8
もうすぐ夏休みに入る。おそらく人生で一番素敵な夏休みは大学1年だと思う。3年後に就職という最後の関門はあるけれど、とりあえず受験は終わり、心もほぐれて放たれた時期だ。春からこれまでの期間、僕はそれまでの期間を積算したよりも上回るほどの女の子との接触と、会話と、デートを経験していたと思う。
高校のクラスにまったくなじめず、新しい世界を開拓しようと飛び込んだバイト先。そこで知り合った1つ年下の後輩(偶然、同じ高校だった)と初めてのデートをした。彼女が僕を慕っているのは感じていたから、断られない相手と思って映画に誘ったのだ。ちょうど学園祭翌日の月曜日が代休になっていた。クラスの打ち上げがあるのに、彼女はそれを断って僕とのデートに来てくれた。
恋愛感情というより、兄が妹を想うような気持。大切な後輩には違いないから、事前に歩くルートを下見して時間を計ったり、トイレの場所を確認したりして完璧を期した。オーソドックスに映画を見て、喫茶店でお茶して。ぎこちないながらもファースト・デートは成功したと思う。その後、バイト先の年上のお姉さんたちにぶっちゃけて「デートの練習がしたい」と言って、笑いながら相手をしてくれた何人かと、そして唯一、学校のクラスの中で気になっていた女の子と。
まるで大学生になる前に速成でデート体験を積んだような感じで、僕の高校生活は終わった。
高校のクラスでは僕は「ガリ勉で成績はいいけど、運動はイマイチで冗談も言わない面白みのない男」という評価だった。お笑いの街・大阪の学校生活でこの評価は致命的だ。だけど、バイト先なら。仕事の出来る出来ないが評価の第一となる。幸い、僕はその点では女の子たちの評判がよかった。だから、お姉さんたちも「水城クンのデート特訓、してあげるよ」と手を挙げてくれたのだ。その記憶があったから、僕は調子に乗っていたのかもしれない。今のままの自分でイケるんだ。認めてくれる人は認めてくれる、と。
七海ちゃんとの予定が未定なまま、夏休みに入る僕の心はもやもやしていた。もともと、好きな女の子を思う気持ちで、自分の精神安定を図るようなところがあったから、時間が空いたときに、彼女の代替を求めてしまう。
わかってる、それは最悪なんだって。
でも、僕はたかが18歳の童貞で、それがどのようなことを引き起こすかなんてわからない。
僕が七海ちゃんに持っていた気持ちは、ただ好きだというのとも少し違っていた。なにより、彼女に対して肉体的欲求を感じていなかった。心と心だけでつながっていたいと、真面目にそう思っていた。松田聖子の歌に「童話の世界ではキスするときはおでこにするの」なんてあったけれど、それで十分だと思っていた。世間ではそれを「プラトニック・ラブ」と言うのだろう。
しかし、僕にも性欲はある。そして、そのリビドーをかきたてる対象は、亜衣さんだった。相手にしてくれるはずはない、と思っていたけれど、乳房の柔らかさ、股間に置かれた手、甘い体臭……。亜衣さんとのあの日の出来事を思い起こす。
僕の心の中で、七海ちゃんと亜衣さんはまるでコインの裏表のような存在だった。
七海ちゃんとの不安定な関係と、亜衣さんのなまめかしい甘い体臭と。もちろんわかっているのだ、本当に好きなのは七海ちゃんで、亜衣さんはかりそめの存在だと。まだ、女の子との関係をうまく整理できなくて、僕の心は飽和していった。そして無意識のうちに、七海ちゃんから逃げたくなっていた。近づきたい気持ちと、失ったときの喪失感。それを考えると失ったときのことを考えるのは、僕の悲観的性格のせいだと思う。
そんなとき、砂原のほかに七海ちゃんのことが好きだという男を知った。
やはり同じ専攻の阿部だ。北海道出身の彼は硬派で冷静、素朴な人柄だった。人望もある。僕とはまるで違う好男子だ。僕がそう思うくらいなんだから、きっと七海ちゃんも……。僕は、急速に諦めの境地に入っていった。
彼にはかなわない。
