7

 火曜日の午前中はしっかり二講とも授業があった。まだ真面目だった僕は、第2外国語はともかく難解な言語学まで出席していた。僕も七海ちゃんも同じ授業を取っていたけれど、いつものように会っても何も言えなかった。それでも視線が会うと、ニコッとしてくれる。僕もぎこちなく微笑み返す。それが秘密の合図のようで心地いい。それに今日はデート当日なのだ。

 あこがれの彼女と白昼のデート。そう思うだけでニヤついてくる。しっかりしなければ。誰かに察知されたらまずい。

 今日のデートのことを知っているのは彼女と僕と、ナオちゃんだけだ。彼女が誰かに話していたら別だけれど。それでも僕自身の態度でほかの専攻連中、とくに男どもにバレるのは是が非でも避けなければならなかった。事態は深く静かに潜航して進め、歴史は真昼間に作られるのだ。

 七海ちゃんは手紙に「河原町のことは何もわからないので水城君におまかせです。楽しみにしてますからね」と記していた。

 彼女を“連れて”いかねばならない。それは心地よいプレッシャーだった。

 頼りにされているのだ。それまでの18年の不毛な時間を取り戻すように、心はバラ色に染まっていた。


 彼女、俺に気があるのかな。好きなのかな。


 考えてもわからないことをまたしても考える。とりあえず、今はいい。今は彼女がそばにいて、1カ月に一度でいいからデートして……。


 彼女はいつも学而館地下の食堂で昼食をとるということだから、僕は存心館地下の食堂でナオちゃんと食べることになった。直前のレクチャー。というか、最終チェックというか。

 ナオちゃんが僕をじっと見て言う。

「今が一番うれしいときでしょ。はたから見ても初々しいなあ。今日は顔がほころびっぱなしだったでしょ」

 からかう意味ではなく、羨ましそうな視線でナオちゃんは言う。

それは彼女自身がもう味わえない、生まれたての新鮮な恋愛の瞬間を、僕と七海ちゃんが堪能していると思っているからだろうか。

「そうかなぁ、やばいなぁ。他の人にバレたらどうしよう」

 ほとんど他愛のない会話だったけど、彼女のことを言うたびに心が揺れていた。


 食堂にくる前、ちょっとした問題が起こった。実は砂原(例の、彼女のことが好きらしい男)が「アッセンブリー、暇か?」と声をかけてきたのだ。横にいたナオちゃんは事情を知っていたので、「二人で河原町に遊びに行く」とごまかしたけれど。

 砂原が七海ちゃんのことをどう思っているのか、よくわからない。彼はいつも彼女の隣に席を構える。だが授業中や前後に話をしているようでもない。彼は楽天的な性格で落ち込んだり、怒ったりしたところを僕は見たことがない。それは回りの友人も言っていた。ためしに一度だけ僕が砂原に彼女についてどう思っているのか追及したことがある。

 彼は「どうしてそう思うの?」と聞き返し、僕がその根拠を述べると「なるほどねぇ」と、それだけ言って真意を言わなかった。

 普通なら少しぐらい表情に出るはずだと思うのだが、彼の態度は変わらなかった。別の人がやはり追及したときも似たり寄ったりの返事だったそうだ。


 ナオちゃんと別れてから生協の購買部に立ち寄ったが、結局何も買わずに外へ出ようとすると、七海ちゃんが目の前にいた。後ろ姿だったけれど、見間違うはずがない。

 どうも掲示板を読んでいるらしかった。声をかけようか迷ったけれど、僕にはできなかった。まだ心の準備ができていない。もう一度店内に戻り、しばらくしてもう一度出口へ行くと彼女はいなかった。少し僕はホッとした。


 そういうことを経て、僕は約束の5分前に衣笠のバス停に着いた。彼女はまだいなかった。僕は文庫本「機動戦士ガンダム」(朝日ソノラマ版)を読みながら彼女を待った。この本、彼女はすでに読んだと言っていた。ホント、なんでも一緒なんだから。


