白翼の聖女
久遠マリ
冒頭部分
私は、飛んでいた。
澄み切った真っ青な空と、頬を叩き掠めていく風の塊。髪は全て後ろへなびき、言い表しようのない高揚感がこの体を満たす。
地平には美しく若緑に輝く草原と、それを食む動物たちの群れが次々と現れては消え、を繰り返していた。何処まで行っても私は落ちなかった。私は純白の翼を持つ何かの上に、ずれることもなく、いた。
やがて霞む大気の向こうに見えてくるのは、高い塔が幾つも建ち、並ぶ帝都シルディアナの壮麗なる眺め――
「ラナ、ラナ! 何時まで寝ているつもり、早く起きなさい!」
名を呼ばれ、ラナは一気に覚醒した。目に飛び込んできたのは、住み込みで働いている酒場の奥の部屋の天井だった。真ん中に雨漏りの染みが広がっている。
気分はまだ高揚していた。風の感触が忘れられず、ラナは自分の頬へと無意識に手をやる。眠気は全く残っていない。
「ラナ! 今が何の刻かわかってるの?」
「はいっ」
すぐそばから聞こえた大声に、ラナは思わず飛び上がってベッドから転がり落ちた。少し呻き、打ちつけた腰をさすりながら起き上がって、着替える為に服をまさぐった。
帝都シルディアナの朝は、早い。
下層市民街の酒場には、下層市民が日雇いの、それも夜だけの仕事で支給される金を持って、朝から客がやってくる。彼らは皆薄汚れた格好をしており、口々に食料の買い溜めが出来ないだの、新しい服が買えないだの、様々なことを言う。たまに、騎士身分の者も情報収集をしにやってくる。この下層市民街に隠れている反乱軍の尻尾を何としても掴みたい、のだそうだ。
太股が半分ほどあらわになる裾の短いチュニックを着て、革のベルトで腰を締めた。それから膝上まで長さのある黒の、光沢のある薄い靴下をはいてブーツの紐を固く結び、ラナは最後にベッドの脇の個机の上に置いておいた鋼の腕輪を手に取った。
以前、この腕輪を譲ってくれないか、という客がいた。何でも、蔓をかたどった模様が波打つように淡い緑を描いているのが気に入ったらしい。だが、これは五年前に病気で死んだ母ティリアの形見だった。手放す気はさらさらなかった。珍しいもので、買い取ろうとも言われたがラナはそれでも首を振った。
その客には、給仕のくせにぜいたく者だ、と嫌味をぶつけられた。下層市民には指輪ひとつ買える者など何処にもいなかった。
「ラナ、客だよ」
全ての支度を整えてラナが店の方へ顔を出すと、先程の大声と同じ声が呼び掛けてきた。
「お早う、サイア」
「お早う」
ようやく陽が昇り始めた、五の刻だった。これから夜が更ける二十の刻まで、休憩は一度しかない。今日も大変な一日になりそうだった。
朝っぱらで眠い時刻だと言うのに、サイアは眩しいぐらいの笑顔で客の相手をしていた。すらりと伸びた足は美しく、よく動く大きな深い青の瞳は魅力的で、何のもつれもなく真っ直ぐ伸びた金色の髪は揺れると風の精霊フェーレスの囁き声のような音を立てるのだ。
サイアはまた、物分かりが良くて優しかった。何もしないと帝都シルディアナで有名な若い皇帝なんかよりももっと良い国を作れるんじゃないか、とラナが思うくらいだった。そう、自分達みたいな下層市民も苦労ばかりして死んでいくのではなく、少し宝石を買ったり出来るくらいの生活がある、国。
朝の客は、宮廷の噂をしていた。何でも、宰相の計らいで宮殿にももう一つ巨大な塔が作られることになったらしい。そろそろ仕事が増えるぞ、という明るい声が、酒を運ぶラナの耳に届いてくる。
「なあ、嬢ちゃん」
と、ほろ酔い状態の客が容器に声をかけてきたのでラナは振り返った。
「何でしょう」
「サヴォラの為の塔を何であんなに沢山作るのかはわかんねえが、少ない入りでも仕事が増えるなら有難いと思わんか、え?」
確かに、食べ物にありつける金を稼ぐことの出来る仕事が増えるならいい、とラナも思った。思って、頷いた。
