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七海ちゃんとの、心細いほどにわずかにつながった交流。しかし、たったそれだけでも僕の生活にはまばゆさが増えた。まるで空間を雑巾がけしたみたいに風景が鮮やかに見える。それが僕の言動や行動に少しずつ変化をもたらしていたのかもしれない。
専攻では折に触れて飲み会が催されていた。まだ十代がほとんどなので本当はいけないことだが、大学に入ってしまえば当時は飲酒は黙認されていた。
通っていた大学には全国から学生が集まっていた。僕が籍を置いていた専攻は男女比はほぼ半々で、自宅通学生と一人暮らしの比率もほぼ半々だった。
高校までの世界は、生まれ育った地縁でつながった「閉じた世界」だ。しかし、日本各地から集まってきていた大学の世界は、それまでとは違ったフラットな状態だった。何者も色がついていないし、人を判断する基準も変わる。たとえば、「理屈っぽく面白みのない」僕でも、「理知的で生真面目」な人というプラス評価に転じる。ひょろひょろやせっぽちの身体も、ただの細身と思われたりする。
6月半ばに何度目かのコンパがあった。場所はいつものとおり北野白梅町だ。まだ知り合ったばかりだから、みんないろいろ話し込んでいる。僕はどちらかというと、ぽつんとその様子を眺めているのが好きだった。大学生になってから酒を飲み始めた人も多く、まだ酒量限界がわからないものだから、素面のときよりも、その人の人間性が垣間見える。それを観察するのが好きだった。我ながらいやらしいやつだと思う。
ちなみに七海ちゃんは一度も参加していない。おそらく家が遠いからだろう。
「ヨシユキくん」
声をかけられる。なんだ、島田か。
島田は大阪の堺の自宅から京都まで通っているという恐るべき根性の持ち主だ。僕の実家よりも遠い。片道2時間以上はかかる。ドアトゥドアで往復5時間。バイトも出来ない環境だ。
「どーしたの? ひとりでぽつんとして」
「いや、べつに。眺めてるほうがおもしろい」
「えー、へんなの」
けっこう酔ってるな。島田はチャーミングな女の子だ。ルックスは派手だが整っており髪の色も明るいが、控えめな性格というギャップが興味深い。僕は超長距離通学のことを聞き、島田は始まったばかりの僕の一人暮らしの話を聞きたがった。
「ねえ、ヨシユキくん、なんでそんなに痩せてるのー?」
「んー、遺伝かな。親戚全員こんな感じ」
「うらやましいなー。わたし、ダイエットしなきゃ」
「そう? 島田、ぜんぜん太ってないよ」
実際のところ、島田は太ってなどいない。よくて、「中肉中背」だ。
しかし。
「あ、またー、そんなこと言っちゃって。いいなー、ヨシユキくん。ぜったい、いいと思う」
痩せてるのがいいのか、僕のことがいいのか、よくわからないけど、かわいい女の子に「いいなー」と言われると気が緩むのはしょうがない。許せ。
そんなわけで島田は超長距離通学のため一次会で帰宅していった。コンパも4回目となると二次会まで残る人はわりと少ない。それでも十人強のメンバーが残った。
二次会会場は学校近くの居酒屋になった。
大きな「ロ」の字のテーブルを囲むように座ったのだが、対面はけっこう遠いので両横と話をするような形になる。そのときに僕の左隣に座ったのが亜依さんだ。
亜衣さんは「三大巨峰」の一人。エキゾチックなルックスと軽やかな声が人気。一浪で入学しているので、僕よりも一つお姉さん。そして、グラマラスな肢体……。
酔っぱらった亜依さんを間近でちゃんと見るのは初めてだ。笑い上戸なのか、どんな話をしてもケラケラ笑っている。浪人時代は暗くて、ジャージ姿で自宅に籠っていたそうだ。こんな美人がもったいない。
「亜依さんモテるでしょ」
「えー、全然だよー」
「きっと、これからモテますよ」
「ヨシユキくん、どうして敬語?」
「あ、だって年上だし」
「あー、おばさん扱いしてる」
「違いますよ」
もしかして、これ、絡まれてるんだろうか。ま、美人だから許す。
やがて電池が切れたのか、亜依さんがしなだれかかってきた。
「亜依さん、大丈夫?」
「んー、ねむいー」
あ、えと……亜依さん、胸が僕の腕に当たってるよ……。
亜衣さんの豊満な、右の乳房が、僕の左腕に沿うように密着してくる。や、柔らかい……。おっぱいってこんな感じなのか。
まだ、童貞なんだから。まだ、女の子とつきあった経験ないんだから。デートの回数だって片手の指で数えられるくらいしかないんだから。無防備すぎるよ。
こんな刺激は耐えられない……。
ジーンズの中で激しく勃起する自分自身。僕だっていい感じに酔ってるんだから、妙な気になってくる。
亜依さんは脱力状態で、右腕が僕の左太もものあたりに置かれている。しかも、微妙に股間に近い。左腕に感じる亜依さんの乳房の柔らかさと、左太ももに置かれた亜依さんの手。この状況は童貞には拷問だ。しかも、本人は半分寝ている。このままだと起きたまま夢精しそうだ。
僕は左腕を乳房の呪縛から解き、ぐるりと回して亜依さんの肩を抱いた。肩を抱くのが目的じゃなくて、亜衣さんの乳房の柔らかさから逃避するためだ。ぐらつかないように身体を保持する目的も、一応ある。女の子の肩を抱いたのは初めてだった。そして、身体にこんなに密着したことも。「三大巨峰」の一人とこんなふうになるなんて。ロールプレイングゲームだったらレベルが上がるファンファーレでも鳴るだろうか。
ヨシユキはおんなのこのかたをだいた。ヨシユキのレベルがあがった!