 1時をほんのすこし回ったころに、本から目をはずし、正門へ視線をやった。彼女が走ってくるのが見える。


 僕のために来てくれたんだ。


 信号で彼女が待っているあいだ、僕はこれからのことを断片的に想像していた。河原町通を人込みにもまれながら、さながら小惑星群をヒョイヒョイ通り抜ける宇宙船のような散歩なんかを。


 シグナルが変わった。彼女が僕のほうへ走ってくる。はあはあ息を切らせて、いつもの笑顔で僕を見上げる彼女が、

「遅れてごめんなさい」

と、まるで恋人たちのあいだで交わされる言葉。間近で見る彼女もとびきりかわいい。


*******************


「ツリーチャイムの午後」


 お気に入りのテープをRUNさせて 

 きみの笑顔が見えるのを待ってるんだ

 まるで映画に出ているみたいな 

 テーマの中にきみが走ってくる


 遠くから かすかでも きみの予感

 ツリーチャイムが鳴っているから


 今はまだ友達だったね きみとは 

 でもいつか この手で抱きしめるから

 きみの心はいつか僕のそばで 

 そっとひざまずくんだ


 午後の陽射しを背に受けながら 

 二人で歩いたハート・アベニュー一番街

 気まずさを打ち消すための会話より 

 黙っていたほうが 想いがわかるから


 近くても 素敵な きみのまなざし

 ツリーチャイムが鳴り響いてる


 死ぬまで守り続けることが 

 僕が生まれてきた使命

 きみは無邪気に笑っているね 

 僕の気も知らないで


*******************


 細身の体。女の子にしては少し高い背は僕の耳のあたり。彼女の肩はせつないぐらい頼りなくて、その肩にほんの少しかかる黒い髪は、固くも柔らかくもないようで、ゆるやかなウェーヴを描きながらエッジに至っている。目はきれいに開いていて丸っこい瞳だ。高校1年の頃から大ファンだったアイドルの菊池桃子によく似ている。


 僕はむかって右斜め前から見る彼女の顔が好きだ。ほどよいふくらみの頬からあごへ、すっと落ちる輪郭。そのくびれに素敵な髪が戯れている。そんな姿が好きだった。彼女は存在するのが不思議なぐらい素敵な人だった。言葉で表現などできようもない。

 バスが近づいてきた。51系統のバスで河原町三条まで行く。そう告げた。

 バスに乗り込むと二人がけの座席の、空いていた一つに彼女を座らせて、僕は横に立った。話をしていると、偶然、バンドのボーカルが彼氏と乗り込んできた。バンドのメンバーには今日のことはまったく伝えていない。ボーカル嬢は僕と七海ちゃんの姿を認めると、少し驚いた顔をしたが、軽く微笑んでウィンクを寄こした。


 やがて烏丸今出川をバスが通りかかる。同志社大学の横を通ったときだった。


「ほら、同志社だ」

「あ、ほんとだ」

 彼女はわりと乗り気で外を見る。

「受けたの? ここ」

「ううん」

「うちだけ? 受けたのは」

「うん」

「国公立は? 受けた?」

「うん」

「ふーん」


 国公立を受けて私立にくるってことは、不合格だったということだし、何か、この話をしたら表情が暗くなったので話題を変えた。途中、彼女の隣に座っていた人が下車したので、彼女は窓際へ詰めてくれた。彼女の隣に座る。

 まるで……子供がずっとねだっていたものを買ってもらったときのような、そんな気持ちが僕の心を埋めていく。僕が何か言うと彼女が答える。いつも会話は僕の主導の下だった。彼女を見ているとデート慣れしているようでもあり、ぎこちないところもあるように見える。


 彼女と初めてデートした男ってどんなヤツなのだろう。


 僕は女の子とデートしたときに、いつもこんなことを思う。

 男には征服欲がある。何かを自分のものにしたい。そういう対象に女の子さえも選んでしまう自分を動物的だと思って自己嫌悪してしまう。どうしようもない罪悪感。ふと見ると彼女の輝き。罪悪感さえ消し去っていく、ノーブルな光。