透明な窓の外に見えるのは帝都の中心、サヴォラという名の小型飛行機が離発着する為の高い塔が幾つも大地から突き出てそびえたつ光景。朝靄の中に煌くサヴォラが数機、こんなに早い時間から羽虫のようにぐるぐると旋回していた。下層市民が生涯行くことの出来ない場所を彼らは飛んでいる。
振り返ると見えるのは、明るい表情で動き回るサイア。その向こうには草食竜の肉を焼き、香辛料で味付けをしている料理人のナグラス、スープの鍋をかき混ぜている酒場の女主人フローリシェ。何時もと殆ど変らない朝だった。
昼を過ぎたあたりから、連中は酒場に戻ってくる。
この建物には地下があることをラナは知っていたし、そこに下りたことも何度かあった。食糧庫だからだ。そこには草食竜の干し肉やシルディアナ帝国でしか取れない香りのきつい香辛料が大量に保管してある。干し肉と香辛料の中に入って、彼らは毎日夕刻まで何かを話していた。好き好んで入る場所ではないから、きっとよからぬことに違いない。夜になればその日のつとめを終えた帝国軍の兵士達がやってくるので、下手な話は出来ないからだ。
アルジョスタ・プレナと呼ばれる反乱軍はここ数年で大規模になってきているらしかった。酒場の客が言うには、帝国軍の半分ほどもいる、とのことだ。ラナは、きっと昼過ぎに戻ってくる者達は反乱軍の人間ではないか、と思っている。だが、彼らが一体何であるかはサイアもナグラアスもフローリシェも全く口にしなかったし、ラナ自身も敢えて訊かなかった。たまに声を掛けてくるとき、彼らの表情――といっても鼻から下を布で覆っている為に目だけで汲み取るしかない――は柔らかだったし、敵意を向けてくることもなかった。ラナは腕輪の緑と目の色がそっくりで美しい、と言われたことがあった。
「竜酒を三つと、乳酒を二つ頼む」
今日もまた彼らのうちのひとりがそんな注文とともにラナの肩をぽんと叩き、他の四人とともに地下の梯子を下りていった。
草食竜の肝を水につけて発酵させた酒は非常に臭いがきつく、癖がある。何故こんなものを好むのか、などと思いながら、ラナは盆の上に五つのグラスを乗せて店の奥へと向かい、そっと梯子を下りた。
「……が嗅がれているかも知れない」
「確証は?」
「特に。だが、いずれにせよここはもう危ないだろう」
ラナは梯子を下りるのを思わずやめた。聞き捨てならない言葉だった。
彼らの会話は尚も淡々と続く。
「しかし、その為にここから更に穴を掘ったんじゃないのか」
「それはいざという時の為だ、だが……」
「今がいざ、という時だろう」
「違う、奴らは……いや、竜騎士団が近いうちに摘発を行う。それも、シルディアナの城壁内全てで」
「なら、穴は使えたとしても、どのみち出口で終わりか」
「そういうことになる……おれは、その時が来たら腹痛を起こすつもりだからな」
これは、単にこの人達だけが危険なのだろうか、とラナは思った。店の人にも知らせる必要性がある。だが、その前に盆をひっくり返しそうになって何とか不安定な梯子の上に踏み止まった。
「そんなに器用に腹痛が起こせるもんか、マルクス」
「起こせるさ。言えば何とでもなるからな」
「冗談を言っている場合か、ふたりとも」
「言っている場合さ、ティルク。初めてここに来たからって固くなるな。それに、梯子の所で――」
マルクスと呼ばれた男がいつの間にか自分を眺めているのに気付いて、ラナはびっくりした。肩の震えが竜酒を少しグラスから減らす。
「――お嬢ちゃんが、荒れ地のスピトみたいに固まってる」
全身針だらけのものいわぬ植物などではないと言い返してやりたかったが、ラナの口は思い通りに動いてくれなかった。立ち上がってラナの方へ近付いてくるマルクスと云う男は気を使って場を和ませようとしたのだろうが、何が面白いのか何処で笑っていいかなんてラナにはさっぱりわからなかった。
「……聴かれていたか」
