ラスト付近、別離のシーンから


状況:イークライトの部屋のバルコニーからふたりして侵入。びっくりしたイークに構わずラナは用件のみを、理由の説明もせずに伝える。




「腕輪、返して貰いに来たの」


 そう口にしたラナの背後には背の高い男が無言で立っており、月明かりの差し込む部屋の中に長く黒々とした影を落としていた。その姿はまるで術士が呼びだす闇の精霊ラフィムのよう、しかし蒼い瞳だけが何処かからの光を反射して鋭く輝いている。所々で細かく編んで後頭部にすっきりと纏めている長い髪は、おそらくラナと同じ栗色だろう、薄暗い中ででもそれは十分に判別できる。年は三十にも満たないぐらいだろうか、若々しさが全身に満ちているが、しかし纏うものは苦悩と哀しみ、そして何かへの憎しみだった。


「腕輪? 落として行ったから私が預かっていたのだが、ラナ、そなた、どうしたのだ」


 そう答えながらも、イークは普段とは違う彼女の口調に只ならぬ何かを感じ取っていた。異様な雰囲気を持つ見慣れぬ男が共にいるということも、それとなく煽られる不安の一つの原因だった。何か善くないことを言ってしまったのだろうか、それともしてしまったのだろうかと彼は記憶の引き出しを必死で漁りはじめる。


 その時、なくしものを探しているような表情になったイークに視線をやって、ティルクが口を開いた。その声は平坦で、発する音のそこかしこにシルディアナ帝国北方領の訛りが混じっていた。


「その御手にあるのだろう、イークライト殿下。此方に渡して貰おうか」


「おじさんは黙っていてちょうだい」


 帝国の北方出身らしきその男は、おじさん、と呼ばれたことに不満を覚えたようだった。眉根が寄せられ、彼の口調は苦々しいものに変わる。


「しかし、ラナ」


 ラナは自らがおじと呼んだ人物を振り返った。


「ここからは私とイークの問題よ、おじさん」


 彼女は、おじさん、をことさらに強調して言い放った。だが、男の方も負けてはいない。


「お前の問題は俺にも関係してくる。俺はお前を守ると帝都からふたりで去る時に誓った筈だ、だからこうしてついてきた。一族の、俺の……唯一の肉親である、お前に」


 イークは目の前に立ち話し合っているふたりを見つめ、これから起こることを想像しようとした。おじと呼ばれた男は自分を暗殺しに来たのかもしれない、ラナも暗殺者のひとりかもしれないと彼は考えた。どうして、ラナが宮殿の塔の上から風を纏って落ちてきた時、最初に出会った時に疑ってかからなかったのだろうと今更のように思った。だが、後悔するにはもう遅い、ということをイークは知っていた。彼はこの少女に惹かれ、心を許していた。


「ラナ、これを渡したらその後はどうするつもりなのだ?」


 だからイークは目の前の者に向かって問うた。ひょっとしたらもう二度と会えなくなってしまうのかもしれない、などという嫌な考えが一瞬心の隅をよぎったが、それは無視した。


「……どうもしないわ、戻るの」


 彼女は壁の方を向いたまま答えた。


「ならば、何故、そなたの背後に他の者がいるのだ」


「おじさ……ティルクはただ単に、私に付いて来ただけよ」


 ラナは全く視線を合わせようとしない。


「ふたりでここに訪れる必要があったのか、ラナ?」


「……ええ。貴方も聞いていたでしょう、さっきの私達の会話」


 イークは考えることもせず一歩、彼女に近付いた。すると相手は一歩後退り、ティルクというらしい男が微かに身じろいだ。その時、若帝はラナの服装と男の服装とがとてもよく似ていることに気付いた。上着の襟、袖や裾に見られる刺繍は様々な色を使った草花の装飾文様で、中のチュニックにも同様のあしらいがしてあった。


「……どうして逃げる?」


 ふたりを見比べ観察しながらイークがそう問うても、ラナの視線は斜め下だ。彼女は自分に対して後ろめたい何かを抱いているのだ、と彼には思えた。だが彼は残念なことに、それを訊く勇気を持ち合わせてはいなかった。他人の奥深くに遠慮の欠片も持ち合わせず踏み入るのは何も知らぬ愚か者のすることだ。


「イーク、返して」


 問いの答えの代りに、ラナは草食竜の子が鳴くような、か細い声でそう言った。


 イークは眉根を寄せ、己の左手にある彼女の腕輪を一層強く握りしめた。ただ、何処か納得がいかなかった。そんな彼の秘めたる想いには気付かず、彼女は続ける。


「母さんの形見なの」


「……そうか」


 一本調子でそう返せば、ティルクがその場から一歩前に進み出た。背の高い彼の姿は圧倒的な威圧感を纏い、瞳は有無を言わさぬ光を宿している……彼はその存在だけで、それを返せ、と命令していた。彼の精悍な顔つきからにじみ出るものは、例えるならば外敵から我が子を守り通す肉食竜の親のようで、イークは思わず身を引いた。


