終章

 1985年。さまざまなことが起こった年の12月に、大江千里の新しいアルバムが発表された。前のアルバム『未成年』から1年も経っていない。

 タイトルは『乳房』。アイドル的な人気のあった彼にしては、大胆なタイトルだな、と思った。大江千里が1年に2枚のオリジナルアルバムをリリースしたのは、この年だけだ。

 冬のアルバム。サンタクロースやJAUNARYなどの単語が楽曲タイトルに使われており、寒い季節のイメージが色濃い。前作『未成年』の、「男として生まれてきた哀しさ」をはしばしに感じさせる内省的な歌詞の世界は、巨大すぎる悲しみの衝撃で粉々になった僕の心に激しく共振した。

 そして。

 その最後に収録されていた曲は「フレンド」と言った。


 僕と七海ちゃんの関係とは違い、「フレンド」の世界の二人は結婚を意識するくらい長いつき合いだったけれど、結局別れてしまったと思われる。だけど、端々に出てくる表現が、僕と七海ちゃんとのことを歌っているように感じてしまう。

 大江千里は預言者なのか。それとも、僕と七海ちゃんとの間に起こったことは、よくある普遍的な事件なんだろうか。

 いや、そんなはずはない。彼女は世界でたった一人で、僕との出来事もただ一つのもので、僕の心に出来た裂け目と同じ深さで、彼女の心にも穴が開いたと信じたい。

 僕はこの曲をそれこそ、何百回と聞き、そして、その数だけ涙を流した。


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 七海ちゃんとのストーリーは10月のあの日で終わった。取り返せない時間と記憶。喜びの源泉だったものはすべて悲しみの根源に変わってしまった。心の支えだった、彼女への想いが途絶えた瞬間に僕の心は壊れてしまった。

 なんのために生きるのか。これからどのように身を処していったらいいのか。まるでわからなくなった。戦後の、焼け野原になった都市のように、18年かけて培われてきた「僕」は、あの日に死んだ。

 それでも、生きていかなければならない。家族と友人と、そして彼女なしの未来の時間のために。

 僕は、彼女なしで自分というものを再建するために立ちあがることを決意した。現実的にはそれしか取る道はなかった。死ぬのは簡単だが、あまりにもたくさんのしがらみが僕を取り巻いていた。それに、根拠はないけれど、いつかはこの暗黒から抜け出せるだろうと思った。方法なんてわからないけれど。過去の自分を思えば、これまで「好きな女の子を思う心」で、自分の精神を安定させてきた。硬派と名乗るなどおこがましい。他者の介入を排除し、自分が自分であるために、精神的に独立しなければならないのだ。たぶん、それが真の「大人になる」ということなのだろう。


 学校とバイトを1週間休んだあと、僕は元の世界に復帰した。聞いたところによると、七海ちゃんも同じ期間学校を休んでいたという。まだ、大きな亀裂の走る心にひりひりと響く彼女の動静。休んだ日数まで同じだなんて。運命の神様は最後まで僕にいじわるをしているようだ。僕はそれを甘受することにした。いつか、麻痺して何もわからなくなるだろう。

 後日聞いた話だが、やはり僕と七海ちゃんが屋上で逢っていたことは五木の口から語られ、その後同じ日数、二人とも学校を休んだことから、「二人で旅行にでも行ったんじゃないか」と、とんでもない勘違いをした人までいたという。


 僕と七海ちゃんとの間に何があったのか、直接聞いてきた人は一人もいなかった。


 夏休みが開けて、すぐに前期試験があり、そして彼女とのことがあって、バイトに復帰したのは10月の終わりだった。さすがに長期休みではない時期に深夜シフトは厳しいので、僕は平日の夕方にバイトに入っていた。必然的に雫ちゃんと一緒になることが増える。


