15

 七海ちゃんに電話して振られた翌日。それでも、もちろん僕は本を彼女へ持っていった。彼女はいつものように「ありがとうね」と微笑んでくれる。イノセントな笑顔、それだけで僕の心は有頂天になる。


 ところが。

 その数日後の帰宅時に、専攻の連中とだらだら以学館前を歩いていると、不穏な単語が聞こえてきた。


「七海ちゃん」

「河原町で見た」

「夜の9時ころ」

「彼氏がいたみたい」

「高校時代」


 彼らから聞こえてくる言葉。よくある噂話かもしれない。かすかに聞こえてくる、キャンパスの騒音にかき消されそうな言葉を必死に拾う。一人ではなくて、幾人かが共通認識をもって話しているようだ。その話を聞いて問いただそうかと思ったが、もはや僕は平常心ではいられなかった。様子がおかしい状態で、そんなことを詰問したら、僕が七海ちゃんに恋していることがバレてしまう。その判断をするくらいしか、冷静さは残っていなかった。

 僕には、それらはあまりにもひどい言葉に聞こえた。


 彼女は僕と一緒に行った河原町が初めてだと言っていた。しかし、夜の9時ころにウロウロしているのを見たっていう話。

 男とつきあったことはない、と言っていたけれど、高校時代に彼氏がいたという話。

 つまり……僕と話したことがすべて嘘だってこと。

 腹がたってきた。

 そんな些細なことをと、とがめる人もいるかもしれない。

 だけど。

 数少ない僕との会話。僕がその一瞬一瞬に気持ちをこめていた時間を、嘘で飾ったのなら、僕は怒る。そんなコじゃないと思っていた。彼女の言葉だけを信じて、夏の間もずっと待っていた。コケにされたのかな。単細胞なやつと思われて、からかわれたのかな。


 脳裏に夏の情景が巡る。

 深夜のバイト。近江平野の稲穂の海。

 水滴をはらむ、夕立の匂い。

 ずっと聞いていた『未成年』の曲たち。


 18歳の夏。

 もう取り戻せない、大切な瞬間。

 彼女のために捧げた尊い時間。


 それがすべて無駄だったのだろうか。


 とにかく、じかに話を聞きたい。電話じゃなくて、直接に。すぐにでも。


 10月8日、火曜日だった。七海ちゃんに電話した。出来るだけ、落ち着いて話した。


「こんばんわ。どうしたの?」

「急にだけど、明日の三講目に時間空かないか?」


 三講目は概論という専門教科だったが、「概論」というだけあって、内容は簡単なもので、専攻の大部分はそれほど出席していなかった。


「え……ん……いいけど」

「ちょっと、やな話を聞いたから」

「え? なにそれ?」

「だから、明日話すから。1時半に清心館の屋上に来て」

「……うん……。でも、本当に、何なの? 気になって眠れないじゃない」


 その言葉を聞いて、僕は初めて、彼女に怒声を吐いた。


「俺だって、そのことで、あまり寝てないんだ!」

「え」

「とにかく、明日な」

「うん……」


 最後はほとんど半泣きに近い声で、七海ちゃんは答えた。


「それじゃ、さよなら」


 最愛の人にこんな態度を取ってしまった。これでいいのかどうか、自分でもわからない。たぶん、正解はないんだろう。それでも誰かに聞いてほしい。

 シンイチに電話した。


「おう、どうした?」

「昨日、言ってたことだけど」

「あ? ああ……」


 シンイチにはすべてを包み隠さず知らせていたのだ。

こういう話だとナオちゃんよりは同性のシンイチのほうが話しやすかった。


「さっき、電話した。明日、直接聞く」

 そういうと、シンイチは半ばあきれたような声を出す。

「お前なあ……、好きになった女ぐらい、信じろ」

 それは正論だ。だけど、その時の僕はそれさえもできない、わびしい心になっていた。

「……俺には、あのコの心がわからないんだ」

「そんなの誰でも同じだろ」

 シンイチは即答する。「人の気持ちなんて、他人にわかるもんか」

「不安なんだよ……俺、あの2か月がもし、意味のないものだったのなら」

「信じてやれ。好きな女なら、信じてやれ」


 電話を切ると、今、七海ちゃんが何を考えてるのだろうかと考えてみた。

 もう、アポは取った。

 当たってみるだけだ。

 そう割り切って、翌日の詰問の内容を頭に叩き込んだ

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