蚕蛾は赤い手で嗤う

コーチャー

第1話

 私がそれに気づいたのは中学生になった頃だったと思います。


 母が私に妙にトゲトゲしくあたるようなり、義父は私の顔や髪をやけに触るのです。当時の私はまだ子供でしたので母が嫉妬を私に向けていいたり、義父が私に娘としての愛情ではなく、女への愛情を向けていることに気づくことはできませんでした。


 だからこそ、あのような悲劇になったのです。


 いつものように酔った義父は私の頬や髪を撫でていました。私はといえば過剰なスキンシップを我慢していればお小遣いが貰えるので、まぁ仕方ないと適当に我慢していました。そのころ、母は私にお小遣いを全くれなくなっていたので私にはどうしようもありませんでした。


 そんな私の姿を母がどういう眼で見ていたのか。今なら少しわかる気がします。


 しかし、我が子を殺そうとした母にはいまでも賛同することはできません。


 義父から僅かなお金を得た私は子供らしい喜びで自室に戻りました。このお金でトモダチと放課後にアイスを食べることもできるし、雑貨店で可愛らしい動物をあしらったマスキングテープや便箋を買うこともできる。使い道をいろいろと考えていると襖ふすまを叩く音がしました。


 私たち家族が住む家は古い長屋でテレビのある居間と父と母の寝室、そして私の部屋があるだけの簡素な作りで鍵などなく襖で仕切られているだけでした。私はお小遣いを文机のうえに無造作に置くと襖を開けました。


 襖の前には母が立っていました。母は私に微笑むと右手に持っていた包丁を振り上げました。私はあっと驚いて母の腕を必死につかみました。包丁の刃が私の顔の間近まで迫っていました。母は私を罵っていましたが、私にはそれは獰猛な獣が唸っているように聞こえました。

 私の頭の中には死にたくない、という気持ちだけでいっぱいでした。


 そして、力を込めて母を押し返したときでした。母の握り締めていた包丁は母の首筋に突き刺さっていました。それは故意でなかったにしろ私が母を殺した瞬間でした。母は少し驚いたように「え……」と口にするとあとは蛇口をひねったように血が口から流れ出していました。


 正面にいた私はその血をまともに浴びました。髪や頬をつたうそれは生暖かった。ゆっくりと倒れてくる母の顔には私に対する怒りで満ちていたように思います。崩れ落ちて動かなくなった母の肩を何度か揺すってから私は始めて悲鳴をあげました。ずれている、と言われるかもしれませんが中学生だった私には母の死が初めて見る死だったのです。


 テレビや映画で見る綺麗な死と違って、目の前にある死はどこか呆気ないものでした。

 悲鳴を聞きつけた義父や近所の人は、倒れた母とその傍で座り込んでいる私の姿を見て何があったかを察したようでした。警察は私の母殺しを正当防衛として処理をしました。そのとき、警察の一人が小さく漏らした「綺麗すぎるってのも不幸なもんだ」、という言葉を聞いて私は二つのことを気づいたのでした。


 それが始まりでした。


 母を殺した私は法律的には咎人とがびとにはなりませんでした。ですが、このまま義父と暮らす分けにもいかず。祖父母も私と暮らすことを拒否したために私は施設で生活することになりました。そこでもいくつかの事件が起きました。


 私に親身になってくれていた職員さんが私を押し倒そうとしたり、年上の入所者から言い寄られたり、私は愚かなりに自衛を心がけようになりました。身なりは地味に。親しい人はつくらず。口数も減らして過ごすようにしました。


 しかし、それでもダメでした。

 高校生になるころには、かなりの男性が私を求めていました。まるで蚕蛾カイコガのようだと思いました。メスの蚕蛾はただいるだけでフェロモンという匂いを放つ。オスはその匂いにあがらうことはできない、という。私も同じです。私がいるだけで男性は私を欲しがる。私は誰ひとりとして求めていないのに、彼らは私が誘っている、と思い込むのです。


 女性からは科しなを作ってるんじゃない、と責められたり、ときには暴力を振るわれました。

 いつしか私はポケットにカッターナイフを忍ばせるようになりました。

 ただ私を脅しつけたい人や手を上げようとする人には、これは抑止力がありました。なぜなら、私には一度ですが大きな実績があるからです。母殺し。そのことを隠そうとしても誰かが知っていました。だから、私がカッターを取り出せば多くの人は暗い瞳を抱えたまま逃げて行きました。


 ですが、拒まれることで逆に燃え上がる人が居ることに私は気づいていませんでした。


 その人は教師でした。


 真面目な数学の先生で私のことを気にしている素振りはまったく見えませんでした。だからこそ心の中にはドロドロと澱おりのように沈んで溜まっていたのかもしれません。卒業まであとひと月という時期でした。私は少し離れた街で事務の内定をもらっていました。簿記の資格こそ取っていましたが自信がなかった私は先生のもとを訪ねました。


 数学準備室で小テストの採点をしていた彼は少し驚いた顔で私を迎え入れると、私の質問に親身に答えてくれました。狭い準備室の中には私たち二人しかいませんでした。先生は始め簿記の問題集を見ていましたが十分後には私の顔ばかり見ていました。


 このときになって私はようやくまずいと気づきました。


「ありがとうございます。少し自分で考えてみたいと思います」


 そう言って私が問題集を閉じようと伸ばした手を先生は痛いほどきつく握りました。


「吉乃よしの……。先生はお前が」


 それは振り絞るような声でした。先生の真面目な人柄を考えると教え子に恋愛感情を持つことに嫌悪があったのは間違いありません。しかし、火が付いたものを元に戻すことはできなかったのです。私は叫ぶように繰り返しました。