僕は心の中で彼女を恋人というより、いい友人という位置付けにしようとした。わかってる、これは逃避なんだ。自分の心をできるだけ傷つけないようにする防御反応なんだって。でも、いいじゃないか。傷つかないように、嵐から逃れるのはそんなに悪いことなんだろうか。それに、まだ告白はしていないし、このままいい友達になるのは、このあいだのデートのときに僕が不用意に言った「このままの関係でいいと思う」という言葉にも合致する。僕は方針を決めた。こんなことで方針を決めるというと大げさだが、筋道をつけておかないと僕は正直なところ、自分の言動にさえ責任がもてないぐらい動揺していたのだ。
僕は彼女にまた伝言を渡そうと考えた。今までよりちょっと長い文を書き上げた。
明日から夏休み、という7月10日、彼女に貸していた窪田僚の『ファースト・スノウ・キス』が返ってきた。そのあいだにはさまっていた手紙には、一緒に神戸にはいけそうもない、と記されていた。さらに、今年の夏には「私にとって大事なコト」が控えているから、決して浮いた話じゃない、とも書かれていた。
私にとって大事なコト。
僕はまず、彼女が何か資格をとるための勉強をするのかな、と考えた。しかし2カ月もある夏休み中、1日も欠かさずずっと、というのはちょっと考えられない。ましてや、つい半年前に受験勉強が終わったばかりだ。そのほかのことを色々と考えてはみたけれど、結局思い当たるものはなかった。
彼女は文字の上に点まで打って強調していた。だからよほどのことだろう。僕はそれ以上考えることをやめた。僕が仮にその内容を知ったとしても、それをどうこうする権利や資格はないのだから。
僕が知っている限り、彼女は専攻のあらゆるコンパに出たことがなく、それどころか、懇意にする人も作っていない。唯一、同じ町から通ってきているさくらちゃんとよく一緒にいる程度だ。しかし、二度のデートを経てつかんだ彼女の実像は、社交性のある明るい女の子だ。誰ともつるまないし、行事にも出ないのが不思議で仕方がない。僕はそれを、自宅が遠いことと、家が厳しいからだと思っていた。そういえば、専攻の名簿の自己紹介に「高校時代、『あんまりしゃべると品が落ちるから、しゃべらないほうがいい』と言われて努力中です」と書いてあった。それを実践しているんだろうか。だとしたら、やはり、七海ちゃんは僕好みのストイックでヴァージニティーのある女の子だ。
それに、彼女が自分の交際範囲をセーブしているとしたら、それは僕にとっては都合がいいことになる。だから、不思議には思うけれど、それ以上深くは考えなかった。
専攻の中での人気という点では亜衣さんが一番だった。僕の通っていた大学の女の子レベルから考えると、間違いなくビップ・クラスだった。
夏休みに入ってすぐ、僕は何もすることがなくて、部屋でゴロゴロしていた。高校のときに行っていたバイトに復帰するつもりだったが、まだ日にちには余裕がある。
そんなときに僕は亜衣さんに電話をしたのだ。
あの日のコンパ、亜衣さんの胸の感触。たちのぼる甘い、女の子の香り。思い出してしまう。
七海ちゃんが精神的な愛情の象徴とするならば、亜衣さんのあの日の体温は僕のリビドーを間違いなくかきたてる。
「昼寝してたの」
笑いながら亜衣さんが出てきた。この電話で僕が何を言おうとしていたのか、目的などなかった。ただ話が盛り上がったせいで、僕は調子に乗ってしまった。せっかくの夏休みなのに、昼寝するくらいなら、どこか遊びに行きませんか、と。
デートの誘いはあっさりと断られた。僕はそれを特に残念と思わなかったが、その次の話題がいけなかった。
僕と七海ちゃんとの秘密。本の貸し借りとそのあいだにはさんである手紙のことを――もちろん内容までは言っていない――しゃべってしまったのだ。
そうなのだ。
僕は誰かに、ただ自慢したかったのだ。
長年の鬱屈を晴らそうとして、ちょっと調子がいいからと、言ってしまったのだ。専攻で一目置かれている七海ちゃんとうだつのあがらぬ僕が、そういう付き合いをしているということを。それは七海ちゃんの気持ちを無視しているという点で最悪であり、エゴイストとの謗りをまぬがれない。
亜衣さんと七海ちゃんが同じ滋賀県に住んでいるということも、まったく考えてなかった。僕は無神経さとエゴで自分の欲求通りの行動をし、そして完璧に失敗したのだった。
亜衣さんとの電話を終えて、僕は我にかえった。