……だめだ。酔いすぎて変なことを考えている。
やがて亜依さんは眠ってしまった。僕は潔く、亜依さんのベッド代わりになることにした。できるだけ身体を動かさないように。そして酒は飲むのを止めた。
「あ、ヨシユキ、なに抜け駆けしてるんだよ」
亜依さんの肩を抱いてる僕を目ざとく見つけたやつが指摘したので、全員の目が僕と亜依さんに集中した。
僕は亜依さんを指さしてから、手のひらを自分のほおに添えて「亜依さんは寝た」とみんなに伝えた。最後に唇の前で人差し指を立てて「おしずかに」。
僕がしょうがなくそうしていることをみんな納得したのだろう、うんうんとうなづいてくれたため話はそれ以上続かなかった。
でも、これからどうするんだろう。
歩いて帰れる範囲に数人が住んでいる。そこに泊まる算段をしている人たちも何人か。僕は右隣にいた五木に「このあとどうするんだ?」と尋ねた。
五木は実家が愛知で一人暮らしだったが、歩いて帰るにはやや遠い、鳴滝に住んでいた。僕とは違う軽音楽系サークルに入っていて、スリーピースバンドを組んでいる。本人はボーカルでベース。ボーカルがギターを兼任するのは珍しくないが、ベース兼任は珍しい。ベースは弦楽器だが、リズム楽器でもある。コードの根音を弾きながら、ドラムスとのアンサンブルをも司っている。そのため、ドラムスとベースは「リズム隊」と称され、この二つは演奏中もアイコンタクトができるよう近くに配置されることが多い。
それがステージのセンターに立って、歌いながらベースを弾く。相当難しいと思う。
五木が言う。
「学校の談話室で朝まで仮眠しようかと思ってて。オトーサンもそうするみたい。亜依さんはどうするのかな。ヨシユキ、お前タクシー使って部屋に連れ込んじゃったら?」
ニヤニヤしながら煽ってくる。僕は頭をぶるぶる横に振った。
「つきあってもないのに、それはマズいでしょ」
そういうと五木は意外そうな顔をする。
「意外にカタイんだな」
「まあな」
そう、僕は硬派なのだ。たぶん。
文学部の事務室や研究室、教室が入っている清心館と呼ばれる校舎には学生談話室という広い部屋があり、四六時中開放されていた。テレビも設置され、ストーブや扇風機などの冷暖房もあり、椅子もたくさんある。仮眠程度はできそうだ。
二次会はだらだら続く。やがて日付が変わるころにお開きとなった。
「亜依さん、帰りますよ」
ぶるぶる背中を震わせて亜依さんを起こすと、ぐっすり寝ていたおかげか、意外にすっきりと亜依さんが目を覚ました。
「ん……あ、ごめん、もしかしてずっと?」
「まあ……でもいいですよ、気にしないで。それより、このあとどうします?」
「ヨシユキくんは?」
「五木やオトーサンは清心館の談話室で仮眠するっていうから、俺もそうしようかなって。始発のバスが出るまで」
「そっかー、私もそうしようかな」
会計を終えて店の前でどうするかそれぞれ相談している。
「ヨシユキくん、亜依ちゃんといちゃいちゃしてたよね」
ニタニタしながら言ってきたのはナオちゃんだ。ちょうど僕と亜依さんの対面に座っていたため、僕たちの行動は完全に見られていただろう。実は店にいたころから彼女の視線には気づいていた。
「いちゃいちゃじゃないよー。しょうがなかったんだよー」
「そうそう、私が飲みなれてなかったものだから眠くなっちゃって」
亜依さんも援護射撃してくれる。
「ナオちゃんはこれからどうする? 俺や五木は談話室で始バス待つんだけど」
「んー、それもおもしろそうね。私もそうしようかな。亜依ちゃんは?」
「じゃあ、私もそうするー」
亜依さんの自宅は大津だからタクシーじゃないと無理だ。しかも結構な額になる。学生の身分では無理だろう。ナオちゃんは実家が広島なので一人暮らしだ。亜依さんと同じく一浪しているので僕よりも一つ上。
だが、亜依さんと違って、ナオちゃんのルックスは童顔で、「未だに中学生に間違えられる」ほどだ。背もそれほど高くない。そのくせ、バストが大きく、今日だって白いブラウスを内側から激しく隆起させていた。そして、「三大巨峰」の最後の一人がナオちゃんでもあった。