「わかった」


 左手を差し出すと、ラナの右手の指が微かにイークの手のひらに触れた。自分の体温でぬるくなった金属の重みが消え、蔦を描く腕輪の文様は闇の中で淡い翠に煌く。


「行くぞ、ラナ」


 すぐさまティルクが声を掛け、ラナはそっけないおじの後を追ってくるりと踵を返しバルコニーの方へと向かう。イークは反射的に彼女の名を呼んでいた。


「ラナ」


 ラナは振り返らなかった。それどころかその足は進むことをやめなかった。


「待つのだ、ラナ」


 もう一度、彼は先程よりも強い口調で呼び掛けた。そのまま、何もなしに彼らが去って行くのは許せなかった。


 彼女は立ち止まった。ティルクも振り返った。帝都の中心に幾つも立ち並ぶ尖塔建築の間で遊び踊っている風が、ほんの一瞬だけ強く部屋の中と三人の耳元を揺らし頬に触れ、そしてその場を支配したのは束の間の静寂、一呼吸を置いてイークは懇願するように語りかける。


「また……ここへ、そなたは、来ることがあるか?」


 ラナの若いおじは闇の中で、まるでイークを軽蔑しているかのように目を細めた。ラナの視線はあさっての方向に注がれている。故意に目を合わせないようにしているらしかった。


 次いで発せられたのは無機質な少女の声色。


「……そのようなことは二度とないでしょう、イークライト・シルダ皇帝陛下」


 イークは息を吸いかけて、やめた。それを想像して頭の中で打ち消そうとして、しかし起こってしまった、皇帝としても人間としても孤独な自分が最も恐れていたことだった。つい昨日まで親しげに話しかけてきてくれていた彼女は、あろうことか自分との間に一瞬で壁を作ってしまったのだ。


「……何故だ、ラナ」


「愚問を」


 イークの問いに、ティルクが重々しい口調で短く答えた。答えてから続けた。


「皇族たる陛下が外の、何処の馬の骨とも知れぬ者に心を許すなど、何とも可笑しなことだ。さぞかし宮廷は平和なのだろう」


「そなたには訊いていない、今はラナに――」


「なら、ラナも俺もアルジョスタ・プレナの者と知ったら殿下はどうなさるおつもりだ?」


 イークは、自身の鼓動が体内で嫌に大きく響くのを感じ取った。口の中に何か乾いたものを捻じ込まれ、無理やり飲み下したような気分だった。あの夜、気が動転して疑うことを忘れていた自分は敵対する人間に心を許し、自分の命、果ては帝国そのものを危機に晒してまで、相容れることの出来ぬ対象に無駄な気力を費やしていたのだ。


「どう、とは……」


「私達はアルジョスタ・プレナ、シルディアナ帝国反乱軍の人間なのです、陛下」


 その時、ラナの瞳の内にある光は真っ直ぐにイークを捉えていた。あまりにも強い、腕輪の無機質な光と同じ色のそれに心臓の奥を射られたような気がして、若帝は思わず彼女から身を引いた。感じたそれは畏れであると同時に哀しみでもあった。


「二度と、ないでしょう。陛下と私が会うことは、二度と……それは許されておりません、況してや祝福されることなど。そちらにとっても、私達の側にとっても、忌むべき関係となりましょう」


 彼女はゆっくりと首を横に振りながら言った。それは目に宿るものと同じ、無機質で、しかし何処か悲壮感を帯びた美しくも残酷な声だった。


 ティルクが再びバルコニーへと視線を戻し、ラナは踵を返す。イークはその場から一歩たりとも動けなかった。小さく彼女の名を呼んでも、その人はもう振り返らない。腕輪と同じ、袋から取り出した翠に輝く風の魔石をその手いっぱいに抱えた二人は、叩きつけたそれから溢れ出た突風に押し上げられ、見えぬ上空へと姿を消した。


 イークは再びラナ、と名を呼んだ。我に返り、彼女を最初に助けたバルコニーの縁まで突進して明けゆく夜空を見上げた。その時には既に一機のサヴォラが尖塔建築の立ち並ぶ帝都の上昇気流を捉え舞い上がっており、あっという間に金色の光が漏れだした東の空に向かって、小さな機体は流れ星のように去って行った。


 ただ、弱冠十七歳の若き皇帝イークライトにとっては、全てが夢のようだった。




「俺の腰にしっかりつかまっていろ、ラナ。決して離すんじゃない」


 受ける風の中で、怒鳴ってはいたが、ティルクの声色は何時にも増して柔らかみを帯びていた。ラナは言われた通りおじの腰にしがみつき、その背に顔を埋める。時に冷血な人間ではあったが、全身があたたかかった。そして彼の心は過度であるとはいえ、姪への愛情に溢れていた。


