二話 出会いは銃声と共に
サキュバス。
吸精の魔物。古今から多くのファンタジーに登場してはあまたの男をたぶらかしてきた地獄の花売りの達人。いわゆる夢魔とも呼ばれる悪魔の一種だ。
そんな彼女は、龍二の土下座を前にしてぽかんと呆けていた。
「え? 帰れって、何で?」
初対面で土下座を受けたサキュバスの声はものすっごく不思議そうだ。龍二を魅了するのも忘れてしまって、つい素を丸出しにしている彼女にはサキュバスというにはちょっぴり艶っぽさが足りない。
とはいえ無理もない。悪魔を呼び出すほどの祈りを込めて召喚されたにも関わらず、何もしないうちに帰還を願われたのだ。
サキュバスの疑問とは裏腹に、龍二は極めてまじめに土下座をしていた。
「違うんだ。俺が呼び出そうと思ったのはエロティックな方面ではなくて、もっとこう、神様と戦っても勝利できるようなラグナロク的なおどろおどろしいやつであって、あんたみたいなぼんきゅっぼんの女の子じゃないんだ!」
あくまでサキュバスを呼び出してしまったのは手違いだ。龍二が呼び出そうとしていたものサキュバスでは断じてない。具体案はなかったが、もっと強くて邪悪そうなやつだ。神をぶっ殺せるような悪魔だ。目の前の悪魔は自分の性癖に足が生えているのかと錯覚してしまうほどに魅力的な容姿をしているが、彼女では決して龍二の願望をかなえることはできないだろう。
むしろ事態はサキュバスを召還してしまった時点で加速度的に悪化していた。
「だから、呼び出してしまって申し訳ないとは思うんだけど、マジで帰ってください。それがお互いの幸せのためだから!」
これ以上ないほどの必死さで頼み込む。いますぐに帰ってもらえば、まだ何とかなるのだ。自分がいま以上に追い詰められることはなくなる。だから可能な限り速やかに目の前の存在に、龍二の前から消え去ってもらわなければならなった。
とあるクラスメイトの女子にこの現場を目撃される前に、だ。
だがサキュバスからしてみれば、龍二の事情など知ったことではなかった。
「いいじゃない、手違いでも」
出現した瞬間、帰れと言われた。それはつまり自分の魅了が通じなかったということだ。七つの大罪の淫欲をつかさどるものの一端。性欲によって人を堕落させるサキュバスとしてのプライドが刺激され、彼女はいつもよりほんの少し意固地になっていた。
「男子高校生なんて性欲の塊みたいな生物でしょう? 手違いでもなんでも、渡りに船ってことで快楽をむさぼりましょうよ」
「よくねーよ。男だって、初めてには夢があるんだよ。だからサキュバスとかはおよびじゃないんだ。チェンジ。もっと強そうなやつとチェンジ」
「はっ」
はじめてには夢がある。淫魔たるサキュバスはその道徳を鼻で笑ってあしらった。
「別に心を捧げろなんて言うつもりはないわ。一晩だけよ。ちょっと搾り取られすぎて疲れるかもしれないけど、干からびて死ぬわけじゃないんだしいいじゃない」
サキュバスというのは妻子のいる男性をむさぼることすらざらである。一途な男を惑わすのも淫魔としての本能だ。道徳をもてあそび、倫理を曲げて快楽を求めるからこそサキュバスは悪魔に位置する。
「ねえ、だからいいでしょう」
龍二の懐に入り込み、なぜかためらうように動きを止める。なんだ、と龍二が疑問を感じたのは一瞬だけ。サキュバスはえいやと豊満な体を押し付けてくる。
そうして耳元へ吐息を吹き込むように、悩ましげな声音でささやいた。
「楽しみましょうよぉ……」
「いやマジでやめてください。ホントに、本気でヤバいんで……!」
む、とサキュバスは龍二には見られない位置で口を尖らせた。
