17

 七海ちゃんはそのままの調子で話を続けた。

「夏休みのこと、言うけど……」

 私にとって大事なコトがある、と手紙に書いていた。いったい何があったのだろう。

 それまで彼女に抱いていた疑念が晴れて、少し心が軽くなっていたところだ。このほかになにか心に重荷になるようなことがあるのは、正直つらいな、と、このときは軽く思っていた。


「夏休みは……勉強してた。学校、受け直そうと思う」



 え?



「筑波を受けたんだけど……それで、卒業式のときに、『ぜったい受け直す!』って、みんなに言いまわってたし」



 え? え?



 受け直すって、ココ、辞めるってこと?


 同じ口から出る言葉で、こんなに重みのある言葉があるのだろうか。

 右から、左へ、抜けるように言葉は風に乗っていった。いつもの言葉のように、自然に聞こえたと思う。けれども、その意味は、僕一人では支えきれない、とてつもなく大きなものだった。


「どこ……受けるの?」

「阪大か、大阪外大」



 えええ?



 彼女の兄が京都大学に通っていることは聞いていた。彼女自身が通っていた高校も滋賀県では一、二を争う進学校だ。推薦で入学した僕は大学の偏差値序列に疎いけれど、それでも大阪大学が関西、いや、西日本で京都大学に次いで難関なことは知っている。

 あまりの衝撃で、僕は言葉を失っていた。彼女は言葉を続ける。

「通訳に、なりたいの」

「中国語の?」

「ううん、英語……」

「そうだね、そのほうが需要多いし」

 僕の異変に気づかれないように、世間話のほうに持っていこうとしたけれど、動揺は止められなかった。……早く、言ってほしかった。だって、それなら、僕は、あの夏を。


 あの夏の、時間が、思いが、粉々に壊れて、崩れ落ちていく。振られたけど、まだ三年半もあるんだって鼓舞していた、その覚悟は砂上の楼閣だった。


「落ちたら、ここにくるけど……」

 取り繕うように彼女は言うけれど。

 ふと、気づく。

「だから? あまりみんなと交流しなかったのも、仲良くなったら、思い出が出来て、未練が残るから?」

「……うん」

「そうか……何も、わからなかった……から……」


 そう、何も、わからなかった。

 すべてがつながったけれど、あと一つだけ、疑問があった。


「卒業式のとき、もう受け直すこと、決めてたんだろう? それじゃ、何でココに来たの? 予備校だけ行こうって思わなかったの? ココに来なかったら、会わずに済んだし……好きになることもなかったし……」

こんなにつらい目に会わずに済んだのに、と言いそうになって、必死で飲み込んだ。

 怒りが入っていたかもしれない。好きすぎて、どうしようもなくて。

 でも、彼女は。

「思ったよ! 予備校だけ行かせてって。泣いて頼んだけど、許してくれなかったの……」

 泣いて頼んだ? 彼女に泣くことがあるなんて。およそ、想像もできない姿だった。七海ちゃんはそれほど過去じゃない瞬間を思い出しているのか、うつむいた横顔は色を失っている。田舎では、女の子の大学浪人は体裁が悪いのだろうか。僕はまた、彼女を傷つけてしまった。

 僕は彼女が示してくれる好意だけで、彼女を信じて、ずっと彼女のことを考えていたけれど、「彼女が考えていること」までは、洞察していなかった。そんな大切なことに今頃気づいた。だけど、それはあまりにも遅すぎた。


「俺に……俺の手に負えるコじゃ、なかったんだね……」


 それは僕の敗北宣言だった。

 彼女は首を振った。だけども、そんなことしたって、慰めにもなんにもならない。

 指定校推薦で入学した僕には、留年や退学どころか、学部内の転専攻さえ認められない。そんなことをしたら、母校に設定された推薦枠が消えてしまうからだ。そんな立場の僕には、女の子が大学を受け直すなんて想像もできなかった。

 それに、自分で言うのもおこがましいが、通っていた大学は関西の私学では最高峰の一つと言われている。それを捨てて、さらなる高みへ行こうとするなんて。

 完敗だ。人としての「質」が違うと思った。僕にはそもそも、彼女と付き合えるほどの「格」がないんだ。それは、「勉強はできる」とちやほやされていた僕の自負を完膚なきまでに叩きのめした。