 少し癖のあるティルクの長い髪が一房だけ後頭部の束縛から解き放たれていて、ラナの額に何度も掠り、触れる。このおじは、唯一の肉親たる人物は何が危険で何が死に至る道かを理解していた。ラナがこのままイーク……皇帝イークライトのもとに通い続け、彼との間に信頼を築いていけば、彼女はいずれ皇帝の命を助けようとするだろう。そうしてラナは宮廷勢力に真っ向から敵対し、民衆を反乱させようとしているアルジョスタ・プレナの障害となり、果ては民衆の、革命が成功した後の国の障害となり、殺されてしまう可能性があった。


 説き伏せ纏め上げれば最高の戦力となり得る民衆だが、そのぶん彼らは時として盲目となる。シルディアナの危機を何とかして乗り越え次の時代へと進む為に、皇帝一族の処刑は手っ取り早く彼らを納得させることの出来る、最もわかりやすい方法なのだ。処刑名簿の中にティルクの姪が名を連ねるなど、決してあってはならないことだった。おじはそれほどに彼女を、人として親族として愛していた。


 ラナ自身も何となくそのことは理解していた。ティルクが彼自らの命を賭して自分を守り通してきたこと、これから起こりそして今の国家を転覆させることになるであろう、反乱のこと、民衆がはっきりと目に見える何かを求めていること。長い圧政の下で人々の心は荒んでしまった、それを治すのは良くも悪くも“変化”しかないのだ。変化の中では、必ず何かが犠牲になる。それは抗えない流れであり、仕方のないことなのだ。


 ただ、納得がいかなかった。出会わなければよかったと強く思っても、それは既に変えられない過去となっていた。イークとの出会いは、なかったことには出来ない事実だった。彼が皇帝などという身分でなければよかったと思っても、どういうわけか彼は皇帝で、やはりそれも変えられない事実だった。


 悔しさと後悔と哀しみと怒り、色々な感情がラナの心を支配し始めた。その真ん中にはどうして、という問いがぐるぐると渦巻き、黒々とした穴を穿っている。何処までも落ちて行ってしまいそうで、彼女はティルクの腰に縋りついた。おじがちらりと振り返り、時を経ずして皮手袋越しに大きな左手が腕に触れる。優しく撫でるその指はやがてラナの両手をしっかりと包み、その人の広い背中で彼女は堪え切れない想いが涙となって溢れてくるのを感じた。


 ラナの心はとどまることを知らなかった。ティルクは背で姪の体が震えているのを感じ、やがて見えてきた帝都の端に位置する東の丘に向かって降下を始め、クラント(速度を調整する取っ手)を手前に倒してサヴォラの速度を下げた。


 昇り始めた日の光を受け金色に輝くそこに降り立ち、ティルクはラウァ(サヴォラ乗りのゴーグル)を額に押し上げながら自分にしがみついたままの彼女の名を呼んだ。


「ラナ」


 その苦しみを味わったことはない。ただ、ラナが望まぬ別離とこれから起こるであろうことを案じ、悩み苦しんでいるのは事実だった。それを見ている自分も苦しかった。


 彼は腰に回された腕を振りほどいて草原に降り立ち、手を差し伸べてくる姪を抱き上げそのまましっかりと抱き締めてやった。


「泣け、構わない。俺はお前を受け止める、気兼ねなどしなくていい……ラナ」


 耳元で強く、ティルクは言った。


「好きなだけぶちまけろ、解き放て……全部、帝都に……シルディアナにぶつけてしまえ。お前は生きて、強くなる、俺よりも強くなる。今はあの街に置いてきてしまえ。叫べばいい、罵ればいい。そうすれば前に進めるだろう、乗り越えて、そうしてお前はもっと、強くなる、ラナ」


 それは嘗て自分が出来なかったことだった。彼はいつの間にか己の苦しみを声に乗せ、吐露していた。時を経て知識として得ただけで、自分ではやろうとしなかったことだった。そして、それをするには彼は年を取り過ぎていた。二十六という年月は短いようで重かったのだ。だが、泣きじゃくるラナをただ自身の体で以て受け止めることぐらいは出来た。それだけではあるが、感情と語彙に乏しい非力な自分を己の心の内で罵り嘲るよりはましだった。嘗て彼自身もそれだけで、他人の温もりだけで救われたことがあったからだった。


「俺はここにいる、大丈夫だ。またあそこに戻った時、非力だった自分ごと全て、お前のその手で握り潰してしまえばいい」


 小刻みに揺れる肩をしっかりと抱き、ティルクは朝日に揺れる自分と同じ色の髪を撫で、何度もラナの耳元で思い付くことを、半ば自分に言い聞かせるようにして全て言った。ぶちまけているのは彼の方かもしれなかった。だが、その体にアイスラー族の血を半分受け継いでいる少女は何も叫ばなかったし、何も言わなかった。ただ声を上げて泣くだけの彼女のその苦しみはふたりの間にある何かを越え、そっくりそのままではないにしろ受け取ったアイスラー族の若者がかわりに吐き出していた。ふたりは互いのあたたかさに縋っていた。




