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京都盆地は巨大な水がめなのだという。その地下には膨大な地下水が流れていて、どこを掘っても水が出るし、伏見の酒造りに生かされていたりするそうだ。しかし、いくら地下の水脈が無尽蔵でも、太平洋高気圧がどっしりと居座り、日本列島に酷暑をもたらすと、京都は蒸し風呂状態になってしまう。そうすると、僕は寒冷前線が通過したあとの涼やかな風がほしいなと思う。夏は四季の中で一番好きな季節だけれど、今年に限っては9月の乾いた風が待ち遠しかった。
世界はあいかわらず東西に分かれて核兵器を突きつけ合っており、イデオロギーの対決が永遠に続くと思っていた。対立の中の安定、という奇妙な状態に慣れていて、国境線が変わることはもうないと思っていた。わずか数年後に冷戦が終わり、いろんな国が分解して、新しい国境線が引かれることになるとは思ってもみなかった。日本はバブル景気前だったが、資産も株も持っていない身としては何の関係もなかった。
僕の過ごす日々は、典型的に平凡な大学生のそれだった。
バンドのドラムス、ヘリウム西野から借りた『Girl in the Box』が鳴りだすと、もう夜6時だ。ミニコンポを目覚まし時計代わりに僕は使っていた。簡単な夕食(朝食と言うべきなのだろうか)を食べながら、寂しさを感じる。北に向けて開いた窓の外は薄い、水色の景色。昼間の熱気の残りかすを帯びた、ちっとも涼しくない風。知り合いが誰もいない京都。一本道の往復。昼夜逆転。ひとりだけ。誰もそばにいない。夏休みになって電話がめっきり減った……。
いかん。どうも暗い方へ考えてしまう。
気分転換にテレビをつけてニュースを見る。今日も暑かったそうだ。そのかけらたちを肌に貼りつけながら出勤することになる。
やがて空は星空。夜の9時半に部屋を出る。バイクで堀川通を突っ走る。深夜番は社員1人バイト1人の2人体制だ。僕は週に4回深夜番に入っていた。
夜10時が仕事の始まりだ。夜中の2時まではまずレジにいる。この時間帯がもっとも客が多い。といっても夏休み中なので学生は少なく、通りがかりのほうが多い。客がいないときは商品を前出しする。あくまで見栄えの問題なのだが、それが大事なのもまた商売だ。その他にも思いの外、事務仕事が多かった。ミスをして打ち込んだ伝票の記録や、売価変更伝票など細かい数字を扱う仕事だ。また、唐揚げなど、調理しなければならない商品もある。
2時から3時までは休憩。店内の商品で食事をする。もちろん買わなければならない。食べ終わったらバックルームにダンボールを敷いて横になって眠る。新しい店舗だからこそ出来ることだ。仮眠だがかなり楽にはなる。
3時から4時まではドリンク類の補充。酒は売っていなかったのが救いだったが、それでも種類は多岐に渡り、その商品名と陳列場所、値段を覚えておかなくてはならない。店の前の道路は日本海側へ抜ける道につながっていて、海水浴に行くグループや家族連れが道中に飲食する分を補充しにやってくる。大学が始まると学生も多くなってくるだろう。ドリンク類の補充が終わると掃除だ。もちろん昼間もやっているのだが、一番客の少ない時間に大掛かりな掃除をする。フロアからバックルーム、カウンター、そして駐車場まで箒で掃いてはモップを掛ける。店内をすべてクリーンアップしたころに、商品を積んだトラックが到着する。主に朝のパンなどだ。パンの種類と数が伝票通りかどうか一つひとつ数えながらチェックする。これを見落とすと棚卸しのときにロスになり店の損失になるので注意が必要だった。店長は寡黙な人だったが、この点に関しては理由を含めて説明してくれた。頭ごなしの命令よりこういうやり方のほうがよっぽど人はついてくると思う。食パンは棒状で納入されてくるので、店内でスライスし商品袋にいれる。「5枚切」というようなシールを貼って完成だ。パンの陳列が終わると空はもう明るい。近所の人が散歩を始めた。また別の問屋からトランスポーターが到着。今度は弁当やおにぎり、一般商品。補充すべきものは速やかに陳列し、在庫はバックルームに整理して積んでいく。この作業が終わるとだいたい朝七時。勤務終了だ。いつものように牛乳を買って店を出る。
彼女はまだ眠っているのかな。
そんなことを考えながら、車のまばらな今出川通を東へ走る。大江千里の「セクシャリティ」が耳元のヘッドフォンから流れてくる。
彼女を助手席に乗せてこの曲のようにドライヴできたら、どんなにいいことだろう。
そんな妄想がわき出てくる。
夕方起きたとき、
夜中に働いているとき、
朝、こうやって風を切りながら京都の街を走っているとき、
そして眠る前。
彼女の顔を思い出し、そして気持ちを落ち着かせて一日が終わる。一秒ごとに彼女を思い浮かべ、心にしっかりと刻み付ける作業を無意識のうちに休みなく続けている僕だった。
もう暑くなってきた。早く寝よう。
朝のニュースは「おはようございます」で始まるけれど、。僕はこれから眠りにつく。今日も暑くなるらしい。僕は今年の夏の、本当の暑さを知らないで過ごすかもしれない。それが無駄にならないように。ウォークマンからは『未成年』が鳴り続けていた。
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第九章解説
『Girl in the box』……角松敏生のマキシシングル。1984年発表。
レジ……まだバーコード読み取りによる精算ではなく、商品に打たれた値札シールを見て数字を打ち込んでいく方式。そのため、買い物かごの中にある商品の値段をあらかじめ暗記して打ち込みスピードアップを図る技を習得した。値札シールを連射してつけていくのも重要な仕事だった。
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