 一見して落ち込んで無口になった僕の異変に、雫ちゃんはすぐに気がついたようだ。

「なにかあったの?」と聞かれても「いいや」としか僕は答えなかった。

だからかもしれない、雫ちゃんから「つきあってほしい」と言われたのだ。「なにかあった」僕を元気づけたいと思ったと、後から聞いた。

 僕は戸惑った。とてもかわいい雫ちゃんから告白されて嬉しい気持ちももちろんあるけれど、圧倒的な悲しみの余韻の前に、なにより、まだ七海ちゃんのことを思っている自分の心のままで申し出を受けることはできない。

 僕は雫ちゃんに時間をもらって、喫茶店に誘った。そして、初夏から秋までの間に何があったのかを包み隠さず伝えた。雫ちゃんはとてもチャーミングだし、素敵なコだと思う。でもまだ、七海ちゃんのことを忘れられない。こんな状態できみとつきあうのは、きみに対して失礼だ、と。


 そうしたら。

 雫ちゃんは。


「あなたは、わたしが、きらい?」


 一文節ずつ区切るようにしてゆっくり噛み砕くように言った。僕はなぜ雫ちゃんがそんなことを言うのか、わからなかった。


「嫌いじゃないよ。雫ちゃんはとてもかわいいし、心の中をほんわかしてくれるよ」

 僕は心のままに答えていた。彼女のまっすぐな眼差しに真摯に答えるにはそれしかないと思ったから。そうしたら。


「私が、忘れさせてあげる」


 え。


「私は、あなたが好き。私にはあなたの過去なんて関係ないの。一緒にいたい。……私は、あなたが好き」


 そう言って微笑んでくれた。甘えん坊だと思っていた雫ちゃんは、実はとても強い女の子だった。僕は彼女の申し出を受けることにした。僕の「戦後」は、だから、雫ちゃんとともに始まる。


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 七海ちゃんの象徴になると思っていたアルバム「Sparklin’ Splash」は10月末に完成した。だけれど、全10曲ではおさまることができず、続編「Lost Time Breaker」、続々編「Virgin Blash」を作り、全30曲の中から、完全版の「Sparklin' Splash」を作り上げた。

 その作業はまるで、心の中の彼女の記憶を結晶化して、心の奥底に沈めていくようなものだった。「風の谷のナウシカ」で、腐海が、汚染された空気や土壌を取り込んで清浄にしていくような。


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「やさしいきみへ」


 きみがそばにいるだけで 雨のウィークデイの夜も

 星のかわりに輝いてる きみのオーラにまたたいて

 ひとまず部屋をあたため ペーパーでコーヒー入れたら

 甘い香りが飛んできて きみの瞳に吸い込まれる


 思い出を語るには 早すぎる

 まだ二人は はじまったばかり


 きみが好きなことばを借りて

 I'm sweet on you, only you


 前から同じ空の下 精一杯生きてきたのに

 やっと今までかかって 思い合うため出会えたね

 一人の過去は重すぎて とても僕では支えきれない

 きみがいたから言えたんだ 「忘れよう あのことは」


 冗談のキスは もうやめて

 少し真面目な二人になろう

 きみが綴った言葉に見えた

 I'm sweet on you, only you


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 雫ちゃんのことを歌った、この歌詞を書くことができて、たぶん一区切りつけられたんだって思った。

 雫ちゃんは初代の恋人になり、僕のありとあらゆる「はじめて」を奪った。神戸には真っ先に一緒に行った。眼鏡はやめてコンタクトレンズを使うようになり、髪にはパーマをかけた。すべて雫ちゃんのアドバイスだ。服もすべて買い換えた。オシャレにはまったく造詣がなかったので、雫ちゃんに言われるがままにした。かなりあとに、僕が別のバイト先に行くようになると、高校時代では考えられないほどモテるようになったのは、おそらく雫ちゃんによる「改造」のおかげだろう。表面的には僕と雫ちゃんは仲睦まじい恋人同士だった。しかし、僕は誰かに依存して自分の精神を再建しないよう腐心していて、それは必然的に雫ちゃんとの距離感にも現れる。その微妙な空隙に、彼女は寂しさを感じたのかもしれない。あまりにも強大な七海ちゃんの影響下に、雫ちゃんの存在が付随するようになってしまい、雫ちゃんと七海ちゃんのイメージが一つのパックになってきてしまったときに、僕と雫ちゃんは重大危機を迎えるんだけど、そのあたりのことは、また別のストーリーになる。