「遅くなってしまったな」


 ティルクは自身の右脇に姪の肩を抱きながら、スピトレミアの荒涼とした大地をアルジョスタ・プレナ本部の敷地に向かって歩いていた。支えがいるほどふらついているわけではなかったが、ラナはおじの逞しい腕が何よりも有難いと感じていた。皮手袋越しに伝わる微かな温もりも、今自分が後頭部を預けているしっかりとした肩も今は手放したくなかった。


「ラナ」


 もう見慣れた反乱軍組織の建物の前まで来た時、ティルクが立ち止まり言った。


「……何、ティルク?」


 ラナの、太古の深い森のような翠の瞳は背の高い彼を真っ直ぐ見上げる。そこに宿る光は、様々な感情を秘めて揺れる人間のものだった。


「お前がここしばらくの間何処に行っていたか、誰と会っていたかは……」


 おじはそこで口をつぐんだ。本当に言う必要があるかどうかを喉の奥で確かめているらしい、綺麗に晴れた空のような蒼の瞳はあさっての方向を見やったり、反乱軍本部の建物に移ったりラナの首元にいったりしている。ややあって、彼は自分に向かって頷き、再び口を開いた。


「偵察と称して何の為にここを抜けだしていたかは、アルジョスタの誰にも言わない方がいい」


 それはラナに関する噂を封じ、彼女と帝国との繋がりを臭わせる情報があちこちに流れることで本人が殺される危険性を取り除く手段だった。


 ティルクは続ける。


「エレミアにも、マルクスにも、だ。勿論アーフェルズにも言うな――」


「誰、にも言わない方がいい、だって?」


 突然新しい声がして、ふたりは咄嗟にその方向を振り返った。気配もなかった。朝日に照らされる影すらも見当たらなかった。何処から沸いて出たのだろうか、そこにはうなじのあたりで纏めた金髪を風に靡かせるアーフェルズが、普段から変わらぬ微笑を湛えそこに佇んでいた。いつもと同じように、ズボンの上に袖なしの麻のチュニックを着て、腰を帯で締めている。朝だというのに愛用の剣を下げ、皮手袋をはめていた。


「遅かったじゃあないか、ふたりして朝帰りかい? 本当に面白いことをするものだね」


 凍りついたふたりに向かって反乱軍の指導者は綺麗に苦笑し、それからゆっくりと歩いてきた。一連の動作には微塵も無駄がなく、それは洗練されており高貴で美しいものだった。


 ラナはふと、アーフェルズが何か別の人物と重なって見えるのに気付いた。全く庶民的ではない彼の立ち居振る舞い、言葉遣い、その眼差し、そしてその顔立ちは似ている……イークと名乗る若者に初めて会った時、齢三十を過ぎたこの男の名を思わず呟いてしまった程に。そして、イークはシルディアナ帝国の皇帝だ。


「アーフェルズ」


 彼女が名を呼ぶと、アーフェルズは怒り出すわけでもなく優雅に首を傾げた。


「どうかしたか、ラナ。私がどうして君達に気付いたか、疑問かい?」


「そうじゃないわ……そうじゃなくて」


 ティルクが何処か不安げにラナを見つめた。それから彼自身も眉間に薄く皺を寄せてアーフェルズを視界の真ん中に据え、そして何かに気付いたように僅かに目を見開き、薄く口を開ける。


「アーフェルズ、お前――」


「ああ、ティルク」


 反乱軍の指導者は突如そこで、一切表情を変えずにアイスラー族の男の声を遮った。


「貴方は中に戻っていて欲しい。私はラナと話がしたい、なにぶん大事な用件でね」


 ティルクは姪を見やった。彼女は寒くもないのにそこで凍りつき、眼差しの奥に恐怖を宿しながら微かに震えていた。


「しかし、アーフェルズ――」


「いいから、一足先に戻って休んでいてくれ。日が昇るまでサヴォラに乗っていたのだから、疲れたろう」


「何故サヴォラに乗っていたとわかる――」


 アーフェルズは微苦笑とともにティルクの額を指差した。そこにはラウァがしっかりと留めてあった。


「墓穴」


 言われ、おじは鼻と喉の奥に何かが詰まったような表情になって、それからしきりに後ろを振り返りつつ、のろのろと退散していった。何を訊かれるのか、どのようなことを言われるのかが恐ろしくて、ラナの膝はいよいよ、がたがたと大きく震えだした。


「ラナ」


 名を呼びながらアーフェルズが一歩近付くと、アイスラー族の少女は小さな悲鳴を上げ、ぎゅっと目をつぶって縮こまった。彼は思わず苦笑してその小さな背を抱き己の腕の中に誘い、慣れた手つきで髪を撫でながら、怯え、それでもこちらを見上げてくる瞳を覗き込んだ。