俺、何をしていたのだろう。
僕は自分の首をしめるようなことをしたかもしれなかった。
数日後、阿部の話はまったくのデマであることがわかった。僕は噂だけで自分の大切な判断を狂わせてしまった。七海ちゃんへの気持ちは歪んだ形のまま拡大していった。それは、一時的にでも彼女を裏切ってしまった僕の引け目の裏返しだった。ただし、彼女と会える機会は9月までないかもしれない。
何も得るものがなく、僕は大阪に帰った。ただそんな心境が影響したのか、帰り方をちょっと変えようと考えた。いつもは阪急と大阪環状線、そして近鉄と乗り継いで東大阪市へ帰っていくのだけど、今回はバイクで帰ろうと思った。何か別のことに集中したかった。
国道1号を下り、中央環状線を経由すれば比較的簡単なコースだ。高校のときに買った原付で帰るのだが、そんなに長距離を走ったことは今までに無論ない。母親は最初は驚き、最後はあきれていたけれど、僕は意に返さなかった。長距離のツーリングでは雑念が入ると事故につながる。もちろん僕はまだ死にたくはなかった。雑念というと語弊があるが、彼女のことも含めたいろんなことを忘れたかった。一時的にでも。
夜9時に堀川三条を南に下り始めた。五条まで下って右へ折れる。そこはもう国道1号だ。さすがに大きなトラックからタクシーまであらゆる種類の車が走っている。
夏の蒸し暑い空気が、いつのまにか冷たくなって頬にあたる。視線は遠近法のテキストに出てきそうな、きれいなパースペクティヴの収束点に留まり、手首はフル・アクセルの位置で止まったままだ。制限速度を30キロもオーバーしていたが、表示されている大阪までの距離はちっとも減っていかなかった。
やがて島本町あたりにさしかかり、京都と大阪の両都市の光が闇の中にボーッと浮かび上がる。淀川ぞいの道は寒く、空に輝く星と地上の灯が同じように見えるくらいあたりは暗かった。門真まできたときに一度、実家に電話をいれて、再び走りだす。中央環状線に入り、見慣れた景色が目につくようになってきた。午後11時、無事に到着。父親はあきれ、母親は感動していた。彼女は方向音痴なので地図だけで帰ってきたことが信じられないそうだ。
せっかく苦労して帰ってきたのはいいが、高校のときのバイト先に顔を出してみると、その空気の違和感が気になった。僕が辞めてまだ半年なのに、顔触れは随分違うし、あの和やかな雰囲気が失われていた。マネージャーの異動の結果だった。
僕は上からガミガミ言われるのが好きではない。誰でもそうだと思うが、すでに2年も働いていた経験があるのに、一からやり始めるのなら、別のバイトを選んだ方がマシだった。
さらに、実家に帰っても自分のものが何もない、という事実に気づいた。自分の持ち物はすべて京都の部屋に移しているから当たり前なのだが、曲を聞こうにもカセットテープ一つないのだ。曲を作ろうとしても楽器もない。
それは不自由というより不安だった。どうも僕は一人暮らしに向いている性格だったらしい。僕は別の意味であきれている家族の目を背中に受けて京都へバイクで戻った。大阪に滞在したのは、わずか2日だった。
大学の厚生課の掲示板でバイトを探そうと考えた僕は、10日ぶりに登校した。
人がまばらなキャンパスを歩いていると、あちらこちらに思い出となるべき場所があることに気づいた。
まだ入学して4カ月なのに。
そうなったのは、きっと彼女の存在のためだ。僕はしばらくバス停で座っていた。
あの日、僕がきちんと時間を聞いてボーリングに行っていたら、こんなことにはならなかっただろう。
運命なのかな。
きっとそうだろう、と僕は考えるようした。それがいい結果をもたらすのか逆なのかは、まだわからなかった。ただ僕の中には彼女の笑顔だけが輝いていた。
厚生課で満足なバイトを見つけられなかった僕はアルバイト・ニュースを買おうと外へ出た。正門を少し東に下ったところに最近コンビニエンス・ストアが出来たことを思い出した。
そのコンビニ、ローソンにはたいていアルバイト・ニュースがおいてあるはずなのに、この店には置いていなかった。しかし、この店自体新規開店のために、スタッフを募集していたのだ。僕はすぐ面接を受けて採用された。そして、早速翌日から深夜勤務となり、夏休み中続く昼夜逆転の生活が始まった。深夜勤務は僕の望んだものだ。