 バスは河原町通に入り、三条の朝日会館の前で降りた。ウィークディの昼間、しかも三条より上がったところなので人通りはまばらだ。詩の小路ビルに行くつもりだったので、少し南へ歩き、三条通を西へ進む。アーケードの中、京都らしく赤い布を敷いた長椅子が置かれた通りを歩いていく。修学旅行生たちがたくさんいる新京極通へ曲がると、目指すビルが見えてきた。


 詩の小路ビルは一つ一つの店がレゴ・ブロックのように組合わさっていて、そのあいだを縦横に階段が走っている、スキップフロア構造だ。古着屋や小物などを扱う店などいろいろなテナントが入っているが、僕と彼女は中国製品専門の店で粘っていた。素朴な素材を使った品々が並び、一昔前の日本のおもちゃのような雰囲気を持ったメード・イン・チャイナの小物が目に入ってきた。ビーチボールの地球儀には世界の都市が中国語で書かれている。首都の中で一つだけわからない街があった。僕は地理が得意だ。こういうところでいいところを見せておかないと。

「ワルシャワだ、きっと」

 彼女は難しい数学の問題が解けたときのようにほっとした顔になった。僕はなんだか得意な気分になった。


 詩の小路ビルを出て新京極通を南下していく。視線を落として、左側を歩いている七海ちゃんの右腕を注視した。カバンは左肩にかけているので、右側はフリーだ。普通の歩幅で歩く反動で右腕はナチュラルな振り子運動をしていた。僕は自分の右腕を彼女の左腕の揺れに同期させて、偶然を装って軽くぶつけて、「手、つないでみようか」なんて言ってみる作戦を立案した。彼女はどう反応するだろうか。もし難色を示したり、断られたりしたらどうしよう。まだまだこの日のデートは始まったばかりなのに、気まずくなるのは避けたい。それに、僕自身、そんな言葉を言えるかどうか自信がなかったから、結局実行はしなかった。


 僕たちは蛸薬師通に折れてビブレに入った。5階の、たいして役にはたたないけれど、面白そうな小物がいろいろとあるところで、あれやこれやと茶化しながら雑談をしている姿を他人が見たらどう思うだろう。きっと恋人同士に見えたはずだ。

 僕はもう、彼女が自分のものになっているような錯覚にはまりかけた。しかし、冷静に彼女の動きを見ていると僕のことを気にかける様子はあまりなく、自分で興味のありそうなものを探しているようで、まだまだ友人の域を脱していないようだった。


 冷静にならなければ。


 彼女はこういうきらびやかなところが好きなようだった。僕もそれは同じだった。

 彼女には他人が真似のできないような初々しさがあった。それが大きな魅力だった。そして、僕以外の誰にもそのことを知らせたくなかった。このデートのことだって、ナオちゃんにしか言っていない。ところが、ビブレにつく前に同じ専攻の女の子とバッタリ会ってしまった。新京極六角でモッチャンに。

 モッチャンは思慮深い雰囲気のある才女だ。だが、そのルックスはかなりかわいい。なんだか僕が女の子のルックスを表現すると全部「きれい」「かわいい」になっているような気がするが、僕の通う専攻は美女ぞろいだったし、モッチャンは十分に美形なのだ。

 僕が左で、彼女が右。微妙な間隔で並んで歩いていたとき、僕の左側からぐるっと回りこんでモッチャンが彼女に声をかけた。モッチャンは一人のようだ。

「こんにちは」

 やばい。見つかってしまった。

 ここで僕がモッチャンをことさら無視するようにしたら、余計疑念を持たれてしまう。それに、すぐ横のこの距離で知らんふりなんてできない。見つかってしまったのなら、挨拶ぐらいしておかないとマズいだろうと思った。どうして二人でいたのかなんて、言い訳はなんとでも考えられる。

「こんちは」

 えっ、という感じでモッチャンは僕を見る。どうも僕には気づいていなかったようなのだ。真横にいたのに……なぜだ。墓穴を掘ってしまった。


 七海ちゃんと僕を交互に見て、モッチャンは何か悟ったような表情をした。明らかに誤解している。


 ち、ちがう、そんなんじゃないぞ、

 

