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僕が彼女に「ヘッドフォン・ララバイ」を貸したのは、初めてのデートから1週間ほど経った日の、4講目が終わった清心館のピロティーだ。1週間も間が空いたのはずっと貸しそびれていたからで、忘れていたからではない。つまり、1週間、僕は鞄の中に同じ本をずっと忍ばせていた。そろそろ行動に移さないと、彼女と構築した淡い関係が消えてしまいそうな気がしていた。
彼女は誰かを待っているようで、柱にもたれてポカンと中空を見ていた。僕のそばにいたイチローが自転車を取りに行ってくると言って消えたので、僕はこのときとばかり彼女に近づいていった。まだ、どう言おうか迷っていたけれど、彼女のそばに行けば、必要に迫られて何とかするだろう、と自分で自分に期待をかけたのだ。
「誰か、待ってるの?」
「うん」
「俺も待ってるの」
あー、馬鹿だ。ほとんど意味のない会話になってしまった。自分から進んでこの状態に飛び込んだのだが、続けて出てくる話題がない。いや、話したいことはやまほどあるし、聞きたいことはさらにあるけれど、人通りの多いピロティで立ち話ですることじゃなかった。彼女が誰を待っているのか気になったけど、焦った僕は墓穴を掘ることを恐れ、本題に突入することにした。
「あ、そうだ」と今しがた気がついたふりをして、おもむろに鞄をこじあけ、ゴソゴソと本を取り出して彼女に差し出した。彼女はもう忘れていたような顔をして「えっ」と驚いたので、ちょっと僕はがっかりした。けれど、彼女はすぐに思い出したようですぐにあの微笑みを向ける。
「わざわざ、どうもありがとう」
素直すぎる彼女の返事に何も答えられない。僕の言語中枢は麻痺していた。とにかく本は貸せた。今日のところはこれでいい、と思っていたら、彼女の方もゴソゴソしだして、新書版の本を取り出した。
「わたしもこれ、持ってきたんだけど……」
それは僕が読みたがっていたエッセイだった。もちろんありがたく借りてその場を去った。もっと話したかったけど、こういう慌ただしいところの立ち話は好きではなかったし、イチローが戻ってきたのでやむを得なかった。彼女に対する僕の気持ちははっきりと形になってきていたけれど、これ以上好きにならないようにストップをかけている、そんな状態だった。要するに、僕は臆病なのだ。
イチローは学級委員タイプの、堅い性格をしていたが、どうも僕の行動から彼女への僕の思いを察したようだ。だいたい彼が女の子の話をするなんて、初めてだった。
「砂原は彼女に気があるみたいだね」
砂原も僕と同じ専攻の男だ。いつも彼女のそばに席を置いていることには気づいていたが、まだ目立った行動はしていない。
「そうだね」
僕はつとめて第三者的な返事をした。
「でもヨシユキが勝つと思うよ」
彼がそう言ったので僕はびっくりした。何と言ってよいのかわからなかったが、とりあえず悪い気はしなかった。それよりも、さっきの出来事をもう一度反芻してみると不思議に思ったことがある。
彼女は今日偶然、あの本を持ってきていたのだろうか。それとも僕のように毎日持ってきていて、僕が言い出すのを待っていたとか……。僕のために? まさか。
ものごとを自分のいいように解釈しないように僕はかぶりをふった。
3日ほど経って彼女が本を返しに来た。僕とは逆に彼女は極めてナチュラルな動作だ。それを考えると彼女は僕に対して何とも思っていないのではないか、と思ってしまう。
差し出された本をよく見てみると何かはさんである。
しおりかな。まぁいいか、また話すきっかけができる。
その日は気分良く『未成年』を聞きながらバイクを飛ばして帰った。
部屋に帰って本にはさんであったものを確かめると、それはしおりではなかった。短いけれど立派な手紙だった。内容は“ありがとう、またよろしく”程度のものだったけど、とにかく驚いた。
彼女にはいつもびっくりさせられるけど、それは悪い意味ではなく、いつもいい意味でだった。女の子が能動的に書いた手紙をもらったのは初めてだったし、本を1冊貸した程度でこんなに丁寧に礼をしてくれたこと、僕のためにこんな労力を割いてくれたこと――そう、便箋の裏に描かれてあった猫の絵の縁にそって、わざわざ切り取ってあったのだ――彼女は僕のことをどう思っているのだろう。彼女と初めて会ったときから何度も考えたことだけれど、何度考えてもわからないことだった。
僕は彼女との接触を多くすることによって確認していこうと思った。そこで次に貸そうと考えていた『シーズ・レイン』に僕は少し長い伝言を入れた。それは七月中、夏休みまでにもう一度、今度は河原町で会いたいという内容だった。