ナオちゃんと僕は入学当初すぐに仲がよくなった。童顔巨乳のナオちゃんに興味を持った僕から話しかけたのだが、僕の意図を察知したのか不明ではあるけれど、何度目かのランチのときに、浪人時代の三角関係と、その恐るべき結果について話してくれた。その話を聞いて、僕は「この子には太刀打ちできない。俺とは人生経験のレベルが違う」と、心の中で断念したのだった。どちらかというと、ナオちゃんはアドバイザー役になってもらうほうがいいかもしれない。方針転換した僕は人生経験が豊富なナオちゃんに七海ちゃんとのことを話していた。僕が七海ちゃんと淡い恋愛の道を歩き始めようと思っていることも。
ナオちゃんは過去の経験から口が堅い。僕が戸惑いながらも七海ちゃんとのことを着実に進めようと考えていたことを知っていたから、からかう意味で「いちゃいちゃしてたねー」と言ってきたのだ。
結局、レーロー、五木、オトーサン、亜衣さん、ナオちゃん、布井さん、そして、僕が談話室で朝までいることになった。
オトーサンとはもちろんニックネームだが、その「日本のおとーさん」を具現化したようなルックスから、みんなからそう呼ばれていた。
布井さんはコケティッシュな魅力のある小柄な美人で、スタイルがよかった。確か、オトーサンとは地元が近かったはずだ。そのためか、オトーサンと布井さんはよく話をしていて、「あの二人はもしかしたら」という共通認識が出来つつあった。
大学は夜間も入れる。そのまま開放されている清心館に入り、談話室に向かった。
談話室には誰もいなかった。当たり前だ、もう夜中の1時なのだから。
自販機で買ったジュースやお茶を飲みながら、最初はだべっていたが、まだ酔っぱらっているノリが続いていたので、布井さんが「五木くんってお化粧映えする顔よね」と言いはじめ、それに五木が「俺、化粧してみたい」と応えたため、布井さんが持っていたメイク道具で、五木の顔に化粧しはじめた。
やがて完成したその顔は……、なんというか変だった。
当の五木は鏡を見ながら「どう、ワタシきれい?」と、口裂け女みたいなセリフを吐きながら徘徊していたのだが。
やがて眠くなり、僕はテーブルの上に突っ伏して眠ってしまった。
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気づくと朝6時だった。
回りを見ると、オトーサン、五木(化粧したまんま)、レーローがつっ伏したり、椅子を並べた簡易ベッドで眠っている。少し離れたところに、亜衣さんとナオちゃんがやはり机に突っ伏して眠っていた。
僕は静かに談話室を出て、まずトイレに行き、用を足した。口の中が気持ち悪かったので、水道水で口をすすぎ、顔を洗った。トイレから出て談話室を通り過ぎ、清心館の出入り口へ向かった。
朝の風と陽射しが差し込んでいる。気持ちのいい日曜日になりそうだった。
「水城くん、起きた?」
入口の前で左横から声をかけられた。布井さんだ。そういえば、彼女だけいなかった。
「起きてたの?」
「ううん、私は寝てないの」
「ええ? 大丈夫?」
うっすら微笑みながら布井さんが近づいてくる。
「なんだか眠さを飛び越えると目が冴えちゃって」
けだるい雰囲気の布井さんが、朝のきりりとした空気の中でたたずんでいるというのは、不思議な違和感だった。
「水城くん、亜衣さんのことが好き?」
「え?」
きっと昨夜の情景を見ていたからだろう。
「昨日のは、しょうがなかったんだよ。亜衣さんは美人だからモテるだろうし、わざわざ俺なんか相手にしないよ」
好きになりそうな人はいるけど、という言葉は言わなかった。
「そうなんだ……」
そう言ったきり、俯いて沈黙する。そういう仕草がアンニュイなんだよな。6月の朝には似合わないよ。
「布井さんは、オトーサンとって、思ってたけど」
ずばり言ってしまったのはまだ眠さが残っていたからだろうか。
「オトーサン?」
やや驚いた顔をして僕を見上げる布井さん。
「そうねえ……いい人だとは思うけど。彼氏の対象じゃないわ」
そうだったのか。オトーサン、玉砕か。
実は昨夜の宴席で、オトーサンから「布井さん、いけるかな」と軽く聞いていたのだった。この情報、言うべきかどうか。悩む。
「んお、なんだ、2人で早朝デートかぁ?」
妙に高いテンションで五木(化粧したまんま)が清心館の入り口からしゃしゃり出てきた。
「こんなとこでデートもなんもないよ。それより、お前、顔洗えよ」
そう言ったあと、僕は大きなあくびをした。
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