 言い訳をしようとすると、「じゃあね」と言ってさっと歩いていってしまった。

 僕がこんなに焦っているのに、七海ちゃんは何事もなかったような顔をしている。

「どうする?」

「え?」

 彼女の態度はどうもわからなかった。鈍いのか、誤解されてもいいと思っているのか。一応、指摘していたほうがいいと思って僕は言ってみた。彼女の心のうちも少しぐらいはわかるかもしれない。

「モッチャン、あれは誤解してるぞ、きっと」 

 諭すように言うと、

「えっ。どうしよう」

 照れながら急に焦りだした。どうも単に鈍いだけなのかもしれない。そういえば、彼女には天然ボケなところがあった。「俺は誤解されても別にいいけど」なんて言えたらいいなと思いながら、紳士的な解決案を考える。急に焦りだした彼女は、それはそれでチャーミングだった。

「そうだね、バス停で偶然に会って俺が『河原町に行く』って言ったから、ついでに一緒に来たってことにしよう」

 要はこの間のデートを逆にしたようなものだ。

「うん」

 真っ赤な顔をして恥ずかしがっている彼女の笑顔は新鮮でキュートだった。結局、後日にわたって、この件で僕たちを尋問しにきた人はいなかったので、この言い訳を使うことはなかったけれど。


 ビブレで彼女はウォークマンを手にとって見ていた。彼女の表情が変わる。そして、すぐそばにいた見知らぬ男と話をはじめた。もちろん店員ではない。ナンパされたのではと焦ったが、男のほうからは何も話しかけていなかった。どうも知り合いらしい。二,三分で別れたけど僕は気が気でない。でも「誰?」なんて聞くと僕の度量を疑われそうな気がしたし、だいたい、僕が追及する権利なんてない。僕は彼女の知人であって、恋人ではない。彼女は未だ僕の気持ちを分かっていないだろう。


 結局僕は他人のふりをしていた。なぜなら、きっと彼女はこれまでも僕が抱いている印象を他の人に与えていたに違いない。「やっぱり、この子も大学に入ったら男をつくるんだな」と、その男に思われて彼女のマイナスになるのは避けたかった。僕はそれだけ自分に自信がなかったのだ。

 彼女はそんな僕の心を察してか、単に事情を説明したいのか、すぐに僕のところに戻ってきて口を開いた。

「あの人、高校の同級生なの。京大に行ってる」

 彼女が相当レベルの高い高校に通っていたことは、回りから聞いて知っていたが、改めてそういうことを聞くと僕の中のコンプレックスが頭をもたげてくる。

 僕は推薦入学で今の大学に入った。面接のみの入試だったし、特別推薦なので、高校の校長推薦が決まった瞬間に入学は決まったも同然だったから、まじめに勉強して入った人には引け目を感じていた。


 気分を変えるつもりでビブレを出た。河原町通に出て四条へ向かう。予定ではここで京都駅に向かうつもりだった。そのときにあの看板が目に入ったのだ。


“SONY PLAZA”


 そうだ、ここがあった。忘れていた。

 しかし、彼女には今僕が気づいたと知られないよう、いかにも予定通りという顔で、ここに入ろう、と告げた。僕は彼女を案内しなければならない。落ち度があってはならないし、彼女が不安がるような態度もしてはならない。まだ若く、狭い視野しか持っていなかった僕は、自分の行動をそう規制していた。


 ソニー・プラザは輸入品ばかりの店だ。菓子やドリンク、文具、洋服から化粧品まで、いろんな商品が揃っていた。最初、二人で並んで色々と見て回っていたけれど、そのうちに彼女が化粧品のほうへ行ってしまった。まだ若く、エセ硬派だった僕はそこまでついてはいけなかった。僕がまたお菓子売り場のあたりでウロウロしながら、チラッと彼女がいそうな場所を見ると、彼女は危機に陥っていた。