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 思い出っていうのは、どんなに重要なことでも忘れていくと思うんだ。でも、七海ちゃん、きみのことはしっかりと覚えておきたい。一生にもう、こんなに一途になることもないだろう。谷川俊太郎が「かなしみ」で書いたように、「とんでもない落し物」をしないよう、僕はこの文章を書いたつもりだ。

 きみは見事に目標を達成して、親元からも離れて自由になった。暗く、重い、あの一年を取り戻すように、青春を謳歌するだろう。仮にこの文章を読んだら、きっと僕のことをバカにするだろうな。怖がりながら、手探りで、不器用すぎる恋だったから、きっと僕のことをあきれていることだろう。もしも、「記憶抹消装置」があったら、きっと真っ先に僕のことを消したいだろう。


 僕のこと、嫌いでいいよ。

 そうなるのが、当然だ。

 きみを、激しく、傷つけたのだから。


 でも、忘れないでいてほしい。こんなバカがいたことを。でも、バカはバカなりに不器用にでも、きみを思っていたんだ。


 この文章を書いている今は、もはやきみを欲しいとは思っていない。だけど、1985年の初夏から秋までの、精一杯きみを愛した僕のことを忘れないで。何もかも、時間さえ捧げたあのときの僕を。おこがましいけど、お願いだ。

 何度も言うけど、僕はバカだ。自分の保身に一生懸命で、きみを困らせた。きみが将来に向かって歩いていこうとしている足を引っ張った。きみが何を考えているのかを考えずに、きみのことを考えた。 

 すべての五感はきみに注いでいたのに。


 大江千里の「REAL」を聞くたびに、きみを思い出す。ポルタの喫茶店で頬杖をついて、僕を見つめてくれたきみがもし、本当のきみだったのなら、僕は死んでもよかっただろう。


 きみのためなら、僕は死んでもいい。


 でも、それはあまりにも子供っぽいアピールだと思ったから、こんな文章を書いてみたんだ。


 ごめん。

 でも。

 僕がきみのことを覚えておくことを許してほしい。


 きみがあの夏にくれた暑中見舞い、まだ手元にあるよ。本の間にはさんでくれたメッセージも。もしタイムマシンがあって、まだ悲しみを知らなかったあの日に戻ることができるならば……なんて思うけど、やめたほうがいいよね。きみは自分の道を歩き出したし、僕もそうだ。だから、もう、何も言えないんだね。


 きみの最後の姿を今でも覚えてる。一回生、後期試験の最中の1月31日だ。

 時間を間違えて僕は、すでに文化人類学の試験を終えた専攻のみんなと、清心館のピロティで会ったね。「うわあ、時間間違えちゃったよお」ってうなだれる僕を見て、みんな、僕を笑ってて、きみもほんのり笑っていた。責めるような、蔑むような笑いじゃなくて良かったって、ホッとしたよ。あのとき、きみは青い服を着ていたね。


 はっきり覚えているのは、ポニーテールの横顔。きみは僕の知らない女の子(たぶん高校時代の友達だと思うけど)と一緒に、南門を出ていったね。

 涼しげな横顔を見ていたら、きみとのすべてのことがフラッシュバックして、僕はその場に立ちすくんだ。


 きみの姿を見るのは、これで最後かもしれない


 そんな不安に取りつかれて、僕はきみが南門から出て、大学の敷地南側のまっすぐな道を東へ歩いていくのを視界に入っている限り見つめていた。そして、不幸にもそれは現実となってしまった。


 気持ちにケリをつけるために、国公立大学入試の二次試験が終わったら、一度会う。その約束を「バイトがある」って断ったよね。僕の最後のお願いを堂々と蹴り飛ばしたとき、僕は体中の水分がなくなるほど涙を流して、そして、最後にお願いしたよね。