「恐がらなくていい、私は何を咎めるつもりでもないし、昨晩ぐっすり気持ちよく寝たから、こんな爽やかな朝に怒る気もない。安心してくれたまえ」


 歌うように言ってから安心させる為に口の端を緩めると、ラナがこくりと頷いた。頷いて顔を上げた彼女が、次の瞬間顔を強張らせてアーフェルズの腕を払いのけ数歩後ずさる。


「ラナ?」


 彼は突然のことに戸惑い、半端に手を伸ばしたまま固まった。そのまま近付くと、少女は更に後ろに下がって首を横に振る。どうしてそのような反応をするのか理解出来ず、アーフェルズは問う。


「どうした、私に何か変な所でもあるのか? さっき鏡を見てきたのだけれど何も変わった所はなかったぞ」


 それとも私の目は鏡に映る自分さえ見えていない節穴なのか、などと半ば自嘲気味な下らない冗談を言っても、ラナは表情を変えない。彼が何とかしようとその華奢な肩に触れようとすれば、ぴしゃりと手の甲を叩かれた。


「嫌、触らないで」


「何があったのだ、ラナ」


「こっちに来ないで」


 彼女の声が徐々に大きくなってくる。アーフェルズは逡巡した。だが、こんな所で何時までも立ち止まっている場合ではない。皆が起き、外に出てくる時間になりつつあった。


「どうしてだ、ラナ。一体何があったのだ、何故私を拒む」


「やめて、何も話し掛けないで」


「話さないとわからないだろう」


 その時、嫌悪の眼差しが此方を捉え、哀しみの涙が少女の頬に流れているのにアーフェルズは気付いた。自身が気に障ることをやったり、言ったりしたのかもしれない。だがしかし、心当たりは先程の己からの抱擁しかなかった、それも自分の中で傑作だと言えるほど優しく丁寧にしたつもりだ。何がどういけなかったのだろうと彼は不思議に思いながら再び手を伸ばし、その名を呼ぶ。


「ラナ」


「嫌よ、貴方と話したくない、顔も見たくない、何処かに行って」


 発する言葉は何も通じないだろう、と思えた。同時に、拒否されたことに対する強い怒りをも覚えたアーフェルズは一瞬で腹を括り、ラナの腕をがっちりと掴み強引に引き寄せた。大声を出すその口をもう一方の手で塞ぎ、無理矢理建物の陰へと力任せに連れ込んでから馬鹿者、と怒鳴り、右頬に平手の一発をお見舞いした。


 空気がはじけるような凄まじい音がして、彼女がよろけた。


「私の話を聴け、ラナ」


「……どうして」


 徐々に赤味を増していく右頬を庇いながら、彼女は今や堪えることもせず涙を流していた。しかしその瞳は燃えているかのようだ。


「私に構わないでよ」


 だが、アーフェルズとて譲るつもりはなかった。ラナが何故自身を拒み、何に怒り、悲しみ、怯え、震えているのかを理解し、そして少しでも癒す必要があった。唯一の親族であるティルクが行ってしまった後でもあった。自分は赤の他人もいいところだ、そうであるからこそ余計に放っておけなかった。


「いいや、構う。ラナ、君は何に触れ、何を見たのだ。何を知っている? でなければ……私は君のそんな態度を見たことがない、一度も。だからこそ心配で、どうにかして癒し、楽にさせてやりたいと思う」


「いらない……そんなの、いらない。貴方からのものなんて何もいらない」


「どうしてだ」


 アーフェルズは遂に座り込んでしまったラナに近寄り、膝をついてその顔を覗き込んだ。


「いらない……そっくりなの、似ているの。私が辛いの……貴方を見ていると、思い出すの。一緒なの、声も、目も、仕草も、言葉遣いも、無駄に優しい所も、笑顔も」


「そっくり……誰に似ている、と?」


 今度は肩を抱いても抵抗しなかった。彼は自分にそっくりな他人が、ここスピトレミア地方か何処かに存在しているのか、などと思った。しかし、その適当な考えは彼女の予想外の答えによってあっさりと裏切られた。


「全部、全部……憎らしい位にそっくりなの、イーク……皇帝イークライトに。私達の、アルジョスタ・プレナの敵に。倒さなきゃいけないのに……私、私」


「ラナ」


「どうして、どうして……イーク、ライト、なんて」


「ラナ、私は間違ってもイークなどではない」


 ラナが顔を上げる。アーフェルズは少し迷ったが、似ているという事実によって苦しんでいる彼女に己の真実を告げた方がいいと感じる。イーク、という名を知ってしまっているからにはもう無視することは出来ない、だから彼は強い口調で続けた。


「よく聴いてくれ。どれだけ似ていようと、私はアーフェルズと名乗る別の人間だ。そして出来れば誰にも言わないで欲しい、イーク……イークライト・シルダは私の異母兄弟だ、私は妾腹の子――」


 アイスラー族の少女は目を見開き、息をするのを忘れてしまったかのように固まってから、呼吸を止めた胸を自らの手で強く抱いた。


「――まだ誰にも、アルジョスタ・プレナの皆にも言っていない。エレミアにも、マルクスにも、君のおじ……ティルクにも、だ。本当の名はアルトヴァルト・シルダ、所詮、今は亡き先の皇帝が若い頃に、手を付けた使用人の女の息子……継承権はない。けれど、父も母のことも大好きだった」


