12

 彼女の住む町へは9回行った。3度目からは迷うことなく行けるようになった。ただ向こうに着いても5分ほどボーッとしているだけで、ほとんど京都と近江八幡のあいだをトンボ返りしているようなものだった。

 こうやって僕は深夜のバイトを続けながら彼女のことを考え、その思いを発散させるためにバイクに乗った。

 8月5日。バイトから戻ってきてポストをのぞくとハガキが届いている。取り出してみて僕はこれほど我慢しなければいけないことが世の中にあるのかと思った。

 彼女から暑中見舞が届いていたのだ。その場でバンザイと叫ぶことをやっとのことで我慢し、部屋に着いて本当にバンザイをした。

 急いで返事を書いた。僕にはもともと暑中見舞を書く習慣がなかった。

 単純な生活の中にも色々なことがあった。でも生活の9割以上は彼女のことが占めていた。


 彼女は何をしているのだろう。


 毎分ごとに僕はそう考えた。


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 8月12日。この日の深夜バイトは休みだった。いつものように夜7時のニュースを見ているとその終わり間際に速報が流れた。羽田発伊丹行の飛行機がレーダーから消えた、というのだ。

 真っ先に思ったのは七海ちゃんのことだ。彼女はこの夏休みに家族と旅行に行く、と言っていた。それは7月のことだったけど、お盆時期のこの日だ。東京に強い憧れのあった彼女が、遊びに出かけている可能性のことを考えるといてもたってもいられなかった。

 やがて民放もすべてニュース特番に切り替わった。日本航空123便の搭乗者名簿が流れ始めると、それこそ目を皿のようにして名前を追った。朝までずっとテレビ画面を見続けて彼女はどうも乗っていないとわかった。


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「水城さんって、何かスポーツでもしてるの?」


 同じバイト先に僕より1週間ほど遅れて入ってきた女の子、雫ちゃんにそう問われた。同い年の専門学校生。甘えん坊でおっとりしている。小柄で黒髪。まっすぐな髪は肩あたり。端的に言って、かわいい。七海ちゃんが瑞々しさを特徴とするならば、雫ちゃんは暖かな雰囲気をまとったチョコレートケーキのような女の子だ。最新の音楽シーンに精通しているようで、メジャーデビュー直前だった、米米クラブの大ファンというところもポイントが高い。

「なんで?」

 これまでの人生で「スポーツをしている人」に見られたことがなかったので、単純に疑問に思った。

「だって顔や腕が焼けてる」

「ああ」

 原付バイクだとヘルメットが必要なかったので外に露出している部分は陽に焼けていた。何も知らない人が見るとスポーツマンに見えなくもない。まだ、日焼けは善だと思われていた。

「別にしてないよ。バイクで走ったりするから、そのせいだよ」

 ふーん、と彼女は言った。あまり納得していない顔付きだ。少しためらっているようだが、雫ちゃんはさらに聞いてきた。

「他の人から聞いたんだけど、遠くまで女の子に会いに行ってるんだって?」

「え」

 誰から伝わったのだろう。店長だろうか。いや、真下さんか。真下さんは店長のほかにもう一人いる正社員だ。ノリの軽い人で、深夜のヒマな時間に、そんな話をしたような気がする。

「彼女?」

「いいや」

「じゃあ、片思い?」

「うん」

「ふーん」


 僕が「納得していないような顔」だと思ったのは、聞こうか聞くまいか躊躇している表情だったようだ。僕に対して、そんな表情をする女の子なんてこれまでいなかったから、不思議な気がした。

 雫ちゃんは夕方から夜10時までのシフトに入っていることが多かった。つまりその後、深夜番に入る僕とバトンタッチするタイミングになるのだが、ほんのたまに僕が昼間のシフトに入るときもあった。この会話はそのときのものだ。夜、引き継ぐときはあちらも急いでいるので必要最小限のことしか話していない。いくら原付バイクで帰るとはいえ、夜遅くに女性一人で帰宅することになるからだ。そのせいか、昼間に一緒になったとき、彼女は聞きたいことを用意して待っていたような印象があった。

 店は金閣寺から竜安寺へ行く道すがらにあり、夏の昼間は観光客が大挙してやってきていた。あまりおしゃべりをしているヒマはない。

 僕は適当に受け流していた。バイトの人数が少ないせいでちょっと口に出したこともすぐみんなに知れ渡ってしまう。下手なことは言えない。


 雫ちゃんは僕に好意があるように見えた。何か言われたわけではないけれど、僕と対するときの仕草や、話しているときの目の輝きなんかを見ていたら、「なんだかそうなんじゃないか」と思わせるものがあった。

 それはそれまでの僕であるならば狂喜乱舞することではあるが、そのときの僕は違っていた。


 僕は七海ちゃんのために生きていた。亜依さんとの件もある。僕はその罪を償うためにひたすら修道士のような生活をしていた。ここで雫ちゃんと遊びに行ったとしても、バレなければどうということはないのかもしれない。

 だが、僕は妙なところで堅い性格だった。神を信じているわけではないが、自分がもしそういったことをやれば、必ず七海ちゃんとのことはうまくいかなくなると信じていた。運命論ではなく、それは人が積み重ねていく徳とか宿命だと思っていたのだ。そんなわけで雫ちゃんとは話をするだけの間柄に留めていた。僕には七海ちゃんがいたのだから。


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 9月はヴィヴィドな月だと思う。それに輪をかけるような彼女の笑顔。

 9月11日からやっと開講した大学で会った彼女は、そんなに変わったようには見えなかった。休み前に続いていた本の貸し借りは前期試験が近かったので自粛することにした。久しぶりに見た彼女は飄々とした感じで、不思議と以前よりも存在感が薄れていた。しかしそれは僕だけが彼女を見つめるのには好都合だった。僕はそんな彼女の存在を際立たせることを嫌い、また単に恥ずかしいということもあって積極的に話しかけることもなかった。だいたい夏休み前も本を貸すときぐらいしか話などしていなかったのだ。


 前期試験が目の前に迫っていた。僕が語学のノートを写しに、また一般教養のノートを見せにシンイチの家へ泊まり込みに行った。

 彼は堺にある一戸建の実家に一人で住んでいる。両親や兄弟が転勤や通学などで東京にいるからで、彼はたびたび広い家をフルに活用して飲み会を催していたようだ。

 さっそく勉強を始めようとノートを広げると、バサッと何かが落ちてきた。


「ホレ」


 それは一冊の百円ノートだった。表紙には“私は天才だ、MY ESSAY”とある。

「読んでみろ」

「何だこれ?」

「だから、エッセイ」


 言われるままに目を通してみた。僕はそれまでシンイチのことを単なるお調子者と思っていたのだが、どうもそれは間違いのようだ。そのノートには彼のさまざまな考えが述べられていた。人生、友人、女の子、政治……。

 そして僕たちくらいの年の若者が一番重要視することはもちろん、女の子のことだ。

 そのエッセイを読んでわかった。シンイチには好きな女の子がいた。あの島田だ。長距離通学で、しかも二人の乗り降りする駅が近いので、すぐに仲が良くなったようだ。元来僕は、他人の人間関係に疎いところがある。関心がないのだ。ことに今の僕は100パーセント七海ちゃんのほうに向いている。他人の恋愛沙汰にはまるで興味がなかったので、まったく気付かなかった。


 シンイチは父親のツテでこの夏、志賀高原の保養所へリゾートバイトに行った。

そのとき、レーローやナオちゃん、丸山さんと一緒に島田も連れていったという。

「俺、亜依さんのことを好きなんだって自分で思い込んでただけなんだ……」

「え?」

 たしかに彼が亜依さんのことをベタぼめしているのはよく聞いていたが、それはお調子者特有の口八丁だと思っていた。そして、それはもしかすると、本当の気持ちに気付くのが怖くて回避するための手段としての言動だったのかもしれない。


「近くに、あんないい女の子がいるのに、全然気づかなかった……あんなにいいヤツ、そんなにおらんぞ……近くにいすぎたから、わからんかったのかもしれんけど……」

「お前、島田のこと、そんなに……?」

「……」


 島田はバイト先で明治大学の男といい雰囲気になったそうだ。遠距離恋愛になってしまうし、両方ともつきあう、とは考えていなかったようだけど、島田はその男が気になっているようだし、男のほうは島田のことが好きだと言っているのを聞いたと、シンイチは言う。

 夏休みが終わり、バイトから戻ってきて二人の関係がどうなっているのかはわからないようだった。それはじりじりとした不安な時間だと思う。


 やっと本当に好きな人を見つけ出したのにすぐ他人にかすめ取られたようで、シンイチのうなだれた姿を見て僕は何も言えなかった。失って初めて、その人の価値を思い知る。彼は失ってはいけないものを喪失してしまったようだった。

「俺はあいつが好きだ。たとえ誰かのことをあいつが好きになっても、あいつが男と付き合うようになっても……俺はあいつが好きだ……」


 リゾートバイトの期間が終わる、最後の飲み会で、ほとんどフラフラ状態の島田(彼女は酒に弱い)を連れて、シンイチは外へ出たそうだ。

 女神湖がゆるやかに湖面をさざめかせ、満天の星空が頭上を彩る。高原の涼しい風が吹き付けて、二人の体に戯れたかもしれない。

 しばらく並んで歩いていたシンイチは、ついに島田を抱きしめて、叫んだ。

「なんで、こんなに好きなんだ!」と。

 島田は何も覚えていないだろう、それが唯一ラッキーなことだ、シンイチは言った。

 彼にとってのベストな場所は、島田の一番近いところで、なんでも彼女が相談してくれる立場――そんなところにいたいのだろう。それは彼の行動範囲を狭めることにもなるのだが。

 島田はいつも周囲に気を遣っていた。そんなささいなところも彼はよく見ていた。せめて、自分の前では気兼ねなく何でも話してほしい……そう、考えているようだった。

 彼は一方の心で悲しみを持ったまま、片方の心で消えない思いを今は、潜めているのだろう。


 彼の文章にヒントを得て、僕は煮詰まって制作を止めていたアルバムの詞を三つ書き下ろした。一時間ほどかかった。

「何か、食うか?」

「あ? ああ」

 キッチンへ消える彼を見送った視線を掛け時計のほうへ向けるともう2時を回っている。まだ、試験勉強は何もしていない。


 俺ははるばる堺まで、歌詞を書きにきたのか?


 そう思い起こして、早速作業にとりかかった。ちょこちょことノートを写していると食器を持ったシンイチが現れた。

「きたねー。俺の知らんあいだに」

「ここに歌詞作りに来たんじゃないぞ」

 こういう会話は戯れているだけだが。


 少し腹ごしらえをして、さて気合をいれて頑張ろうと思ったのはいいが、お腹が満たされた上の眠気には勝てない。僕は気を抜いた瞬間に眠りの国に連れていかれてしまった。

 翌朝8時ごろに目覚めると、充血した目を皿のようにしてノートを写しているシンイチの姿があった。

 けれど、僕たちの努力はどうも、学校の先生には認められなかったようだった。


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「Morning Situation」


 つぎはぎだらけアスファルトの道で 

 ペダルをこぐとからみつくシューズのひも

 朝の風をうけて 流れる風景の光 

 きみの髪もきっとたなびいてるころだね


 どうして うつむいてるの? 落とした視線

 たどるのが怖いよ 顔をあげて


 きみのための秋 そっと忍びよる

 きみのための秋 そっと色づいて

 その街角曲がればまぎれもない心

 素敵なまなざし開いて 一人のSituation


 波をくぐった九月の空気の中は 

 少し潮の香りが残って目を閉じた

 誰かと一緒にいるきみのエモーション 

 いくら考えても分からないのは当然


 言葉を選び出して 話すきみの横顔

 思わず耳がきみのほうを向く


 誰のせいでそんなに きれいになったの

 はっきり聞けない僕 思いもしないきみ

 たぶん坂道を越えて飛びこむところ

 素敵なまなざし開いて いつものSituation

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第12章解説


米米クラブ……1985年「I Can Be」でデビュー。なお、デビューは10月だが、春先からテレビでプロモーションビデオが流れていたため、雫ちゃんは存在を知っていた。


原付バイクだとヘルメットが必要なかった……当時はまだ原付バイクはヘルメットなしで運転することが出来た。着用が義務付けられたのは1988年。


前期試験……1985年まで前期試験は9月末に行われていた。翌年から7月末に変更になる。

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