ティルクと呼ばれた男はランプの光だけの薄暗い中で目を細める。マルクスが硬直したままのラナの肩を親しげに抱いた時、鋼の腕輪が炎に反射して一瞬、きらりと煌いた。
「おれ達のことは怖がらなくていいよ、お嬢ちゃん。元々ここはおれ達の家だった……そこに、今の酒場が入ってきたんだ。ねえ、名前は?」
「……マルクス」
ティルクが、ラナの腕輪から目を離さずに鋭い声を出す。ラナはマルクスと言う男の顔を見てみた。太めの眉に引き締まった顎、黒い瞳は人懐こく輝き、短く切られた髪は背後の闇に溶け込むほど暗い色だった……明るい所に出たらわかるだろう。そして、その背で呼吸に合わせてゆっくりと上下するのは、これまた暗い色の鱗に覆われ、まるで刃のような鉤爪がついた、紛れもない蝙蝠のような大きい翼。
「……竜騎士?」
「おっと、しいっ」
ラナは思わず大きな声を出して、マルクスにやんわりと咎められた。おいそれと口に出してはいけないことだった。
「確かに、おれは竜人族ではあるが、竜騎士といえる者ではない」
「でも、どうやってここへ入ってきたの。さっきはそんな大きいもの、見えなかった」
マルクスはラナがひそひそ声になったことに満足したらしく、にっこりしながら自身もまたひそひそ喋った。
「見えなくするんだよ、術士の術で」
「さあマルクス、いい加減その娘に構うのはやめにして、酒を持ってきて貰いたいもんだ」
また別の、四人目の男の声がしてマルクスから解放されたラナは、さっきより幾分か中身の減った五つのグラスを彼らの集まる円の中心へと運んだ。肩と肩の間からちらりと見えたのは、ランプの光に照らされる薄汚れた獣皮紙の束と図面のようなものだった。ラナは字が読めなかったが、それが妖しいにおいを放っていることぐらいはわかった。酒を飲み過ぎて暴れ出す前の客みたいなものだろうか。その間じゅう、ティルクがずっと射るような目で自分を観察しているのが気配だけでわかった。
五人はラナが引くまでひとことも発しなかった。余程聴かれたくない話のようだ。梯子を上がりきるまで、十の視線は客がラナのチュニックの中を見る時とは全く違うものを抱きながら追ってきた。彼らにとって少女の下着などはどうでもよいもののようだった。
今日に限って地下での会話をとてつもなく聴きたかったが、昼下がりの酒場には夜の働き手達がまだ沢山いて浴びるように酒を飲んでいたので、ラナは諦めて接客を再開することにした。ただ、ここはもう危ないだろう、という言葉が頭から離れなかった。言いようのない不安が心を薄く覆っていた。
サヴォラの塔が立ち並ぶ帝都の中心地区は、空気が塔と塔の間を通り抜ける時、それが強い風となる。今晩みたいな風の強い日にその巨大な建造物の間にでも立とうものなら、余程幸運でない限り、翌朝固い石畳の上から起き上がることは出来ないと言われているくらいだ。そしてその塔はたったの二つではなく、両手両足の指の数以上は優に越していた。当然、風は乱れる。
あの五人組の不吉な会話を聴いてから三日が経っていた。ラナはどうしてか眠れずに、窓の外に見えるサヴォラの群塔の方にぼんやりと視線を彷徨わせていた。今日の朝の客が、乱れる風に塔が耐えられるのは火を扱う術士の精錬技術と、遥か東のケールンという国から輸出されてくる鉱石とがあるからだ、と言っていた。だが、こんな強風では火術士の生み出す炎もあっという間に消えてしまうだろう。窓はガタガタ鳴りっ放しだ。
明日もまた早いのに、と思いながらラナは小机の上の腕輪を手に取った。暗闇の中で、淡い緑の蔓模様が微かに光を帯びている。南の海へ行った時に見た夜光虫そっくりだった。
酒場の方からは笑い声と歌声が聞こえる。透き通るようなのびのびとした鳥のようなそれはサイアのもので、今日に限って真夜中まで働いているようだった。ナグラスやフローリシェはいつも四刻分しか休みを取らないのに元気だが、サイアは七刻分眠らないと翌朝寝坊する筈だ。それもこれも強風のせいだろうか。