ここまで誘惑したというのに、相手の反応が芳しくない。堅物でまじめ一徹な人物が拒否することはあると、このサキュバスも知っている。だがしかし、そういった性格の相手であれ、それは我慢するという反応である。誘惑がまるで通じないわけではないのだ。
だというのに、この少年の反応はどうだろう。
「お願いだから離れてください……いまこの場面を雪菜に見られた、俺……!」
別に堅物な性格というわけでもなさそうなのに、サキュバスの接近をなみだ目で嫌がっている。接触しているからわかるが、身体的な反応でも興奮している要素はまるでない。むしろ血の気が引いて青ざめてさえいる。
いま聞こえた『雪菜』というのは龍二の彼女の名前だろう、とサキュバスは直感する。男として不可解とすら言えるこの反応は、きっとその少女に心をささげているからこそだ。
純愛。
その人以外には思いを寄せず、体も許さない。あまりに純粋な思いの丈が正反対の性質を持つサキュバスの存在そのものへの拒否感へとつながっているのだろう。
「……ふふっ」
そこまで推測して、けれどもサキュバスは笑った。
純愛? 一途な思い? なるほど面白いではないか。障害を前にして、サキュバスの意欲はむしろ燃え上った。
愛を誘惑し、想いを捻じ曲げ、人生を混沌に陥れるからのこその淫魔だ。そうして恋に価値などなく、愛とは肉欲に劣るものだとあざ笑うために自分は生まれたのだ。
「あなた、面白いわぁ」
言葉と共に、絡みつくように体を寄せる。一歩二歩、龍二が後ずさる反応が正直でサキュバスはいっそう笑みを深めた。
「純愛。清廉。真っ正直。きれいだわ。素敵だわ。……でもね、あなたみたいな男を誘惑するために私たちはあるのよ」
「あの、俺なんてどこにでもいる平凡で薄汚れた男子高校生なんで、早く帰ってくださいっ。たぶん感づかれてる……雪菜のやつ、超能力者なんじゃないかってくらい察しがよいとこあるんで、だからホントに早く帰ってください……てかマジで帰れよ早く……!」
「ふふっ。そうねぇ。女の勘って、悪魔でも侮れないものね」
龍二の首にぶら下がるような体勢になったサキュバスは、くすくすと笑う。
なるほどこの場面を見られたら修羅場は必死だろう。龍二のあせり具合もわかる。
でも、だからこそサキュバスは望むのだ。
さあ来い、この少年の彼女。勝負をしましょう。
あなたたちの思いの丈が、純愛という思いがどれだけ脆いものか。純粋な感情にヒビが入るときを目の前で見せ付けてやろう。その瞬間が楽しみで楽しみで仕方がない。だからこそ、おいでなさい。女の勘に導かれて、運命的にこの場所へと来なさい。
「ぁ」
「あら」
サキュバスの想いに導かれるように、がちゃり、と屋上の扉が開く音がした。
そこから入ってきたのは、きれいな少女だった。さらりと伸びた黒髪はつややかで、風に吹かれて揺れている。その身のうちに秘める純粋な思いがまっすぐ表に出たかのような、雪解けの水よりも透明できれいなきれいな少女だ。
「ゆ、雪菜……」
「……龍二君」
お互いの名前をやりとりする少年少女を見て、サキュバスは確信する。
龍二と雪菜。この二人の関係をゆがめるために、自分は現世に呼ばれたのだ。
だからこそサキュバスは、にんまりと笑みを深めて
「ふふふ。やっぱり来――え? 何それ?」
少女がスカートの太ももに着けていたベルトからごくごく自然に黒光りするリボルバーを引き抜いたのを目にし、龍二の土下座を受けたときとまったく同じ反応をした。
リボルバーを握りしめる少女は一瞬の躊躇もしない。龍二かサキュバスか、どちらかに向かってかは定かではないが、にっこり笑って一言。
「じゃあ、死のっか」
銃声が、鳴り響いた。
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