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 僕の最後の提案に、彼女は少し考えていたが、やがてその重い口を開いた。

「私……私って、好きになったら、何もかも頭に入らなくなって……その人のことしか考えられなくなるの……だから、今は、誰も好きにはなれない」

 彼女にしてはボソボソといった感じで、それでも重大なことを僕に告げてくれた。少し考えていたのは提案の可否ではなく、僕にどう言おうかと検討していた時間なのかもしれない。「今は」と強調したのは、受験前だからということで、決して僕についてどうこうというわけではない、ということを強調しているように感じた。そのような心遣いを感じたけれど、だけれど。


 イッツ・オーバー。すべて終わりだ。


「なんか……なに、言ったらいいの?」

 もう僕には彼女に語る言葉がなくなってしまった。

「……」

「あと半年して……二回生になって。新学期になってみんなが集まってきても……おまえだけがいないのか……いなくなるのか……なんか、悲しい……な……」

「おまえ」なんていう言葉を彼女に使ったのは初めてだった。それが僕の最後の強がりだった。


 いつのまにか屋上からは人が消えていた。時間の経過を示すように太陽は傾き、陽射しはオレンジ色を帯びている。

 確かに、二人はここにいる。だけど、心が触れ合ってはいない。

 彼女はすべてを頑なに拒絶して、自分を守ろうとしていた。

 そして、守るべき思いも、秘密も、プライドも、崩壊したのは僕だった。

 なにがなんだかわからなくなってきた。

 彼女のいない、左へ首を向けた。

 そのとき、僕の心から一切の感情が亡くなった。それまで見えていた回りの景色は濃霧に覆われたかのように白くなった。


 僕は、初めて、理性をなくした。


 腰から上半身が右側に急回転した。次に覚えているのは、目の前の彼女の髪だった。

僕の両手は彼女の右肩で組み合う寸前だった。


 僕は右側に座っていた七海ちゃんに抱きつこうとしていた。


 もしも誰かが見ていたら、なんと素早い動きだろうと思っただろう。でも、僕には何時間ものスローモーションに思えた。


 彼女は、ハッと身の回りで何が起こっているのか気づいたと同時に、猛然と立ち上がり、僕の腕をふりほどいた。僕は引きずられるかっこうになった。このまま、自分も立ちあがって抱きしめようかと思ったが、それもかっこ悪いかと考えて辞めた。

 彼女はこっちを向きながら、両腕で胸をかき抱き、二、三歩後ずさりした。


「もう、こんなこと、絶対やめて」


 残っていた、ありったけのエネルギーでそう言われた気がした。。

 僕はわざと不良っぽく、「逃げられるなんて情けないな」なんて言ったのだが、この態度はまったく場にそぐわないとすぐに感じて、きちんと座りなおした。そして、詫びた。

「ごめん」


 彼女は無言で顔を伏せたまま、今まで座っていたベンチの後ろの、例のステージに寄りかかった。僕は立ちあがり、彼女が怖がらないように、三メートルくらいの間をあけてたたずんだ。


「ごめん」


 彼女は何も言わずに向こうをむいている。

どんな顔をしているのか知りたくて、ゆっくりと彼女のほうへ近づく。彼女から一メートルほどの、ステージふちに沿った真横の位置に来た。

 しばらく何もいわなかったが、改めて言った。


「ごめん」


 そうしたら。


 不意に肩が揺れたかと思うと、おもむろに彼女が泣きだした。それも、まったく、こらえる、という意図のない泣き方だ。小さい子供が転んだときのように、はばかりなく、声を精いっぱいあげて、泣いていた。

 泣きながら、最初に座っていたベンチに戻っていった。


 彼女は……七海ちゃんはいつもニコニコしていて、少なくとも僕に対しては微笑みを絶やさなかった。それが彼女の魅力の源泉だった。彼女を彼女たらしめているものだった。それなのに、僕のせいで彼女が泣いている。よほど嫌だったのだろう、僕に抱きしめられるのは。

 我慢という言葉は、あの泣き声には感じられなかった。


*******************


 彼女の泣き声が続いている。僕は額をコンクリート・ステージのふちに押しつけた。彼女の泣き声、さっき見た、真っ赤に泣きはらした瞳が、頭の中に蘇る。


 俺のせいなんだな、ぜんぶ。


 右目からポロッとなにかがこぼれる。それで涙が出ていることに気づいた。

 バカ、バカ、こんなことで泣いてどうする。たかが、振られただけじゃんか。これまでと同じで……耐えられるはず。耐えられるはずなのに。

 左目からも涙がこぼれる。呼吸が苦しくなってきた。声が、嗚咽が出てしまう。押さえなければ。押さえられるだろ?

 頬を伝って顎から涙がついに落ちて、足元に小さなシミを作っていく。涙が、止まらない。もう、耐えられない。



 これが、本当の、悲しみなんだ



 そう悟った瞬間に、僕は泣きだしてしまった。止められなかった。ほんの2.、3分だったけれど、今まで、かろうじて保ってきた自分のプライドを放棄した瞬間だった。

 僕は、彼女に当てつけるように、泣いた。


 後ろからの彼女の声はもうなかった。その代わりに視線を感じる。ゆっくりと後ろを振り向くと、彼女がいた。ベンチに座っていたはずの彼女が、立ちあがって、胸の前に両手でハンカチをしっかりと握りしめて、真っ赤にした目で僕を見ていた。


 なにをいえばいいの?


 そう言われた気がしたから。


 なにもいわなくていい


 そう思った。

 そう……何も言わなくていいんだ。つまらない思いやりや同情なんて今すぐ捨ててしまえ。中途半端な優しさは、余計に人をみじめにさせるんだ。

 お前、俺を振ったんだろう? だったら、最後まで冷たくすればいいのに、どうしてこっちを見るんだ? どうして、自分を傷つけた相手を、その悲しんだ瞳で見つめるんだ?

 僕は視線を戻した。しかし、彼女の訴えるような視線は、僕に都合のいい考えを生み出した。


 せめて、今日一日は、彼女とすごしたい。


 しばらくして振り返ると、彼女はずっと後方にいた。屋上の柵にもたれて、東山をぼーっと眺めている。急に近寄ったら怖がられると思い、ゆっくりと、しかし彼女にわかるように少し大きな足音を立てて近づいた。


「ね、街へ出よう」

「……」

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第十八章解説


二回生……関西では大学生に限って、「○年生」ではなくて「○回生」と呼ぶ。


グラウンド……現在、グラウンドのあった場所には校舎が新設されている。

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