躾が厳しかった僕は早く寝かされた。夜に対する憧れは、こんなところに形を変えて現れてくる。時給がいいということもあったが、比較的暇なので起きていなければならないという点を除いてはまずまずのバイトだった。
だが仕事を一通り覚えてしまうと、別の気持ちがあふれてくる。フラフラした生活。大学1年の夏休みといえば、人生最良の時期になるはずなのに僕は黙々と働いていた。
みんな幸せな生活をしているのだろうな。
そんなことを考えていると、自分の生きている目的さえ失いそうになってくる。
たくさんの人が出会い、楽しい日々を送っているのだろうなと考えるとやりきれなかった。僕と七海ちゃんのストーリーは一時停止中で、その行方もわからないままだ。
友人はすべて帰省している。高校の同級生は浪人しているヤツが多かった。
京都に僕は、たった一人。
夕方に起きだして、夜中働く。朝、コーンフレークに牛乳をかけて食べて寝る。
最初のころは朝になって仕事を終えても眠ることがなかなかできず、焼酎を茶碗一杯分飲んでいた。京都の夏はとにかく暑い。ましてエアコンなど持っているはずがない。ただ、あまりアルコールばかり飲んでいると肝臓に負担がかかりそうなので、牛乳ばかり飲むようになった。この習慣は僕が大学を卒業するまで続いてしまうのだが。
とにかく、いい意味では規則正しい生活、実態は単調でおもしろみのない日常。そして、それが繰り返される。あまりにも単純な生活。他のブルジョア大学生から見れば貧困そのものだろう。これが夢にまで見ていた夏休みの実態だったのだろうか。
我慢強い僕でも普段なら耐えられなかっただろう。でも、こんなシンプルなライフ・パターンでも生活できたのは、心の中に鎮座していた彼女の力だった。
亜衣さんにちょっかいをかけた自分の行動に対する自戒の念が、彼女への気持ちに拍車をかけていた。僕の心はどんどん狭くなっていく。視界には彼女しか見えなくなっていた。
大阪と京都、京都と彼女の住む町、それぞれ直線で50キロは違う。会えないのはわかっている。でも僕は少しでもそばにいたかった。女々しい考えだと自分でも思う。しかし、そういう地道さ、真心がきっと通じるに違いないと僕は信じていた。
彼女あっての僕だ。夏が終わるまで静かに待っていよう。9月まで。きっと秋には素敵なことが待っているに違いない。そう思った。
*******************
「Injurious Love」
好きになるほどきみに傷つけられてくような気がする
このまま立ち止まることも許されず いたたまれずに
愛を注ぐことの辛さをいま感じ始めて
情けないかもしれないけど 少し怖いよ
傷つけられても 前にすすむことが
正しいことかはわからないけど
誰が本当で何が嘘かを見極めるために
不安を孤独に変えても何もならないから
今 きみを僕の心で変えてあげるよ
痛みをかかえて通りすぎた歴史が誰にでもあるけど
そのたびに何かに助けられてここまできている
僕が痛いのかきみがつらいのか 誰にもわからない
すべての予測を無視して歩き始めたい
悲しみのふちから はいあがって
そのたび心 強くしてきたよ
きみがすべてでいいはずがないと強がりを言うよ
心をただであげたら きみがみじめになるだけ
今 きみを僕の心で変えてあげるよ
---------------------
第八章解説
松田聖子の歌……「時間の国のアリス」。作詞は松本隆。作曲は呉田軽穂(松任谷由実)。1984年5月発売。
「ファースト・スノウ・キス」……窪田僚著。唯一の短編集。
アルバイト・ニュース……学生援護会から刊行されていた「日刊アルバイトニュース」のこと。翌1986年に題名を「
時給……昼の時給が550円、深夜番の時給800円だった。ちなみに前年の大阪府の最低賃金時給は475円。
ローソン……現在は建て替えられてファミリーマートに変わっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます