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 7月28日は本当に暑かった。今年初めての暑さを感じながら、蜃気楼がたちのぼりそうな路面を僕は走りだした。彼女の住む町へ。

 堀川三条から五条へと下り国道1号に乗る。道路脇の距離表示は大津と名古屋だった。鴨川を越え、東大路通を通り抜けるとすぐに東山の中だ。今まで耳元でこだましていたざわめきが嘘のようになくなり、静けさだけが耳に届く。しんしんとした雰囲気の中を国道は貫通していた。回りの自然に占領されそうになりながら東山トンネルを抜けると山科盆地に至る。以前、夜に通ったときは車のヘッドライトが光の数珠のようにつながり、都会らしい幻想的な光景を作り出していた。しかし今は少し霞んでいる。

 一度南へ下り新幹線と併走していた1号線はまた北上し山科盆地の東端に達する。そこが京都東インターチェンジだ。逢坂山を越え大津の山の手を走る。道の両側に広がる風景は、なぜか実家近くの府道によく似ていた。


 瀬田川を越えた。ここからひたすら北上するのみだ。


 初めて行く道、行く土地。地図の上でしか自分の空想を浮かべられなかった僕が今、実際にその道を走っている。それは不思議な気持ちだった。しかしメーターがどんどん回っていくのを確認するたびに、自分が確かに彼女へ近づいていることに改めて気づいた。


 そばに行きたい。


 ただそれだけだった。


*******************


 「Her Areaへ向かって」


 何かを確かめるために バイクを飛ばした

 1号線を風切り 北を目指して

 友達か それとも きみはどう思ってるの

 遠い街へ一人 まだ見ぬ心へ


 Her Areaへ 向かって

 Her Areaへ 向かって

 一秒ずつでも きみへ近づいていく


 途切れた会話の続きを 空に探した

 きっと僕からすぐ近く 何も知らない君がいる

 このままか それとも 僕は前に進みたい

 何もかもを君に 捧げたことは そう


 Her Areaへ 向かって

 Her Areaへ 向かって

 言葉より声より きみに会いたい


*******************


 巨大な土壁のようなものをトンネルがくぐっている。それは川だった。草津川は日本でも有名な天井川だ。川底に土砂が堆積すると、洪水を防ぐために堤を高くする。また土砂が積もる。再び堤を高くする……これを繰り返して、川底が周りの土地よりもはるかに高くなってしまった。国道はその川底の下を貫通している。


 栗東町を経て守山まで来た。ガソリンが減ってきたのでスタンドに寄る。


「近江八幡まで、どのくらいかかります?」

「そやなぁ、まだちょっと遠いで」


 よく陽に焼けた兄ちゃんがそう教えてくれた。少しバイクに無理をさせたようなので、スタンドを出てすぐの自販機に立ち寄り、缶コーヒーを買った。太陽はいつも頭の真上から照り続けているように思えた。足元の影もそれほど伸びていない。3口ぐらいで流し込むように飲み干す。バイクを止めると直射日光が容赦なく照りつけるので腕がヒリヒリしてきた。水をブッかけたいほどだ。でも、そんな水はどこにもない。風にあてるしかないので、15分ぐらいで再びエンジンを始動させた。


 俺は今、何をやっているんだろう。


 走っているときも、そう思ったりする。こんなことをしたって彼女に会えるはずはない。偶然会えたとしても、それはそれで面倒なことになりそうだった。もし道端で彼女に会えたとして、そのとき彼女はどう思うだろう。「こんなところまで来て、しつこい人」と思うかもしれない。


 栗東インターチェンジへの取り付け道路のあたりで、国道1号と8号は分岐する。ここで鈴鹿方面へ向かう国道1号とお別れして、僕は8号に入った。まず、第1チェックポイントを通過だ。さらに野洲川を越えた。第2チェックポイント通過。しばらく走ると一番大事な地名として頭にたたき込んでいた場所が現れた。