 アーフェルズ……否、アルトヴァルト・シルダはラナの目から溢れ出る涙を親指で拭ってやりながら、言葉を宙に彷徨わせ、黙り込んだ。赤く腫れた彼女の右頬は痛ましく、彼は我ながら酷いことをしたものだと思い、再び口を開く。


「すまなかった、ラナ。思わずぶつ手にありったけの力を込めてしまった……許してくれ」


「アーフェル……アルト、ヴァルト、さん?」


「私も大人気なかった。それに、私を呼ぶのなら今までと同じ、アーフェルズ、のままにしていて欲しい」


 そう言って口元を緩め頷いてから、彼はラナの左隣に腰を下ろしその肩を再び軽く抱いた。荒れ地の廃墟を利用した建物の西側の影には石の隙間から朝日が差し込み、乾いた赤い砂の上に所々光の溜まり場を作っている。何処からか何かを焼いている美味しそうな匂いが漂ってきた、きっと養殖した草食竜の肉を直火で炙っているのだろう、しかしアーフェルズは朝食の香りも自分の腹が鳴る音も無視して、唐突に話を始めた。


「イークが生まれたのは私が十五の年の雨季だった」


 ラナは鼻をすすりながら、何処か別の世界を夢見ているようなイークそっくりの瞳を見つめた。そこには過ぎたものを寂しがりながらも慈しむ、優しい光が宿っている。


「お手付きが宮殿内で発覚して、母はその片隅で私を生んだ。私は貴族連中から蔑まれていたが、父の――ファールハイト帝の配慮もあって、有難かったよ、曲がりなりにも皇帝の息子としてそれなりの生活を送っていた。今考えてみたら、父のあれは戯れというより本気だったみたいだけれどね。立場ゆえに宮殿の中心には近付けなかったが、その代わり私は幼い、物心が付いたくらいから読書の合間に近衛隊や竜騎士軍の詰め所に通い、剣や槍で遊んでいた。皆、歓迎してくれた……そんな時、三十歳手前のファールハイト帝が正妻との間にようやく一子を儲けた。余程の難産だったらしい、まだ十七だった母親のイリシア――最も力の強いシルディアナ貴族、キウィリウス家の出身だがね――彼女は四日後に息を引き取った」


 アーフェルズがその優男のような風貌に似合わず己の得物である剣を軽々と扱うのはラナにとって前々から興味深い対象であったが、それは彼が帝国軍兵士や彼らの持つ武器と接点を持ち続けていたからだった。だが同時に、彼が皇帝にとって望まれていない子、必要とされていない人間であったということも痛感させられた。アイスラー族の少女は無意識のうちに、右肩に回る大きな手に自分のそれを重ねていた。


「ああ、心配は無用だ、ラナ……ただの昔語りに過ぎないからね。過ぎてしまったことだ、変えようもない……兎に角、難産の末に息をせず生まれ、宮殿付きの光術士によって蘇生させられたのがイークだ。イリシアの従弟にあたる宰相グナエウス・キウィリウスは大層喜んだらしい、同じ時期に彼の若い奥方が女の子を産んだというのも理由の一つだ。何でも、宰相の奥方は珍しいことにアイスラー族の女性だったらしい。私は、弟の誕生について特に何とも思わなかった、尊大な貴族連中の間を抜けて、兄さんだよ、なんて言いながら、大っぴらに会いに行くなんて出来なかったしね。最初で最後の一回はあったのだけれど。さて……それから飛んで四年後、皇帝家とは全く関係ないと思いながらのんべんだらりと宮殿の隅で暮らしていた私の所に、イークはあろうことか迷い込んできた」


 彼はそこでひとつ、大きな溜め息をついた。まるでこれから喋るのはあまりよろしくないことだとでもいいたげだった。


「……丁度、帝国北部のラライ国境近くにあるアイスラー族領で、原因不明の熱病が流行り一族の殆どが命を落とした、そしてファールハイト帝も崩御した、そんな時だった。宰相キウィリウスが恐怖を覚えるほどの無表情で、アイスラー族の町も畑も全てを焼くよう命じたのを覚えているな……私は小間使いの格好に変装して、物陰からこっそり政治を見るのが好きだったからね。キウィリウスの奥方はアイスラー族の女性だったのではないかと考えながら部屋へ戻り、元の服に着替えようと戸棚を開いた時に見付けたのさ、小さな男の子が中で膝を抱えて座っているのを」


「アイスラー族の町が焼かれた……」


 改めてそれを聴くのは心が痛んだ。おじのティルクが生まれ育ったのは、今はもうないその場所だ。そしてアイスラー族の血をひいているにも拘らず、自分は何故物心付いた時からシルディアナにいたのだろう、とラナは不思議に思った。アーフェルズは話を続ける。