ラナはベッドの上で身を起こし、じっと耳をすませた。ナグラスの雷のような大声が薄い壁の向こうから腹の底まで響いてくる。様子を見てみたいと思い、ブーツをはいて紐を緩く結んだ。少しだけにするつもりだった。起きていることがフローリシェにばれた時、咎められるのは面倒だった。いつもは優しい女主人の説教は長い。ラナは失くしたくなかったので腕輪もはめた。
酒場と寝室を隔てている扉を、音をたてないようにして少しだけ開き、ラナは隙間からそっと様子を窺った。昼働きの労働者が薄い酒のグラスを持って酔っ払い、三人の帝国軍兵士の人間がそれを呆れたような目つきで見やっている。兵士のうち一人は二の腕に術士の腕章をつけていた。赤い色から、火術士だということがわかった。
と、後ろで微かな音がして、ラナは咄嗟に振り返った。
だが、そこに見えるのは暗闇ばかりだった。きっとネズミか何か、小さいものに違いない。ここから更に穴を掘った、とかなんとかいう三日前の台詞が頭に蘇ってきたが、それは有り得ないと思ってすぐさま打ち消した。
ラナは兵士達を観察した。三人とも、酒を水で薄めながら飲んでいる。酒を控えろという規律でもあるのか、と不思議に思った時だった。
ガタガタと風でやかましい音を立てていた酒場の入口の扉が爆発するかのように開き、はね返り、再び開いた時に闇のような姿がランプの光の中に飛び込んできた。
その場にいた者は皆何事かと振り返る。入ってきたのは黒衣の人間、蒼く輝く瞳だけしか見えない。背の高さと身のこなしは男、彼は三人の兵士に気付き僅かに身を引き緊張した目つきとなった。
しんと静まり返った瞬間、外で誰かの叫び声が響き、石畳に木霊した。黒い男は弾かれたように背後を振り返り、次いでラナへと鋭い視線を投げ、腰に手をやる――
「――黒のアルジョスタ・プレナ! 観念しろ、この先は行き止まりだ!」
外からの声にふたりの兵士が武器をとる。軍の術士は手を構え、短剣を抜いた黒衣の男をひたと見据え、その両手から炎を飛ばした。刹那、開きっ放しの酒場の扉から数人、新たに黒衣の人間が飛び込んできて躓き炎に巻かれおぞましい悲鳴を上げる。最初の男は体勢を崩し転んだが、酒場の床で前転し炎を避け――
「ここだ、逃げたぞ!」
「アルジョスタ・プレナの拠点だ、潰せ!」
突如なだれ込んでくるのは帝国軍兵士の群れ。焼けただれた顔を覆い転げまわる黒衣の者の身体にたちまち三本の剣が生え、鮮やかな血飛沫が壁に走った。サイアが叫んでグラスの乗った盆を落とし、ナグラスが怒鳴る。
「殺せ、皆だ! 誰も逃がすな!」
白と金の鎧を身に付けた兵士が大声で指図し、哀願する下層市民達の腹や首から次々と鮮血が噴水のように散り、床を染めた。最初の黒衣の男の短剣が折れ、近くのテーブルについていた中年の男の腕を掠る。ラナは動けなかった。サイアがこちらに向かって走り来るその後ろで、フローリシェが煮えたぎる鍋の油を軍の侵入者に撒き散らしている。ナグラスはありったけの包丁を手に投擲を始めていた。
ラナは後ずさり、サイアより先に地下へと逃げ込もうと梯子に手を掛けた。掛けた時だった。
「――大人しくしろ」
不意に耳元で聞こえた声が身体を凍らせ、ラナは動けなくなった。振り返ろうとした瞬間手で口を塞がれ、手に力を入れれば締まった腕で背後から両腕ごと捕えられ、身動きが出来なくなった。悲鳴が口の中で行き場を失い、ラナは絶望した。尚も耳元で低い声が、囁く。
「……暴れるな、動くんじゃない。じっとしろ」
刃の冷たさも鋭い痛みも未だ来ない。扉の向こうで悲鳴が絶え間なく響き、サイアが寝室に駆け込んできた。そのまま彼女はラナと“誰か”がいることにも気付かず、小さな窓の鍵を小刻みに震える手で弄り始める。
ラナを捕まえる者の腕に力が入った。怒声とともに数人の若い兵士が寝室への扉を蹴破り、窓から逃げようとするサイアの足を荒々しく引き床に倒した。恐怖におののく彼女の瞳と兵士の姿にラナは声を上げそうになったが、口を覆う大きな手が一層何かを込めてくる。まだ見付かっていない二人の目の前でサイアが床の上に仰向けで束縛され、ひとりの兵士の篭手が布を裂いた。