「もう、思わせぶりなことをして、男を振りまわさないで」


 それが、最後にきみを見た2か月後だった。


*******************

 七海ちゃん。

 きみほど僕にとって「完璧な女の子」はいなかった。空間が歪んで、時の流れがからまって、人生の流れが混線して、きっときみと僕はイレギュラーに出会ってしまった。僕はあれから心にリミッターが付いたみたいで、全力で女の子を好きになれなくなった。それはもう、どうしようもない。僕は幾人かの友人と恋人のおかげでなんとか精神を再建できたけれど、それはもう二度と不可能なことだと思った。同じことは二度とできない。


 もっとも、きみを愛したのと同じくらい、誰かを好きになることは、もう二度とないけれど。


*******************


 雫ちゃんとつきあいだした僕は、バイトに注力することになり、結局バンドを脱退することになった。シンセサイザーでブラスやストリングスを弾く担当なんて、いなくてもどうってことないのだ。けれど、ほどなく、バンド「ポップ・ステディ」は解散したという。

 音楽はただ、自分の中のつらい欠片を集めて結晶化し、抽出するためのツールとなった。一人の部屋でひたすら心を締め上げ、まばゆい記憶と痛みを絞り出して歌詞にしていった。


*******************


「Tears In My Eyes」


 秋が来てきみは素敵になったね

 悲しいけど僕のための装いじゃない

 最後のサマーブリーズが吹いてからもう一月

 僕は悲しむことだけを知ることになった


 きみを抱きしめたいけど悲しい目の姿

 わかってる わかりすぎてる 心の距離

 つながることのないハートのラインを

 迷うようにたぐりよせて 泣きだしてた


 Tears In My Eyes きみのための泣く男が

 この場所にいたということだけ 覚えておいて

 Tears In My Eyes たまらなく寂しさを感じて

 この悲しみをぶつける人も どこにもいない


 もうすぐ殻を破って 自由になるきみの

 微笑みを心から喜べない僕は

 思い出を埋める場所を探して悩み

 とまどうきみの横で いつもの言葉をかけてるね


 心がどうしようもないっていうのは困るね

 何もしたくない ずっと時が止まっていれば

 きみと出会ったときのきみと僕の時間が壊れて

 もうすぐ冬になっていく すべて凍てつく季節に


 Tears In My Eyes 流れるだけ流した涙の

 跡を拭きとりもせず どこかに行くことにするよ

 Tears In My Eyes 駅に急ぐ口でつぶやく

 最後に唱える きみの名前を何度でも


*******************


 宇宙開闢後、150億年の歴史の中で数えきれないほどの恒星が生まれ、爆発しては凝集し母なる太陽が生まれ、地球が生まれた。天文学者たちが言うように恐ろしく信じられないほどの項目の偶然が、この星に人を育んだ。

 そして。

 僕が生まれ、4か月後にきみが生まれた。直線距離で100キロ離れたところで。地球サイズで見ればちっぽけな島の上で、僕たちはそれぞれ育ち、そして、18歳のときに出会った。


 ねえ、なんて偶然なんだろうね。

 しかも、僕の趣味嗜好ときみのそれは完璧に一致していた。

 これはもう、おとぎ話の世界なら、完全に結ばれてしかるべき状況だったのに。


 この世界はどうして存在しているんだろう。

 僕はたびたびそう思う。なぜこの世界は「ある」んだろう、と。

 でも、こうも思うんだ。

 きみと一緒に京都の町を歩いてたあのとき、僕は間違いなくきみのために生まれてきたんだと。


 笑顔はいいね。

 人をほがらかにさせてくれる。

 でも、きみの笑顔は格段に違った。きっと、名前のとおりに七つの海から集まってきたきらめきが、すべてきみに集束したんだね。願わくば、その輝きがいつまでも消えないように。

 

そして、きみがずっとあの笑顔でいられるよう、幸せでありますように。

                                    (了)

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Sparkle 木谷彩 @centaurus

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