 売り場にいる、化粧品おすすめオネーサンにつかまっていたのだ。オネーサンは必死に彼女を口説いているようで、彼女の手の甲にクリームを擦り込んではぬぐい、肌触りの違いを説明しているようだった。

 救出に向かうべきだと思ったけれど、恥ずかしかった。それはまるで恋人のする行動のように思えた。僕は彼女と一緒にいたかったけれど、そのときは恋人という名目はどうでもよかった。僕が彼氏ぶって彼女を救ったとしても、彼女がそれをうっとうしく思ったのなら僕の不利になる。事態の展開はゆっくり、じっくり進めていきたかった。第一、あの場に行ったところで僕は何を言ったらよいか見当もつかなかった。


 結局、僕は彼女を見殺しにしてしまった。30分ほど、僕は一人でボーッとしていた。そのあいだ、このあと行くだろう、喫茶店での会話を考えていた。

 もうすぐ夏休みだ。彼女と少なくとも2週間に一度は会いたかった。7月15日の月曜日に神戸へのデートに誘うというプランもできていた。

 夏に土台を作り、秋にアタックする。そういう計画だった。とにかく今は、そばにいてくれるだけで――。

 いや、本の貸し借りや文通のような伝言の交換、不定期な今日のようなデート。

 それだけで十分だった。彼女が僕に一目置いてくれる。それが僕の幸せになりつつあった。


 30分後、彼女が解放されたようだ。結局何か買ったようだ。彼女に経済的負担を与えてしまった。

 ああいう物は高いんだろうなぁ。まして輸入品だし。

 そんなことを考えているとイジイジしそうなので、ふっきることにした。

 彼女はボーッとしている僕の方に済まなそうに来た。

「ごめん、本当にごめん」

「え、いや、俺のほうこそ、助けに行けなくてごめん」

 そそくさとその場を離れた。

 四条河原町の阪急百貨店の横にある17系統のバス停へ行くあいだ、彼女は、化粧品売りつけオネーサンに「目じりのところに小ジワがある」とか「鼻のてっぺんが荒れてる」だとか「よくそんな顔をして歩けるわね」とか言われたと愚痴っている。

 世界一かわいい女の子をつかまえてなんてことを言うんだ。思わず口に出しそうになった。そんな気持ちがあったからだろうか、バス停について、乗車待ちの列に並ぶと、僕は言った。


「もう俺から離れたらだめだよ」


 こんなに人の多い繁華街、何があっても不思議はない。ましてソニー・プラザでああいうことがあったばかりだ。そういうつもりで僕は言ったのだが、彼女は何か思案顔になった。そして、はにかみながら「うん」と答えた。

 僕はその間が気になった。いったい何を考えていたのだろう。もう一度自分の言った言葉を考えてみると気づいた。


 これは口説き文句だなぁ。やばいことを言ったかなぁ。


 それはそれで仕方ない。彼女は「うん」と返事してくれたのだから。そして思い出す。デート序盤で手をつなごうと急遽立案した作戦を。今の、このタイミングなら、それほど違和感なく言えるかもしれない。


「だから、手、つなごっか」


 七海ちゃんを見つめながら、ありったけの勇気を動員して言ってみた。心臓が急速に覚醒して鼓動が速くなり、頭がくらくらしはじめ、視界がぐねぐねと揺れる。彼女は「え」と小さく言い、ぱぁっと顔を赤くした。

もう、言ってしまったんだから、だから。

 僕は思い切って、彼女の右手を左手でにぎった。触れた瞬間に電流が走ったように、指が、手が、腕が、そして頭まで痺れた。七海ちゃんの体温が、生々しさをもって伝わってくる。彼女の鼓動も早鐘のように乱れ打っているように感じる。