次の日の4講目が終わって、学生たちがゾロゾロ出てくるピロティに僕は張り込み、彼女を待った。同郷でよく一緒にいるさくらちゃんと二人組で彼女は現れた。どうしようかと迷うあいだにまたも、足が勝手に進んでいく。彼女もこちらをとらえたようだ。
「これ、読んでみて」
短く、それだけ言った。彼女はちょっとびっくりしていた。たぶん窪田僚の本ではなかったからだろう。
「うん、ありがとう」
少しの言葉のやりとりや、視線を交わすだけでも僕の心は和んだ。さくらちゃんが終始ニヤニヤしながら見守っていたのが気になったけれど。学校ではほとんど、彼女と話すことができない。恥ずかしさが表だってしゃべれないのだ。赤面しながらどもって、しかも拍子抜けの会話を他人が聞いていたら、どんなに鈍いヤツでも「こいつ、この子に気があるな」と思うだろう。
だから僕はいつも彼女に素っ気なく、事務的な態度しかとれなかった。彼女とのことをどう進めようかということもまだ迷っていた。今の関係から一歩進もうとして、逆にすべてを失うより、現状維持のほうがいいかもしれない。存在を失って失望するものは手に入れるべきではない、とも思っていた。それは臆病から来ているかもしれない。
彼女は僕にとってのアイドルだった。僕の理想がそのまま人間として生を享けた、その語意のとおりの偶像だった。好きになってはいけない人かもしれなかった。
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その日の夜、買ったばかりのシンセサイザー、ヤマハDX21で音を作っていたが悩みに入ってしまったので、気分転換にギターへ切り替えた。もともと僕はギターを弾くほうが得意だ。張り替えたばかりだったのに弦が黒ずんできている。乾燥したアメリカ西海岸に所在する、マーティン社製ギター弦は湿度の高い日本では錆びやすいと聞いていた。幸いチューニングは狂っていなかった。
僕はルーズリーフを広げると大きく“NO.33 ALBUM”と書く。
僕の趣味は作詞作曲だ。そして5月から新しい作品集を作り始めていた。作品集―そのことを僕はアルバムと呼んでいたが、もちろんプロが作るようなレコードではない。単に十曲程度の曲を集めたものという意味でアルバムと呼んでいた。
作り方など十人十色だろうが、僕はいつも作品集のタイトルをまず考えることにしていた。だが、肝心のアルバムタイトルが思い浮かばない。中国の漢詩はタイトルがその内容と同等の意味と重みを持つという。僕もその考えと同じで内容と同等にタイトルに対しても重要性を感じていた。そして、この5月から作り始めた作品集は。
新しい土地、新しい部屋、新しい学校に友人たち。そして彼女。
これから作るアルバムの楽曲集は、ほとんど間違いなく、七海ちゃんがあふれている作品集になるだろう。だから、そのタイトルは彼女を象徴するようなタイトルでなければならない。
そう意気込んでしまうと逆に思いつかない。
タイトル未定のまま、時は過ぎていく。
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それから数日たった、梅雨も中休みの6月のある日、僕はバイクを南下させていた。耳元からは「For You」。北野白梅町の交差点で左折しようとしたとき。前を走っていたダンプが前日までの雨でできた水たまりを高くはねあげた。と、僕の目の前に何百という水の粒が、陽の光に曝されながら落下していく。その光景はあたかもスローモーションのように僕の目のスクリーンに焼き付いた。流れてくる曲に激しくシンクロする。『SPARKLE』だ。誰もが聞いたことのあるイントロのカッティッングが流れる。
今出川通を東に向かいながらフッと浮かんだ言葉があった。
Sparklin’ Splash。
手に届かない人かもしれない。好きになってはいけない人かもしれない。でも、このときめきを記録しなければならない。そう思った。2月生まれの彼女は水瓶座。ピッタリだ
。
――きらきら輝く 水しぶき――
それは、彼女自身だ。
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第3章解説
「シーズ・レイン」……平中悠一著。1984年文藝賞受賞作。1993年には小松千春の主演で映画化された。
ヤマハDX21……楽器大手メーカーのヤマハが開発販売したベストセラーのシンセサイザーDX7の廉価版機種。当時、14万円で購入した。
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