夜明け

 青ばむ空気の色に目が覚める。

 シンの荒野をむやみに歩いて半日。夜明けが訪れ、風は静まったが、冷え込みはまだ寂しかった。空には星と月が日差しから逃げ、北極星ポラリスだけが道しるべとして席を守っている。

 

 目的地も知らない状況で、疲れに負けまぶたを半分くらい閉じた間々歩く行列は、見つめているとはっと息を呑んでしまう。行列に遅れた人は地面に倒れて苦しそうな息遣いで意識が飛んでいくことを待った。

 空しい人生の終わり方。

 過去、古代イスラエルの学者――あるいは預言者でもある――サムエルはフィリスティア人についてこうかたった。

 

 Ⅰ.

 『虚ろなダゴンよ、訊け

 あなたの末裔まつえい照覧しょうらんあれ。

 神をうたえない連合フィリスティアは

 傲慢に自ら体を食い殺し

 やがてよそのイスラエルに体を斬られる』

 

 Ⅱ.

 『虚ろなダゴンよ、訊け

 あなたの国を好機にくだけくれ。

 字も読めない海の民は

 無知の恥ずかしさを忘れ

 やがて地上でいて頭の水がれる』

 

 Ⅲ.

 『虚ろなダゴンよ、訊け

 あなたの戦士ゴリアテに満足の眠りがあれ。

 イセの子に負けた戦士は

 死んでも戦場から離れず

 やがて子供たちの童歌わらべうたとなって延命する』


 サムエルが作った詩が学者たちに広がるころは、連合フィリスティアが歴史に消え、簡単な何文字で書き込まれた後の話だ。

 これが世の中に知られる前までは誰も、どの民族も彼らの跡を分からない日常を過ごし、強いて知りたがるものも少なかった。他には敵国のイスラエルが彼らの身辺を気にしていたと言う。

 

 兵士になる前の試練は、当たり前のように受け入れられる。当時の民族にはとても大きいイベントであった。なお、戦場に出られない市民には兵士は、こまに以上も以下でもない存在。素直地、道具として思われていた。

 特に兵士を統率する下士官には毎月入ってくる補給品と同じだった。

 

 逆を言うと。

 兵士でもない扱いをされているは、だから、死ぬほうが自分と残った家族にも誇りとして残る。

 あるいは。

 これが不条理に見える人――荒野を歩く者に、そんな余裕があるかは分からないが――が、下士官に異議を申し立てたら?と言う疑問が出るかのうせも高い。

 

 しても。

 荒野の道で感情的になる時が果たしてあるか?と反論が出来る。

 哀れだ?いや、勘違いしては困る。

 最初から、こんな馬鹿げたやり取りをする人は最初からいないだろうが。代わりに泣いてくれる人がいたら、それで一安心死ねる彼ら――まだ兵士にもなれない行列の者――だ。

 

 ここで泣ける人は残念ながらいない。荒野の上で水は猛烈に煮る。一つ例外を言うなら、それは死んだ跡を辿る野良犬のらいぬの食欲を抑制できなかった自分の無能さを痛みに知る時。

 哀れみに一人で慰めるしかない。

 と考える中で誰かが枯れた声を出した。


 「お、おい。あれを見ろ――」

 

 『あれ』とは何だ。

 希望も消えていく人に、曖昧にしゃべっても腹が立つだけじゃないか!

 影でぶつぶつと呟いても一応、無意識的に体が反応はする。

 

 頭を上げると目の前に何かが見え始めた。

 砂の風が強く吹く峡谷きょうこくだ。

 しかし、峡谷にしては色々ぶら下っている。


 「『ゴリアトの峡谷』。ついに着てしまったか……」

 

 お年寄りの独り言が一瞬行列の中に広がった。

 ゴリアトの峡谷。伝説になった戦士の名前を引いた峡谷であり、今は連合フィリスティアの兵士を仕立て上げる訓練場である。

 

 「うわさではあそこで何百人も死んだそうだぞ」


 「いや、俺に知る限り千はとっくに超えたと聞いた」


 「危ないな。入ったら人生終わりじゃん。俺はまだ死にたくないわ!」


 「どの道、このままでは死ぬさ。戻れる場所もいないし」


 都会からかなり離れている。戻るには食料も体力も足りなかった。だとしても、おとなしく地獄の扉に入りたくはないものだ。

 

 「今でも間に合わない。早速ここから逃げようぜ」


 「どこに行くんだ」


 「ちょっと離れたところに行商人が泊まる村がある。エドムの地域だし、多分太陽が頭の上に昇るまでは着くだろ」


 「信用、できるか?」

 

