第31話:解き放たれた魔物

第31話:解き放たれた魔物



「そろそろ戻りますね」


 トワの本棚にあった本を見ながら、アレクはふと我に返ってそう口にした。

 背表紙に連番のみ書かれていた本の内容は、手書きの辞書だった。


 ブレシア公用語を対応する日本語と、発音をカタカナで書いたもの。日本語に相応しい単語がない場合は、それに対する解説もついている。


 日本語を知らないはずのアレクだが、トワからの知識複写シフトインテリジェンスによって、全てが理解できた。元々はアレクからトワに対しての一方向だけのはずだったが、トワの『不公平』という謎の拘りにより、双方向に知識複写シフトインテリジェンスが行われる事になった。

 そして、そうであるからこそ、アレクにはトワの辞書の意味が理解出来た。


 アレクがその辞書を理解出来るように、知識複写シフトインテリジェンスの影響下ではトワにこの辞書が必要になる事はない。なぜなら、手書きの辞書に書き込めるのは知識複写シフトインテリジェンスによってコピーされたアレクの知識に他ならないからだ。辞書に書き込めるという事は、そもそもその事柄は理解出来るという事。


 ならば、この辞書の意味するところは?

 トワがブレシア公用語を習得しようとしているのだ。


 なぜ?


 遠いと言っていた故郷に帰る為? この森から外へ出ようとしている? それとも……。



 アレクのそんな考えが堂々巡りしているうちに時間が過ぎていった。



「もう、帰るん?」

「いつもよりかなり遅いじゃないですか。早く帰らないと夜になってしまいます」


 実際、タイミング的にはかなりタイトだ。まだバスローブ姿で急いで着替えて、早足で森を抜けねばならない。

 このブラッドアースの森には、夜毎に死霊が出る。一般人には極めて危険な存在であり、倒す手段を持っているアレクにしても、好き好んで遭遇したいとは思わない。



「やったら、泊っていけば?」

「そうはいきませんよ。一応、守護兵隊としての職務もありますし」


 軽い口調で言うトワに、アレクは苦笑してみせた。しかし、次のトワの言葉にアレクは凍りついた。


「そんなん、タンクさんがやってくれるやろ? 国境近いから守護兵隊の人数多いから基本ヒマやって言ってたし。だからアレクも頻繁に会いにきてくれてるんやろ」

「……どうしてそれを。それになぜ師匠タンクの名が出てくるのですか?」


 普段のアレクなら、なぜ・・なんて聞くまでもなかっただろう。だが、それほどに動揺していた。


「この前、会いに来てくれてん。タンクさんとやったら、友人帳通話フレンドチャットでここに泊る事も伝えられるやろ?」

「その汎用能力まほうを知っているという事は本当なんですね。……彼は、師匠はなんの為にあなたに? いえ、トワ。師匠から何を聞きました?」


 固い表情。固い声。何もトワは悪くない。そうアレクは自分に言い聞かせたが、口調は厳しいものになってしまう。


 トワにあの事・・・を知られてしまっていたら。アレクは心臓が凍る思いだった。


 対するトワの声も表情もいつも通りだった。少なくともアレクが見聞きした限り、いつものトワだった。

 緊張で視界が狭まっているアレクは気付かない。トワの手が微かに震えている事に。



「ただ挨拶に来てくれただけやで? 少なくともタンクさんは何も言うてへんよ。――今、アレクが気にしてる事は何一つ言ってへんよ。まぁ、タンクさんの立場を考えて、言わせへんかったんやけど」

「何をです?」


 もはや、秘めていたものは暴かれている。そう理解してもアレクは聞いてしまう。

 トワはアレクの目をじっと見つめながら言った。一太刀でアレクの心を壊してしまいかねない言葉を。


「アレク。あんた女の人が好きなんやろ。後、私みたいにちっさい子も」


 アレクの体が震えた。

 しばらく、二人は言葉なく見詰め合っていた。

 アレクはトワから目をそらしたかったが、自分が目をそらしたとてトワの視線は自分を――異常者アブノーマルを見つめ続けるのだと思うと、怖くてそらせなかった。


「師匠から聞いたのでなければ、なぜそれを? それにいつから――」


 トワは壊れそうなアレクにそれ以上言わせなかった。


故郷にほんにおった頃にな。近くにおったんよ、そういうレズ&ペド人が。時々アレクが私を見る視線が、その人のそれと同じやった。

 知識複写シフトインテリジェンスの維持。それは本当やろうけど、ここに来てくれてるんはそれだけじゃなかったんやろ」



 アレクの中の魔物が暴れる。同性愛者レズビアン小児愛者 ペドフィリア 、ずっと理性で押さえ込んでいたそれが、今トワの言葉によってりせいが引き裂かれ、初めて表へと姿を現した。



 何かが倒れる物音にアレクが我に返った時、彼女は床に倒れるトワに圧し掛かっていた。そして、物音がトワを押し倒した時の音だと悟ったとき、涙がこぼれた。


「なんで泣くん?」


 押し倒され押さえ込まれた状態で、それでも不思議そうにトワが聞く。


 何故? なぜ?

 もう終わりだからに決まっている。もう自分が何をしようと、何もしなくとも、二人の関係はここで終わる。



「聞いてええ?」


 不思議なほど落ち着いた声音のトワに、アレクは老婆のようなしゃがれた声を出す。


「な……にを、です、か」

「アレクは私の事、好きなん?」

「……はい」


 それは嘘ではない。アレクはこの少女トワの事を好きになっていた。

 デタラメで奔放で、聡明で勤勉。まるで裏返しのカードを順にめくるように、新たな面を見せてくれる彼女トワを。


「それは私やから? それともアレクの性癖にぴったりやから?」


 アレクは搾り出すように言った。


「……両方です」


 誤魔化せない。嘘をついたとて、彼女トワはきっと見抜くだろう。

 アレクはバスローブの袖で涙をぬぐったが後から後から涙が溢れてくる。


「私もアレクが好きやで」

「え?」


 一瞬、時が止まった。そうアレクが感じた。

 トワの目に同情はない。軽蔑も憐憫も。


「好きや。アレクの事が。何も知らんでこの森で独りで暮らす事になった私に会いに来てくれる、世話をやいてくれるアレクが。

 でもな。でも、それはアレクの求めてる好き・・とは違うと思うねん。

 ……もしな、それでもかまわへんのやったら。ええよ」

「何を……ですか?」

「アレクの望むようにしたらええ。それで、アレクがこれまで通りここに来てくれるなら。

 ははっ、こっすいなぁ私。それじゃまるで取引やんなぁ」


 アレクはここでようやく、トワが微かに震えているのに気付いた。

 無理をしているのがわかった。平静を装っているのがわかった。でも、それでも……。

 アレクの魔物せいへきはもうりせいでは押さえ切れなかった。


「すがらせてもらっても……良いでしょうか?」

「うん、ええよ」


 無理矢理押し倒されていたはずのトワが、両腕をアレクの首に回す。

 アレクは堪えきれず、トワの小さな体をかき抱いた。



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