 手をつないでも、彼女は嫌がらなかった。バス停で京都駅行きのバスを待っている間じゅう、僕たちは俯きながら手をつないで立ち尽くしていた。


 バスが来た。こういうときどうすればいいのかわからない。京都市バスは降車時に運賃の支払いをするから、そのまま乗りこめばいいのだけれど、このままでいいのかわからなくて、僕は手を離した。バスの座席は埋まっており、降車ドア近くに立つ。その場所を決めるときにアイコンタクトする。真っ赤な顔をして、少し挙動不審になっている七海ちゃんを見て、「もしかしたら初めて男と手をつないだのかな……」と思ったけれど、確かめはしなかった。でも、たぶん、あの反応は、きっとそうだ。彼女の歴史の中に一つでもいいから僕の名前が刻みこめたらいいなと思っていたから、とてもうれしい。

 バスに乗ってからは、手をつながなかった。


 バスの中で彼女は思い出したように「あっ」と声を出した。

「どしたの?」

「忘れものした」

 まさか財布とか……と思いながら聞く。


「何を?」

「傘」

 正直に言うと傘でよかったと思った。

「傘? どうする、取りに戻る?」

「ううん、もうあそこへ行きたくない」


 少なくともここだけを取ればこのデートは失敗と言わねばならない。

 彼女に経済的負担を与えたこと。

 傘を忘れるきっかけを作ったこと。

 河原町の中で嫌な場所を作ったこと。

 手をつないだことは、どうだったろうか。評価できない。


 彼女は楽しんでくれたのだろうか。いや、そんなことは……。嫌な思いをさせてしまった。きっと二度と僕とデートしてくれないかもしれない……。

 逆恨みかもしれないが、その日から僕はソニー・プラザが大嫌いになった。


 暗い表情の僕を見てか、彼女は慰めるようにいった。

「私、学校に入ってから3本目なの、傘忘れたのは」

 そんな彼女の心遣いが痛いほど嬉しかった。


 時間が迫っていたので京都駅に着くとすぐにポルタに入り、喫茶店で話をすることにした。彼女はクリーム・ソーダ、僕はアイス・カフェ・オ・レをオーダーする。ウェイトレスが「え?」という表情をした。ちゃんと聞き取れなかったらしい。これ以上トラブルを起こしたくなかったので、一語ずつ区切って伝えた。それを聞いて彼女は笑っていた。

 落ち着いたところで僕は一番言いたくて、聞きたかったことを口にした。

「夏休み、どうするの?」

「いろいろ」

 あっさりと彼女はいった。今日の、それまでと違い、その言葉には「これ以上聞かないで」というような、強い威嚇の語気があった。それだけで僕はそれ以上詳しいことを聞く気を失いかけた。あれこれ聞く男は嫌われると聞く。

 すでにいるのかなぁ……つきあっている人……いや、彼女の口からいないって聞いているんだ。勇気を出して図々しい申し入れをした。

「あの……夏休み中にね、……そう、2週間に一度は会いたいんだ。本当は一週間に一度っていいたいんだけど、遠いところだし、そんなに束縛できるような間柄でもないし……」

 彼女はとたんに困ったような顔をした。こんなことを言うだけで、もう僕の意図はわかると思うけれど。

「う……ん。色々と予定もあるし、家族で旅行にも行くし……」

「まだ、今ではわからないってこと?」

「うん」

「浮いた……話?」

「ういた?」

「だから……他の男とどこかへ行くとか……」

「ううん、違う」


 彼女はかなり激しく否定した。


「そうか……よかった……それじゃ15日にね、神戸に行こうと思ってるんだけど……一緒にどうかなぁって」

「15日って、7月の?」

「うん、再来週の月曜」

「えっとね、その日から家族で旅行に行くの」

「そうか……」

 言うことなすこと、みんな裏目になってしまった。僕にもう武器はない。


「神戸かぁ……」

「行ったこと、ない?」

「うん……」


 彼女は明らかに興味を持っている。ただ何かがその気持ちを妨げているように見える。いつもほんのりと帯びている微笑みの上に苦虫を噛み潰したような表情が加わって、なんだかかわいそうになってきた。まるで拷問にかけているような感じだ。僕は大譲歩をした。

