裔で、ケイラト=ドラゴニアと呼ばれる覇王の剣の破壊を遂行する為、つまり“疫病”に犯される為に存在したのだとしたら?


 だから、祝福された鎚がこの村にあるのだとしたら?


「それだ……きっと、それだ」


 ウィータが何事か、と言わんばかりに大きな金色の瞳で覗き込んできたが、ラナは無視した。彼女は何も考えず鞘に纏わりつくマントの残骸を剥がし、覇王の剣を抜いた。漏れ出た淡い光はドラゴンの首を仰け反らせ、竜の力を孕む鋼は雲を映し晴天の下に煌き、幾つもの大きな波動を命の鼓動が如く、生んだ。


 森がざわめき、鳥達が耳障りな鳴き声を上げて飛んでいった。彼女自身は何ともなかった――ただ、感じる圧倒的なものの奔流に畏怖を覚えていただけだった。ふと、地面が暗く濁る。空を振り仰げば雲が次から次へと沸き、あっという間に蒼を覆い尽くした。その中に、灰色のサヴォラが一機、全速力で近付いてくるのが見えた――あれはおじではないか?


「――ティルク?」


 そしてすぐそこには村の入り口がある。ラナがそちらを振り返れば丁度、祝福された鎚を探し当てた元皇帝を先頭にして三人が小走りで戻ってくる所だった。アリスィアは抜かれた剣を、空を、後ずさりするウィータを見てまずい、と囁き、グナエウスはすぐそこまで迫ったサヴォラの影に気付いて身を強張らせ、鎚を持つイークは真っ直ぐに彼女と剣を見つめる――


「ラナ!」


 間違いなくティルクの声が、叫んだのが聞こえた。


 真っ先に動いたのはラライーナのアリスィアだった、彼女はラナを引っ張り、貸して、と一言、覇王の剣を自らの手におさめてイークライト・シルダ、と呼び、廃墟群の真ん中へ向かって彼の腕を掴んで走り出した。グナエウスがそれを追い、ラナ本人は茫然としてそれを見送る、着地したサヴォラからティルクが下りてきて無事か、と問えども返事が出来ない――


「何故あの連中と共にいた、ラナ!」


「ティルク、剣を破壊しないと――」


「皇帝と宰相か――」


 回された腕は風を受け続けたせいか少し冷たい、だがその感触は一瞬で消えさり、ラナが言ったことなど耳に入れず、目に映る景色の中で彼女のおじは短剣を右手に風の如く駆けて楔を越えた――




 再生に向かう大地の上に横たえた覇王の剣に向かってイークが祝福された鎚を振り上げた刹那、彼は殴り飛ばされた。鎚は宙を舞い、地面に叩きつけられた彼はあたりをまさぐって何かを掴んだ。図らずもそれは災厄を生んだ覇王の剣の柄、咄嗟に起き上がって構えたその対極に虚ろな表情を浮かべるのはいつしか彼が自身の部屋で見たラナのおじ、ティルクと呼ばれる男。


 ごくりと唾を呑んだ時、ティルクが言う、聖なる剣を破壊せよ。その足元に転がるのは祝福された鎚、彼はそれをおもむろに拾い上げ、からっぽになってしまった蒼の、アイスラー族の目で見つめ、もう一度言う、聖なる剣を破壊せよ。


 何が祝福だ、イークは強く思った。自我を失った男は鎚を振り上げる。祖なる竜の祝福は、祝福を受けた者の願いは呪いに等しいではないか、愛する者の家族をたった今奪い、己めがけて振り下ろされる鎚に向かって彼は剣を受けの形で構え、そして愛する者さえもこちらに向かってくる、彼女がからっぽになるなど許せない――


「砕け、ティルク!」


 初めて彼の名を呼んだ瞬間、何かが粉々に砕け散る衝撃と共に光の渦が巻き起こり、イークライト・シルダは吹っ飛んで後頭部を何処かにぶつけ、鋭い痛みが脳髄に弾ける。


 アーフェルズの――兄の、叫び声を聞いたような気がして、何も分からなくなった。





☆作者追記

あんまり大きな流れに変わりはありません。既にSirdianna本編をお読みいただいた方にはわかると思われますが、破壊対象が違いますね。そしてアリスィアと知り合うのもここでした。こんなところで突然出てくるのはちょっとおかしいので、このレフィエールの一人娘には整合性及び抑止力としてもう少し出張って貰いました。

あとサヴォラに金属製の翼があるし、白い。この小型飛行機は、私がもっとファンタジー感が欲しかったので、術力の翼になりました。

ラナとイークの再会シーンももうちょっとドラマチックになっているかと思われます。

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