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 だいぶ経って聞いたのだけど、オトーサンが見たところによると、七海ちゃんは体育学の授業の最中も『シーズ・レイン』を読んでいたらしい。「食い入るように一生懸命読んでたよっ」とニヤニヤしながら言うので、僕の彼女に対する気持ちがバレたのではないかと思って内心焦ったが、どうもそれは大丈夫だったようだ。

 ごめん、オトーサン、布井さんの気持ち、知ってるけど、やっぱり言えないよ。


 布井さんの気持ちというのは、オトーサンが恋人対象じゃない、と断言したことではなくて。あの、清心館で仮眠した日の週に、布井さんに声をかけられて、大学近くの公園に連れていかれた。錆びた遊具に、手入れもなく草ぼうぼうの小さな公園で、何かの手違いで見捨てられているかのような場末感が漂っていた。遊んでいる子供も、休んでいる大人もいない。そんな都会の空白みたいな公園で、布井さんから「水城くん、私のことどう思う?」ってすばり聞かれたのだ。

 ここまで言われたら、いくら鈍い僕でも意図はわかって。女の子にそんなこと言われたのは初めてだから、どう言っていいかわからなくて。そりゃ、布井さんもけっこうかわいい。ナオちゃんほどじゃないけど普段の話もするし、コケティッシュで同い年とは思えない色気がある。バストだって大きい。男好きのするタイプだ。


 でも。

 女の子に振られた経験はたんまりあるけれど、意中じゃない女の子に告白されたことはなかった。いや、女の子に告白されたこと自体が初めてだった。「どう思う?」と問われて、「かわいいと思うよ」と返事したとして、それはお世辞ではなくて、本当にそう思っているけれど、この状況でそれを言うと勘違いされると思った。それに、僕はけっこう硬派で潔癖だったから。布井さんに告白されたことで、本当に自分が好きな人が誰なのか、そしてその思いの深さに気づかされた。


「あ……えと……」

 考え込んでいたら、「いいわ、わかった」って言われた。

「え」

「もし、私のこと好きなら……せめて、興味があるのなら即答するはずでしょ。言葉を濁すっていうのは誰か他に、好きな人がいるってこと」

「……」

 なんて言っていいのかわからなかった。どうやったら傷つけずに済むか、それだけ考えていた。そうしたら。

「やさしいね。どう言ったら私が傷つかずに済むか考えていたんでしょ? いいの、そんなことしなくても。私、けっこうひどい失恋、高校時代にしてるから。だから、平気。セックスもしてない相手だったら、全然平気だから」

 さらりと布井さんはそう言うと、公園を出ていった。


 衝撃だった。まるで心の中を見透かしたように、僕の考えていたことを読み取っていた。そして、女の子の口から「セックス」っていう単語を聞いたこと。布井さんは高校時代にもう経験済みだったのかと思って。あの色気はやはり経験から来るものなのか。高校時代に体験している人なんていくらでもいると思うけど、身近な人がそうだと思うと、いやにリアリティがありすぎてなんだか複雑だった。


 オトーサンが見たように一生懸命読んだ介があったのか、七海ちゃんから3日後に本が返ってきた。もちろん、本には手紙がはさんであった。

 僕は前の手紙の中で特に日時の指定はしていなかった。このあいだ、バス停で会ったときのようにアッセンブリーの時間で十分だったのだ。ところが、彼女の手紙にはこう書かれてあった。


「土日は詰まっていて無理、アッセンブリーぐらいしか」


 僕自身、火曜の午後、アッセンブリーの時間を使おうと思っていたので、次の手紙にはこう書いた。

「わざわざ遠いところから出てこられるのは、すまない気がするので、アッセンブリーで十分です」


 さらに、時間が迫っていたので、


「7月2日 火曜日 午後1時 バス停で待ちます。イエスかノーの返事をください」


 少々強引だと思ったけれど、時間は戦車のように突進してくる。悠長なことは言ってはいられなかった。

 何の本のあいだにはさもうかなと本棚の前で考えていたが、以前彼女が林真理子が読みたいと言っていたのを思い出して、『星影のステラ』を貸すことにした。

 次の日、早速本を差し出したら、彼女はとても喜んでくれた。


 その日から少しばかり間があいた。僕は黙殺されるのでは、と恐れた。ノーの返事より無反応の方が嫌だ。気になっている人からかまってもらえなくなったとき、それを地獄という。


*******************


 月曜の4講目は第1外国語だから、どんなに一般教養の授業をサボっているヤツでもたいてい出席する。僕も彼女ももちろん出ていたが、僕にとってはもっと別の大事があった。この日は7月1日。デートしようと指定した日の前日だったからだ。授業はほとんど頭に残らなかった。


 講義が終わった。テキストをしまいながら視線は彼女の動向を探る。教室は3人掛けの机が横に並んでいて、この日は部屋の中ほどの右の列の一番右に彼女が、同じ横列の左はじに僕が座っていた。僕はすぐに彼女へ網の目レーダーを貼り巡らせた。わざとテキストを片付けるのを遅らせる。一足先に彼女が鞄を肩にかけた。右手に何か持っている。

 それは僕の貸していた本だった。少し遠回りをしながらそれでも僕に近づいてくる。名前を呼ばれて僕は精一杯びっくりしたような表情を作った。なかなかうまくできたと思う。彼女は「ありがとうね」といつものように短い言葉を残した。


 僕は微笑みながら平静を装ったけれど、本にはさんであるはずの返事に心はもはや飛んでいた。


 キャンパスを駆け抜け、木辻通を渡り、北バイク置き場に行く。僕はいつもここで、彼女からの手紙を読む。同じ専攻でバイク通学をしている人がいなかったからだ。

 自分のバイクの上に腰掛け、ゆっくりと本を開いた。本の中に何もはさまれていなかったので少し焦ったが、手紙は裏表紙とカバーのあいだにはさんであった。


 最初に本の感想が述べられていたが、最後に返事が書いてあった。


「あす(2日)午後1時 バス停でOKです」と記してあった。


 僕はこれで今日死んでしまったら元も子もないと思って、西大路通を法定速度どおりに下って部屋に戻った。


*******************


「SHINING YOUR EYES」


 キラキラ輝く瞳を 鏡に映して

 僕の側でかわいく あいづちをうつきみ

 隣で歩く距離が 微妙にあいてる

 心と心の間が 比例してるみたい


 Wake Up 僕は目覚めはじめた

 世界できみを守るのはただ 僕一人

 Shine 僕のために光れ

 フェアリーテイル聞きながら 素敵なウォーキング


 闇に映ったパラダイス・イルミネーション

 きみがまるで主人公 センターで光る

 心の吹く風柔らか きみで春風

 舞い散る言葉が 優しいBGM


 Stand Up 僕は立ちあがる

 気づいたのさ 間違いなくきみ一人と

 Shine 二人だけのステージ

 ベイビーフェイス憎らしい 負けたねきみに

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第5章解説


「星影のステラ」……林真理子著。1984年発表、同年上半期芥川賞候補。


木辻通……通称「観光道路」。現在は「きぬかけの道」と呼ばれることが多い。

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