「やめてください。お願いです。やめてください」


 拒絶は油でした。先生の中に灯った火は燃え上がり炎となっていました。


「僕の何が悪い。僕は君を受け入れられる。過去の罪も一緒に償おう」


 握り締められた手が痛い。近づけられた先生の顔が息遣いがどこか気狂いじみていました。私は残された片手でポケットからカッターナイフを取り出すと先生につきつけました。母殺しである私が刃物を出せば、怯えてくれるに違いないそう思ってのことでした。


 しかし、先生は怯えることもなく私からカッターナイフを奪いました。


「吉乃。先生はお前を愛してるんだ。お前も僕を愛してくれるよな」


 先生はカッターナイフをそのまま無造作に床に落としました。彼は武器を失った私を押し倒しました。制服の襟元に手を入れた先生はそのまま力を込めました。布が裂ける嫌な音がしました。冬の冷たい空気が胸元に流れ込みます。


 私は手足をは必死に動かして先生を退けようとしますが、うまくいきませんでした。彼は私の胸や脚を舐るように手を這わせました。もう、無理もしれないと思ったときでした。私の手に鋭い痛みがありました。それはさきほど奪われたカッターナイフでした。私は指が切れることなど気にせずにそれを握りしめると先生の首筋に突き刺しました。


 母のときとは違いました。私は私の意思で彼を刺したのです。先生は少し驚いた顔をして自らの手で首から生えたカッターナイフを抜きました。動脈を傷つけていた栓が抜けた瞬間でした。血しぶきがあがりました。先生は最後に「すまない」と言いました。それが何に対してのものだったかは分かりません。


 ただ、私はまた真っ赤に染まった自分を見て思ったのです。

 私が私である以上、男性は狂ってしまう。


 なら、私がどのように自分を押し殺して地味にしても口を閉ざしても意味がないのではないか。私は先生の血にまみれながら自分の無意味な努力に自嘲するしかありませんでした。それはどこか狂った嗤わらいでした。


 警察に私は素直に言いました。


「私は自分の意思で先生を殺しました」


 しかし、今度も私は裁かれることはありませんでした。正当防衛だというのです。人を殺すということに正当などあるのでしょうか。私が知る限り人を殺すことが公に認められるのは戦争です。戦争は人を殺すことが功績とされます。しかし、私が生まれて一度も戦争を体験したことはありません。きっと親も先生もそうでしょう。だから、正しい殺人など誰も知らないのだと思います。


 私がいくら裁かれたい、と願っても一度決まったことは覆りません。


 二度も人を殺し、血を被った私は戦争していたのでしょうか。母と先生。二人は私に何も教えてはくれませんでした。とはいえ、私の生活また大きく変わりました。内定は取り消しとなり、私は高校卒業と同時に住み慣れた街を離れました。


 次に住んだのはこの国の首都でした。人が多く誰も他人を気にしない。そんな街だと聞いたことがあったからです。私は自分の好きな洋服を着て、髪も少し明るい茶色に染めました。正職ではありませんでしたが、派遣で仕事を得ることもできました。


 ですが、男の人が少ない職場を選びました。

 なぜならきっと男の人は狂ってしまう、と恐れたのです。蚕蛾カイコガである私が平穏に生きるにはそうするしかない。それにまた血に塗れることが怖かったのです。二度あることは三度ある。もう一度あんなことが起これば私はダメになってしまう。それが私には分かりました。


 それから数年は平穏な日々が続きました。

 しかし、それが急変したのは私が二十二歳になった冬のことでした。仕事からの帰り道でした。私はずっと背後に気配を感じていました。ここ数日間、誰かにつけられている気がしていたのですが確証はありませんでした。しかし、この日はあからさまに足音が聞こえるものでした。私は走りました。


 ハイヒールが甲高い音を立てました。それとは別に男物の革靴が鳴らす音が私を追ってきていました。家まであと二百メートルのところで私は肩を強く握られました。振り返ると五十過ぎの男性が私を見て笑っていました。


 私は、三度目が来たのだと思いました。


「吉乃! ようやく見つけたよ」


 男は私の名を呼びました。


「会いたかった。お前を忘れたことなど一度もない。一緒に……」


 私はいまでもポケットにカッターナイフを忍ばせていました。今度は迷いませんでした。ナイフはいつものように柔らかい首筋に沈んで行きました。男はあっと叫ぶと母や先生と同じように血を吐いて倒れました。私はそれを立ったまま見つめていました。街灯の明かりでうつしだされた私の手は真っ赤な手袋をはめたようでした。


 そして、苦悶を浮かべて倒れた男の顔を見て私は初めて驚きました。それは義父でした。中学以来会ったこともない義父を私は殺したのです。義父はどういう気持ちで私を探し出したのでしょうか。血の繋がりはなくとも肉親の情だったのか。愛情だったのか。それとも別の気持ちだったのか。


 それはついに分かりませんでした。


 ですが、私の中で明らかになったことがありました。

 私は蚕蛾ではなかった。


 私は殺すことに悩んでいない。ただ狂っているのだ。私は男性を狂わせている、と思っていた。でもそれは違う。狂っている私が男性を呼び込んでいるのだ。それは迷いまよいがのように一度は甘美な夢を見せて、二度目には喰らってしまう。


 私は嗤わらいました。

 とても可笑しかったのです。狂っていたからでしょうか。それとも養父のことが悲しかったからでしょうか。それともこれからも同じことを続けてしまう滑稽さからかもしれません。私は真っ赤な手を見て心から綺麗だと思いました。

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