 「あ――?」


 「悪くは思うな。仲間が提案を簡単にくみしないやつで、詳しい情報が欲しい。村の大きさとか警備の情報は知らないか?連合の人なら通報の可能性もある」


 男の話を聞いて提案した人――顔に深い傷跡のせいで印象も悪く見える泥棒どろぼうだった――は額に深くしわを寄せた。

 慎重に相手の話に乗る男も只者には見えなかった。茶色の顎鬚あごひげやして、ぼろぼろの服でも優れた知謀ちぼうの所有者。中年に見えるお面はなお魅力的だ。

 表には貴族と貧民の関係と勘違いできるお二人だ。


 「行商人の村は一時的に出来上がる仮住まいだ。警備も用心棒をやとうくらいだから、心配する無用だ」

 

 「なるほど」


 「ちなみに、もしやだめになっても俺は――」


 「分かった。仲間をつれてくるから準備しとけ」


 二人の取引はあっと言う間に広まって行列の一番後ろまで届いた。話に乗る人も峡谷に近づくたびに増えた。

 

 「兄さん、どうしよ。僕、怖いよ」 


 兄と仲良く歩いていた少年が、隣で大人たちの会話を聞いておびえた表情を出した。まだ十歳も超えてない子供には兵士の職業は憧れより怖い存在に映っている。


 「逃げよ?」


 「馬鹿。逃げると言ったってどこに行くんだ。隠れる森もない平地で走ったら余計に目立つよ」


 「でも……、僕は兵士なんてなりたくない」

 

 「またその話かよ。あの家から出る前に約束したじゃん。兵士になってお父さんと再び会おうって」

 

 世間知らずの子供たちには小さな希望がある。

 兵士になって別れたお父さんと再会すること。立派な戦士になるために家を出たお父さんを、子供たちは待ちくたびれていよいよ自ら捜しに出たのだ。

 一人だけのお父さんが会いたくて家を出る。さすがに子供の思考は大胆だ。

 

 「いや!兵士はなりたくない」


 弟のほうが兄の話に我慢できずしゃくの虫を起こした。

 

 「なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない!」 


 積り積もった疲労に睡眠不足が重なって理性を失う。これは兄の方も同じだった。


 「煩い」

 

 「なりたくない。なりたくない。なりたくない――」


 「シオン、煩いから黙れ」


 「なりたくない。なりたくない――」

 

 「黙れって言ったんだろ!」

 

 叫びの後に耳鳴りする音がした。


 「いっ……」


 「なりたくないならお前一人でも逃げろ。俺は、父さんみたいに兵士になる」


 張り飛ばされた頬っぺたが熱くふくらむ。こみ上げる悲しみが痛みと混ざって涙に変わった。


 「ルーベン兄さんのアホ、馬鹿。死ね!」


 「お前が死ねよ!」 


 兄弟の喧嘩はシオンの方が消えることで一時的に止んだ。

 誰のおかげでここまで来たと思う?と、兄のルーベンは不機嫌に思いつつ、一人でとぼとぼと歩いた。

 

 「兄弟喧嘩か――。元気だね。羨ましいわ」


 隣で兄弟を見守っていた老人――と思われる汚い男――が声をかけて来た。声は若くても見た目は全然駄目な人だ。微妙に体も自分ルーベンのお父さん見たいに鍛えこんでいる痕があった。

 新たな登場人物にルーベンは警戒心を抱いてしまう。


 「乞食ごじき――?ですか?」


 「そうとも。見た目から判るだろ?クッゲゲゲゲ~~」


 「おじさん、クッサ。クッサ!」


 「二回ゆったな!まぁ、怒ってないけど~~」


 「気持ち悪いおじさんだね。あっち行って!クッサすぎて反吐へどが出ちゃう」

 

 「いやだな。坊ちゃんの言うことを聞く筋合いはいないよ~~」


 初対面の人に『ぼっちゃん』呼ばわりされている。兵士になる前にこの人から始末しなきゃ面子が丸つぶれだ。ルーベンは心配げに周りの目を意識して鼻を摘んだ。

 

 が誰も気にしていない現実を翻然と悟る。周りに人がいないと思ったら、乞食の臭いが原因だった。これでは『魔よけの札』と変わらない。 

 

 一夜の疲れが一気に忘れる臭いに、どうやら弟のシオンが視野から見えなくなったことまで気づかなかった。

 代わりに現れた乞食が面白げにルーベンの横でうろついている。まずい。面白がっている以上入隊しても傍でいる考えだ。

  

 ――駄目だ。我慢できないくらい苦しい。速く距離を置かないと鼻が曲がる!