「そう、後に聞いたことだけれど、キウィリウスも辛かったのだそうだ、奥方の故郷だったからね。しかし、原因不明の熱病が流行り、それが帝都や他の地域に拡大していけばこの国は間違いなく滅びる。やがては大陸全体に拡がり、殆どの人間を死に追いやってしまうかもしれない。それしか方法はなかったのだと思う……奥方は自分の旦那の行いに耐えられなかったのだろう、娘と共に何処かへと姿を消して、その後の消息は不明だ。兎も角、イークは書を読むことを嫌がって部屋から逃げ出し、迷って私の部屋へ辿り着いたのだ」


「じゃあ、貴方達は少なくとも知り合いなの?」


 翠の瞳が真っ直ぐラナを向き、ふわりと彼は微笑んだ。


「知り合いどころか、その日だけであっという間に仲良しだ。私には付き人もいなかったから、部屋の戸を開けてそこら辺にいる小間使いに頼んで、さっさと部屋に戻してやらないと罰を受けるのは確実だったのだけれどね。説得しようとしてもイークが泣いて嫌がるものだから……あの強情さには流石に参ったよ、だから手近にあるものと、私が思い付く様々な方法で遊んでやったのさ。母が教えてくれた庶民の遊び、とでもいうような簡単なやつだ。最も、夕刻の仕事終わりの鐘が響き始めた所で私が小間使いの格好をして、侍従長の所へイークを送り届けたのだけれどね」


 アーフェルズはその時のことを思い出したらしく、さも愉快そうに喉の奥で笑った。


「イークはどんな子だったの?」


「何よりもまず言えるのは、気が強かった。早い頃から芯があった、といってもいいかもしれない。どの幼子にもいえることだが、年相応に可愛らしかった。そして、かのエーランザ・シルダから私達一族が受け継ぐ光の力、イークが宿しているのは波動が此方にまで伝わってくるほどの強さのものだ……会ったのなら君も感じたのではないかい、ラナ?」


 乱れる気流の中視界に入ったバルコニーに立つ彼の姿が、ちらりと頭の隅をよぎる。あの時ラナが感じたのはとても強い存在感と、眩しい何かだった。


 アーフェルズはひとり頷き、再び話し始める。

「そう、あれはそういう人間だ。時折、イークは部屋を抜け出して似非小間使いの元へと忍んできた……立派に通い癖がついてしまったよ、全く。万が一のことを想定して、私は自身がイークの兄であることを告げなかった。だが、あれはまた普段からよく喋ったから……宮殿の隅に行っていることが侍従長の耳にでも入ったのだろう」


 ラナは彼の声色が少し変わったことに気付いた。その顔からは先程の笑みが跡形もなく消え失せ、見受けられるのは疲労と悲しみ、寂しさだった。

「数カ月も経っていないある日の夕刻、私が勝手に付けて貰っていた剣の稽古を終えて兵舎から帰って母を訪ねた時、扉を開いた時に見えたのは割れた皿の欠片と散乱する食事、そして白い食事机の上で血を吐いてこと切れている遺体だった」


「アーフェルズ」


「大丈夫だ、過ぎたことだから……」


 彼女に向けられたのは、とても笑顔と呼べるような表情ではなく。それでもアーフェルズが喋り続けるのは何の為せる技なのだろう、まるで誰にも言わず秘めてきた宝物の在り処を包み隠さず全て吐きだして、その中にひとつ眠る呪われた宝玉を砕いてくれと願っているようだった。


「それから、私はもう、宮殿にいられなくなったと悟った。妾腹の子が摂政兼宰相キウィリウス付きの小さな皇帝と関わりを持ってはいけない、庶民の出が殆どである使用人の子から余計なことを吹き込まれたら厄介だからね。留まる猶予などなかったよ、私は小間使いの格好で部屋から脱出した……母を置いて行くのは本当に、今でも……それでも、私は生きねばならないと心の何処かで強く思っていた。飛び降りた二階の窓から兵士の声が聞こえてきたのだよ、間一髪だった。私は数日間シルディアナを彷徨い、何の因果か屠殺場へ辿り着き、生きたままで運ばれてきた草食竜を一頭奪って帝都から逃げた。曲がりなりにも地のドラゴンの一族なのに、あの草食竜の足の遅さときたら……全く、走る人間よりひどい」


 彼は再びこくりと顎を動かし、ひどい、ともう一度口にした。森のような瞳に反射する朝日は暁光にむせぶくすんだ空に浮かぶ雲を、ラナのおじが放つ矢の如く鋭く射抜いている。


「そう、宮殿の隅にいたからこそ、私には見えた。国の状態はひどい、このままでは私達が暮らすシルディアナという国は駄目になってしまう……機能しない傀儡と化した若すぎる皇帝に、好き放題やる貴族の群れ、疲弊して皇帝に嫌気がさしている国民。全くもってひどい国だ……上手く時期が合わないと、対外戦争の相手国のシヴォンやらヒューロア・ラライナやらケールンの連中に潰されてしまう……商業的に発達したこの国シルディアナにも侵攻される理由はある。それがわかったから、私は生きようと思った……」