「あと半年で……ここにいるのに、消えてしまうんだね……」

「でも、落ちたら、またココに来るから」

「そんなこと、なりたくないだろう?」

「……まだ、どうしようか……迷ってる……」

「愛してるから……ずっと一人で京都に残ってたんだ……暑中見舞いのハガキ、あれは俺の宝物だよ」

「ありがとう……」

 そう言いながら目を伏せる。その姿さえ美しくていとおしい。

 あと、少ししか見ることのできない姿を。


「筑波を受けたっていうのは?」

「あそこ、寮があるし」

「東京のほう、行きたい?」

「……うん……」


 大阪出身の僕は筑波と東京の間がとんでもなく離れていることを知らなかった。だけれど、関西から見たら、同じようなものだ。関東圏の人たちが、「京阪神」とひとくくりにするように。

 都会に出たいという彼女の志向は、大阪という都会で育った僕にはわからないものだった。

「そんなだから、かわいいコ、みんな東の方へ行ってしまうんだ……」

 彼女はまた、首を振った。

「バイトが終わって、バイクで風切って帰ってるとき、いつも大江千里の『未成年』聞けるようにしてて……好きって言ってたでしょ?……それで、今、何をしてるのかなって、いつも思ってた」

 そういうと彼女が思いもよらぬことを言った。

「駿台に行ってたの」

「あの、堀川丸太町の?」

「うん」


 堀川丸太町といえば、僕が住んでいる堀川三条に近い。京都駅からバスで通う彼女だろうから、僕の家の前を通過していたのだろう。

 なんてことだ。僕が彼女の自宅の近くにいたとき、彼女は僕の一人暮らしの部屋の近くにいたなんて。この恋を象徴しているみたいだ、なんて思ったけれど、なにも嬉しくはない。

「俺、本当に、七海ちゃんに会いたいって思って……自分がいることで、回りに大きな影響が及ぶってわからなかった?」

 半ば八つ当たり気味にそう言ってしまった。好きな女の子を責め立てるようなことをするのは、男としてどうなんだって思うけれど、たくさんの衝撃が襲った僕の心は普段の自制心を欠いていた。それに、砂原だって、彼女のことを思ってる。他にもいるだろう。彼女は本来、ここにいてはいけない人だったのだから。

 彼女はまたしても激しく首を振った。その反応に謙虚さを感じて僕は少し安堵したけれど、今となってはあまり意味のないものだった。

 目の前の悲しみの大きさがわからなかった。そして今、彼女が何を考えているのかもわからなかった。

 急に身体の変調を感じた。やばいな、と思った。何かが、身体の下から湧きあがってくる。なんとか、こらえた。


「はぁ……9回かな、そっちまで行ったのは。神社、改築してただろ? 1号から8号に乗って、ずーっと行って曲がって、またずーっと行って……」


 七海ちゃんに説明、というよりも、僕は自分のために夏の記憶を反芻していた。

 あのまばゆく輝く、汚れなき旅。


「……いいところだね。近くにあんなにきれいで広いところがあるなんて思わなかった」

「どれくらい、かかるの?」

「2時間くらい」


 沈黙。


 彼女は何かに耐えるようにうつむいている。この場から逃げ出したいように。


「一度、夜に行こうとしたことがあるんだ。夜中の2時ころに京都を出て……。でも、バイクのヘッドライトに虫が寄ってきて大変ですぐ帰っちゃったけど……。でも、星がすごくきれいで。俺、小さいころから星が好きでさ。でも、大阪じゃなかなかあんな星空は見られないから、うれしかった」

「私も、そういうの、好き」


 彼女はそう言ってくれて、おそらくそれは嘘ではないんだろうけど、なんだか無理して合わせてくれているように感じた。


「ねえ、本当にダメなのかなあ。もしかして、ナオちゃんのこと誤解してる?」

「ううん、そういう関係じゃないっていうのは、ナオさんから聞いた」


 ナオちゃん、側面から援護射撃してたのか。


「そうか……だったら、俺の気持ち、信じてほしい。これから、大切な時期だっていうのは十分わかってるけど」


 僕はあえて踏み込んで聞いた。あきらめきれなかった。

 大切な夏の時間の代償が、ほしかったのかもしれない。

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第十七章解説


大阪外大……大阪外国語大学。2007年、大阪大学と合併し、大阪大学外国語学部となった。


指定校推薦……大学のほうから特定の高校に学部学科の枠を指定して、生徒を推薦してもらう制度。筆記試験が免除され、面接だけが科される場合が多い。

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