三人の帝国軍兵士の下卑た笑みがサイアの悲鳴と身体を舐めとり、あらわになった白い肌は忌々しい汚れた手によって犯されていった。ラナは嫌悪感と恐怖と罪悪感にまみれ、溺れ、涙を流していることにも気付かなかった。断末魔の叫び声が耳の中で絶え間ない雷鳴のようにがんがん響き、目を固くつぶっても吐き気は込み上げてきた。闇に紛れたまま出て来られないような気がした。
愉しみに走る兵士と泣き叫ぶサイアの前でどのくらい動かずにいたのだろう、ラナを捕まえている者の顎がふと何かに気付いたように動く。続く悲鳴は殆ど消え、呻き声と話し声、金属の触れ合う音が代わりに酒場の客として招かれていた。ナグラスとフローリシェはどうなったのだろうという思いがラナの頭の隅をちらりとよぎった。新たに聞こえてきたバサリ、バサリと布を広げる時のような音を混乱した意識の中に迎えながら、いつの間にか黒い衣に包まれたラナは出せない声の分まで涙をとめどなく流した。彼女を捕える者共々息を殺し、ふたりはひたすらに闇の中で待った。
きき覚えのない男の声とともに布を広げる音は止み、水を踏む足音が酒場に木霊する。だんだん近付いてくるそれは三人の兵士とサイアに気付いていて、そして怒気を孕んでいるようだった。
凄まじい音を立ててその扉が開いた時にラナが見た者は漆黒の巨大な影が怒鳴る所だった。
「お前達、何をしている!」
三人の兵士は飛び上がって声の主を振り仰ぎ、次いで即座に息を呑む。そこで仁王立ちしているのは三日前にラナが見た竜人族で――
「ギ、ギレーク竜騎士団長!」
身だしなみをすぐさま整えたひとりの兵士が直立し、後のふたりもそれに倣う。ギレーク竜騎士団長と呼ばれた竜人族の男は燃えるような瞳でそれを睨みつけ、床でさめざめと泣くサイアを見下ろす。
「……こんなことをしろ、と誰が言った」
誰も答えなかった。竜騎士団長の背後から幾つかの巨大な影が現れ、寝室に足を踏み入れる。
「答えてみろ、誰が言った」
尚怒気を孕む声はラナの心をすくみあがらせた。
「……私はアルジョスタ・プレナの者を捕えろという命を受け取った。お前達は他の人間の部隊ではあるが、同じ命令を受け取っている筈だ……市民まで手にかけるほど帝国軍は落ちぶれたのか?」
「それは……」
「そして、女を犯すようにしつけられたのか。良い育ち方をしたものだ」
猛々しいものを放つギレーク騎士団長はひとりの兵士に近付き、その鎧に留め金で固定されたマントをさっと外して広げ、跪いてサイアを抱き起こし、血の染みが所々に広がるそれで身体を包んだ。もう大丈夫だ、と声を掛けたが近付くなと言わんばかりに頬を殴られ、途方に暮れたような表情になる。暗がりの中の横顔は精悍で、それでいて何処か憂いを帯びている、とラナは思った。
「タニア」
「はい」
竜騎士団長に呼ばれて返事をしたのは竜人族の女だった。タニアはガチャガチャと金属の音をさせながらサイアに近付き、自分のやるべきことはわかっていると口に出す代わりに仲間の方を振り返り、頷いた。
「さあ、もう大丈夫よ」
サイアは女の声に顔を上げ、更に激しくすすり泣いた。タニアがその肩を抱き促すと、彼女は竜騎士の女に抱きついてその肩に顔を埋める。やがて二人は絡み合う二本の木のように寄り添いながら立ち上がり、ゆっくりと歩いて酒場の出口へと消えていった。
女ふたりを見送っていた竜騎士団長が、その場に残った者達に視線を戻した。その顔つきは険しく、新たに使命を帯びた瞳はランプの光に一瞬黒く煌く。
「さて」
ギレークの口調は、サイアに話し掛けた時とは打って変わった固いものとなっていた。
「言いたいことは後に回す。今はただ探せ、この酒場の隅々までな。隠された場所にまだアルジョスタ・プレナの者が潜んでいるかもしれん。殺さず、捕らえろ。私の部隊の者も含め、十人もいれば不足はない筈だ」