 西横関。ここだ。

 ここで左折し8号から離れる。真っすぐ行くと取り返しがつかない。

 道の両側は未整地の荒れ地や金網で囲われた倉庫が点在している。

 対向車もそんなに走っていない道路を琵琶湖へ向けて走る。

 突然、目の前を青い線が走った。

 新幹線がこんなところを走っているのか。

 修学旅行先の静岡で「ひかり」を見たとき、その車輛の長さに驚いた記憶がある。しかし、16両編成の列車は僕が高架下をくぐるまでに通過してしまった。

 やがて住宅地が現れはじめ、大きく左へ、次に右へ曲がった。東海道本線の篠原駅が見えてくる。最終チェックポイントになる。彼女はいつもここで乗り降りしているはずだ。駅前は商店街になっていた。


 篠原駅は田舎作りの、なかなか趣のある建物でのんびりとした雰囲気が漂っていた。行き交う人々の表情がけだるそうなのは暑さのせいだろう。中学生らしい男の子が僕のバイクのプレートを見て怪訝な顔をしていた。走行距離メーターは出発時より90キロ以上増えている。

 線路を横切り走り続けると道路はやがてあぜ道を拡張して舗装したような道になり、両側は水田が広がる。その緑は圧倒的な広さで僕を脅しているようだった。

 僕は大阪の町中で育った。近所に水田があるにはあったが、それはこの水田と比べると箱庭のようなものだ。もちろん大きな水田地帯があることも知ってはいたが、あくまでも本やテレビで見た知識で、新潟や秋田にしかないだろうと考えていた僕には驚きだった。自分の力で行ける範囲でこんなに大きな水田地帯があることに。一面、稲穂の海だ。

 日野川の上に架かる石作りの橋を渡り、一路目的地へ走る。だが、ここまで来てなかなか彼女の住む町にたどり着けなかった。ぶっ続けて走ったせいで、疲れがたまり正常な判断力が失われているみたいだ。日野川を一体何回越えただろうか。地図を持ってはいたが、現在地がわからないことにはどうしようもない。同じ三叉路をあっちに行ったり、こっちに行ったりしていると、方位の感覚さえ麻痺してきた。僕はただ、がむしゃらに走っているだけだった。

 1時間ほどして行く手に大きな鳥居が見えた。工事をしているようだが、石碑にははっきりと「××神社」と刻まれていた。


 ここだ。着いた。


 今まで彼女が住んでいるところが未知だったから行きたかったのだと思う。この夏休みは僕にとって「待つ」ことが最大のテーマだった。ただ受け身でいる時間の中で、唯一能動的になれるのは自分の力で、彼女の住む町へたどりつくことだと思っていた。

 僕は何かを自分の意志のもとに成し遂げたかった。そして、それを貫徹した。

確かに満足感はあった。しかし、彼女のエリアへ勝手に入り込んでしまったこと、入り込ませるほどに追いつめられ、またそれがトリガーとなって実行して、目的を達成したあと、僕は自分自身が悲しくなってしまった。

 たった一つの、夏休みのお楽しみをこんなに早く見つけ出してしまった空虚感と、こんなことでしかこの思いを放出できない自分の立場。そして僕にはその立場をどうすることもできない無力感。それぞれが僕にジレンマを与えていた。


 それでも。

 彼女が好きだ。その前提で僕は動く。

 彼女が好きだ。それが僕のアイデンティティの一部となってしまっている。

 思いつめたのは僕の勝手かもしれないが、彼女の笑顔は罪作りだった。

 

 バイクから降り、僕は舗装されていない道路にかがんで土を触ってみた。乾燥した粒が風に吹かれて飛散していく。かすかに懐かしい匂いが手のひらに残った。


 この道を歩いたことがあるのだろうな。


 彼女はここから500メートル以内の円内にいるだろう。こんなことを考えている、僕のことを知らずに。

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第11章解説


山中越え……京都七口の一つである荒神口から近江盆地へ抜ける山越えの道。古くは志賀越道と言った。


草津川……2007年に新たに放水路が開削され、天井川として有名だった旧流路は全国でも珍しい「廃川」となった

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