 

 「クッサイから離れてください」


 「ん?急に坊ちゃんが礼儀正しくなった!?」

 

 「ち・が・う!戦士ミハルの息子のルーベンだ!」

 

 「おや?失礼だったね、戦士ミハルの息子のルーベンくん。まぁ、坊ちゃんは坊ちゃんだけどな。クッゲゲゲゲ~~」


 名前には二つの意味が含まれてある。

 一つは、生まれた地域、もう一つは、お父さんの職業を自分の名前に入れる。普通は生まれた所を話して紹介した。たまにお父さん、とか自分の職業にプライドを持つ人は、地域より職業を話す人もいる。

 ルーベンがこの場合に入るとは言わなくても分かる部分だ。


 ルーベンは話を聞かない乞食が苦手だと心の底から痛感した。お父さんがつけてくれた名前がこんなやつ(?)に軽々しく呼ばれていることが不満のようだ。

 自己紹介まで続いた会話が途中から止まってしまった。理由が言うまでもない、乞食の嫌がらせだ。本人は随分相手に話を合わせている顔をしているが。


 「――」


 まともに話を聞いてないルーベンにごじきの声が耳に障る。

 

――真面目に相手しても、乞食ごときが兵士の偉大さを知るわけがない。はぁ、しばらくは無視しよ。


 賢い選択だ。話が通じない相手は無視した方が気が楽だ。

 ルーベンは目の前にあるきょうこくを眺めた。


 峡谷。遠くにいても真ん中に黒い縦線カゲがはっきり見える一本道。暑苦しい荒野の上を歩くのに涼しい風が吹いてきた。猛烈な日差しも峡谷の前では気勢がそがれる。地獄の扉を押し破って乱入した痕跡が残っているような峡谷の壁は、断崖が険しい岩が幾重にも重なって視野を阻んだ。

 

 あそこを通った後はお父さんと比べれる兵士になれるかな。とルーベンは固唾かたずを飲み、頭を横に振った。


 ――考えが甘い。お父さんはもっとすごいな人だ。百を越えた敵をたった一人で勝ち合った戦士に峡谷の入り口は普通に通れる。そう、僕は今お父さんが歩んだ道を踏み出したんだ!

 

 可愛い発想で笑顔を浮かぶルーベン。夢が溢れる少年にはどれもこれも希望に満たされて観える。


 「お、オッキイィィィィ!てか、高い!」


 闇にはしゃぐ子供の声が沈んでもルーベンの視線は峡谷を転じた。

  

 ドキドキする心臓の鼓動。

 涼しい風に嫌な汗。

 不慣れの他郷、見知らぬ匂い。

 予想できない将来の不安を。

 少年は何故か楽しんでいる。

 

 「そこのガキ、伏せろ!」


 無論。想像と違って現実には、危険リスクが頻繁に起こり、足元に火が付くまで捉えない事故アクシデントだ。

 この世に生きる者は、誰も例外なく、いつでも、事故と遭う。


 周りの風景に気を取られたルーベンの背後から馬が駆けきた。

 行列が並んで歩く一本道の上で駆ける馬を避ける余裕なんていないし、なお、年が少ない子供ルーベンが悟るまでは時間がもっとかかる。

 残念。

 乞食の声ははっきりルーベンの耳に届いた。でも、体を動かないルーベンは、今まで通りじっとしていた。


 視点を上げると下士官を乗せた馬が見えた。

 足元にいたルーベンを発見した馬が勢いよく助走じょそうしてジャンプした。当たり前だ。訓練された馬には子供の高さは簡単に飛び越える。

 とルーベンは常識的な馬を瞼に浮かべた。

 

 「ヒヒーん」


 鉄蹄てっていが馬の重さに押しつぶされ下に落ちる直前。こまのつま音で震えた地面が一時的に止まった。

 

 ――瞬間的に思うに、これは死ぬ。そう、死ぬ。俺は死ぬんだ。両腕で防いだら助かるかな。馬に乗って戦場に走り回りたかった。疲れた。お父さんが会いたい。あれ、今、俺は何をしているんだろ?


 「――」 


 ルーベンは完全に見当識けんとうしきを失った。

  

 「ちょっと、失礼~~」


 物事がすべてスローモーションとして流れる中。

 『ちょっと、失礼』など三流セリフを言い伝えて、乞食が素早く走りかけてルーベンを横に強く押した。

 口の中に砂が入ってザラザラしても文句なしで転ぶルーベン。うずくまって痛みを堪える暇もなく、次の事故が発生した。


 「――!——!」


 峡谷の隙間に角笛ショーファールの音が勇壮に吹かれる。耳を防いでも音が脳を打ち叩いた。


 「七百五〇一の第一段階、選別作業を始める。いわおを落とせ!」

    

 進撃する下士官の信号に夜明けの空から流れ星が落ちた。兵士になれる潮時チャンスが災難と共に訪れる。

 どこにも避ける場所も洞窟も、せめて穴も掘る時刻も足りない現在。皆、心を一つに合わせて道なりに精一杯駆けた。

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2107の兵士 キセ! @min92119

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