と、ラナの胴に回っていた腕の力が一瞬にして弱まった。ここで自分は解放されるのだろうか、と彼女は思ったが、口はまだ塞がれたままだ。成り行き通りに事が進めばラナは助かる筈だった。しかし、ラナを捕えている者は音も立てずに彼女の身体を横に引きずった。
一瞬、この者は何をするのか、とラナは恐怖を覚えた。だが、ひとりの人間の兵士がこちらに近付いてきた時には更に大きな絶望が彼女の心を雲のように厚く覆い尽くした。ラナは兵士達がサイアにしたことを全て見ていた。目の前に迫ってくる者の息遣いは汚らわしく、憎いものでしかなかった。そして彼らは先程まで敵も市民も関係なく殺めていた。
ラナは暗がりに慣れた目で周囲に素早く視線を走らせた。帝国軍の者達が物音を立てている今、口を覆う手を振りほどきこっそりと逃げるのもありかもしれなかった。だが、自分をこうやって今も束縛している者は敢えてこうすることによって自分の命を助けているのだという事実にラナはすんでの所で気付き、躊躇して思わず胴に回された腕を掴む。
「――地下だ」
と、耳元で囁かれ、ラナは微かに頭を動かした。口の覆いがとかれた。声のない言葉は再び落ちてくる。
「合図をする、そうしたら地下へ走れ」
飛びついたら触れられる距離に兵士がいて、別の方向を取りつかれたように見つめていた。その視線の先にあるものが地下に通じる梯子だとラナが気付いた時、腰のあたりで金属のこすれる音がしたかと思えば、次の瞬間、きらりと光る何かが投げられ、目の前の兵士の首から闇に向かって生温いものがほとばしった。
「――行け!」
背をとん、と押され、兵士の恐ろしい呻き声が響く中をラナは梯子に飛びついた。半ば落ちるかのようにして駆け降りた時、上から人影が降ってきて地下室の床に見事着地する。怒声が木霊し、それを聴きながらふたりは向き合った。
背の高い若い男だ、とラナは思った。しかし、何故自分を助けたのかは全くわからなかった。男は地下室の一番奥を見やり、再び上に視線を走らせ、あっちだ、と抑えた声を出した。
「ここから抜け穴を掘った、町外れまで繋がっている。先に行け、後ろから行く。早く」
その声は聴き覚えのあるものだった。ラナは言われた通りに走り、手探りで穴を探した。果たしてそれは胸ほどの高さの所に掘られており、彼女は手を突いて体を浮かせる。若い男が後ろからラナの腰を支え、穴の中へぐいっと押した。
「あそこだ、抜け穴から逃げるぞ!」
ラナは狭い抜け穴の中を這うようにして必死に進んだ。背後から荒い息とブーツの音が聞こえてきて思わず振り向けば、彼女を助けた男の焦ったような声が先を促す。
「振り返る暇があったら行け、速く!」
怒声が迫ってくる。ふたりは必至で進んだが、こんな道を行くのに慣れていないラナが前を行っていたせいであっという間に鎧のガチャガチャこすれる音がすぐそこまで追い付いてきた。
「槍だ、槍を出せ!」
「短剣はないか!」
兵士達が得物を取り出そうとしている、まずい。ラナがそう思った瞬間、すぐ後ろで機械仕掛けの何かが広がり切って伸びる音がした。次いで聞こえるのは石と石が擦れ合って取り出される音、振り返ると自分を助けた黒衣の男が魔石のはめ込まれた赤く輝く弓を構えてきりりと矢を放つところで――
「……燃えろ」
ひとりの兵士の喉元に赤い炎が瞬時に咲き、その場で灼熱の渦が巻き起こった。
☆作者追記
本編は相当加筆されました。日常生活が足りないと、決定的な事件の与える衝撃も薄いものです。底にいるのがどん底になるだけだとインパクトないしね。
総集編にして製本する時は、第1章がもう1万字程増える予定です。もうちょっとフラグと日常生活と希望を盛っておきたいので。
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