「憎くないの、アーフェルズ?」


 ラナは目鼻立ちのすらりと整った横顔を見つめ、尋ねた。


「憎いとは、また何故だい?」


「シルディアナは貴方のお母さんを殺した……貴方自身も追われる立場になっているわ、命を狙われて」


「ああ……いや、そんなことはないときっぱり言い切るね、私は」


 アーフェルズは少し微笑んで、左手の人差し指で眉の上を掻いた。


「私を追いやったのはシルディアナ、ではなく、宮殿の権力掌握にいそしんでいた連中だ、ラナ。それに、これから起こるだろう、混乱の中できっと、多くのものが失われるだろう……失うのは辛いだろう?」


 問われ、彼女は即座に強く頷いた。母を失った、住み込みで働いていた居心地のよい酒場も失った、その記憶は消えることのない痛みとして胸の奥で何時も鈍く疼いている。


 そんなラナをじっと見つめてから彼は続けた。


「失うことはごく自然なことだ。始まりがあれば終わりがあるのは当然だ、何時か手放す時が来る、そんなことくらいは私だってわかっているよ。わかっているつもりだ……でも、幾ら自然の摂理だと自分に言い聞かせたって、辛いものは辛い。辛いから……この国が、シルディアナの人々が失うものがより少なくなるような状況を作り、その中で国家として良い方向に変化するよう、誘導していかなければならない。それが自分にしか出来ないことだとは思っていない、だからこうやって、マルクスやエレミア、君のおじ……ティルクや、君の力を借りているのだよ、ラナ。だから、これから起こる辛いことだって、皆で力を合わせたならば忌避出来るかもしれない……それだけは、覚えておいて欲しい。そして、この話も……全て終わって私がまだ生きていたら、皆に披露するつもりだ。何処まで信じて貰えるかはわからないが、ね」




 皆が死んでしまったわけではないからね、まだ取り返しはつくだろう、アーフェルズは戻り際にそう言った。建物の裏から入ってすぐの洗濯場で、それはどういうこと、とラナが訊き返そうとした時には既に、その顔に微笑みをたたえた彼は食堂へと続く扉を開けて入っていくところだった。反乱軍の敷地内で話すようなことではないのだろう、と彼女は思うことにし、そして一刻も早く休息を取りながらこの人が話してくれた物語を頭の中で反芻したかった。


 ふと誰かの視線を感じてそちらを向けば、二階へと続く螺旋階段の柱の陰にティルクがいて、心配そうな視線とともに気遣いの言葉を寄越してきた。


「……大丈夫だったか、ラナ」


「うん、大したことはなかった」


「そうか」


 言ったすぐ後に歯の間から息を吸い込んで、そうか、ともう一度繰り返し、おじは彼女に近付いて問うた。


「それにしては随分長かったと思うけれど」


「殆どがアーフェルズの雑談だったわ」


「……本当か?」


 ティルクの視線はラナの右頬に注がれていた。そこは先程アーフェルズにぶたれた所だ、きっと赤くなっているのだろう。隠していてもややこしいので、彼女は素直に言うことにした。


「あの、アーフェルズが……余りにも似ていたから、その、優しくされるのも話を聴くのも嫌で振り払おうとしたら……話を聴け、って。私が悪いのよ、ちっぽけなことで取り乱したりしたから」


 喋りながらの苦笑いは上手く出来ただろうか、いや、疑問に思う必要はない、出来ただろう。つい今しがた胸に刻み込んだ皇帝の兄の言葉が声も鮮やかに蘇ってきた。大丈夫、辛いことを先延ばしにしているだけかもしれないけれど、この心が耐え抗う準備をする時間はあるだろう。彼女は思いながら右脇の窓の外を眺める。棘だらけの鈍い緑色のスピトが点々と散らばる砂色の大地を空との境界線に向かって目で追っていると、体温の高いおじの大きな手が右頬に触れてきた。荒涼とした景色はこれから己の魂が歩いていく道程のようだ。ようだけれども――


「大丈夫よ、ティルク」


 ラナは彼の優しい手をそっと撫で、言った。偽りなき本心だった。





☆作者追記

前半部分は存在しないシーンになりました。ラナの軌跡、イークの軌跡が定まった2章の時点でこの未来が成り立たないことに気付いたのです、私が。

学舎での他者からの扱いに耐えられなくてエイニャルンを脱出したラナが偶然にもイークの元を訪れて、以来スピトレミア地方から通っていたという設定だったのですが、距離的に無理はなくとも、彼女のメンタルは私が想像していたよりもずっと強かったようです。

帝国に対する根回しや工作も大詰めで運命の日を定めようとしていた矢先でもあったので、ティルクにバレたらそりゃ通い禁止ですわな。しかも皇帝だし。その辺の貴族だったら、イークも上手いこと工作の手先になってくれたんでしょうけれど。そうは問屋が卸さねえぜ!!

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