「それじゃ、夏休み中に……1回だけでもいい。1回だけでも会って」

「……」

「わかったときでいいし、電話して」

 僕は京都と大阪の連絡先を記したメモを渡した。二つ折にしたそれを彼女は広げる。

「じゃあ……京都のほうに……」

「電話、してくれる?」

「……うん……」

「それじゃ、お願い」

 彼女は頷いた。


 何となく気まずくなって、何とかその場をとりつくろうとするけど言葉が出てこない。イライラしているうちに、変な言葉を吐いてしまった。

「俺、このままの関係でいいと思う」

 彼女はうつむかせていた顔をパッと上げた。じっと僕を見ている。僕の言葉の真意を探るように。

 きっと彼女は夏休みのアポを取られたので、そんなに急速に僕との関係を深くするのにとまどったろう。それを弁明するためにこう言ったのだけれど、逆効果になったようだ。彼女は何というべきか迷っているような顔をしていた。またまた焦った僕は今度こそ無難な質問をした。

「何時までに帰りたい?」

「……7時までかな」

「ここからだったら1時間で帰れるんだっけ?」

「うん」

「それじゃ、6時にここを出ようか」

「うん、ありがとう」

 5時55分にその喫茶店を出た僕と彼女は改札に向かった。

「今日はどうもありがとう」

 そう言ってくれた。でも心から彼女は言ってくれたのか? 不器用な僕には彼女の相手なんて――たとえ友達だとしても――とうてい無理なんじゃないのか?

 予定を変更して地雷を踏んでしまったソニー・プラザのことも、いきなり手をつないだことも、「俺、今のままの関係でいいと思う」と言ってしまったことも、そう、すべて彼女に嫌な思いをさせたんじゃないんだろうか。


 自己嫌悪の波の中、僕の心は彼女へ突っ走るべきか、もう引くべきか迷った。

夏休みに入る前、そんな混乱した気持ちから僕はひとつ大失敗をする。それが後になって甚大な影響を及ぼすことを知る術もなかった。


 翌日、「宿敵」ソニー・プラザに傘を探しに行ったけれど、すでになかった。

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第七章解説


学而館食堂と存心館食堂……学而館は当時、産業社会学部、存心館は法学部の校舎。その食堂は学而館が庶民的で価格控えめ、存心館はカフェテリアで洋食メニュー多め、価格もやや高かった。


菊池桃子……1983年芸能界デビュー。学研の雑誌「Momoco」の創刊号を見て一目惚れ。それ以来のファンだったが、就職したのちの徹夜の校了明けの朝。眠さで高揚していた僕はワイドショーの「懐妊会見」を見て、思わずテレビを殴りつけ、なにやら恨みの言葉を呪文のように唱えていたらしい。


同志社大学……私の母校・立命館と双璧を為す関西私学の雄。京都市街のはずれにある立命館に比べ、同志社大学今出川校舎は市の真ん中にあり御所にも近く、環境的に素晴らしい場所である。しかし、翌年に京田辺市に新キャンパスが開校し、1,2回生はそちらでの授業となったため、今出川校舎に通うのは上級生のみとなった。


朝日会館……テナントビル。当時の意識で言うと、河原町繁華街の北の果て。


詩の小路ビル……現存しているが、現在「詩の小路」と名前がつくビルは京都市内に3つ存在する。1985年当時は新京極通にあるビルしかなかった。


機動戦士ガンダム(朝日ソノラマ版)……富野喜幸(現・由悠季)著。全3巻。版元消滅のため、現在はKADOKAWAから出版されている。日本アニメの金字塔。朝日ソノラマ版はガンダムブーム以前の出版で、現在刊行されている表紙と違ったりするため、古書市場での評価が高い。いわゆる「一年戦争」の話だが、アニメーションとはかなり設定やストーリーが異なる。(アムロはセイラとセックスするし、最後は戦死してしまう)


ビブレ……2010年閉店。ビルは取り壊され、跡地には高層マンションが建った。


ソニー・プラザ……現在、GAPが入っているビル。なお、ソニープラザという名称自体もソニーグループから独立したため「プラザ」に変更されている。


阪急百貨店……長らく四条河原町のランドマークだったが、現在は丸井になっている。

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