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 京都市初の地下街「ポルタ」は単純な箱型の構造をしている。大阪ミナミの「虹の街」やキタの梅田地下街に比べるととてもわかりやすそうに思えた。

 1時間ほどポルタの中をグルグル歩き回って、グレードの高そうな喫茶店に入った。ガラス張りのいかにもオシャレな感じだ。テーブルもガラスで出来ており、透明度の高いデスクトップの下には彼女の細い脚が透けて見えていた。

 彼女はオレンジ・フレッシュ・ジュース、僕はレモン・スカッシュを注文した。値段はその当時としてはかなり高額だったが、オーダーされてからオレンジなりレモンなりを絞ったらしくて、それなりにおいしかった。レモン・スカッシュにくっついてきたガムシロップを彼女は不思議そうに見つめ、恥ずかしそうに「これ……なに?」と聞く。

「ガムシロップ。こういう生レモン使ってると酸っぱくて飲めないでしょ。だから、これを入れて、酸っぱさを調節するの」

 僕もこんなのを出されたのは初めてだったけれど、雑誌なんかで見た、ありあわせの知識でなんとかクリアした。僕も彼女も探り合いながら、二人でいる空間に自身を馴染ませようとしているように感じた。

 さしさわりのない世間話を少しした後、僕はイタズラ心を出して、こんなことを言ってみた。

「久しぶりだな、女の子とこういうことをするの」

 実際、それは本当のことだった。

 だが真の意味では虚偽に近いかもしれない。あたかも多数の経験がありながら、「最近はしていない」と言外に言っているように受け取れる。それは僕の虚勢だ。

 実は女の子と二人きりで喫茶店に入ったのは半年前が初めてで、それから両手の指で数えられるくらいの経験しかしていない。休憩するために入る喫茶店で、逆に緊張しているありさまだ。だけど、それを見せたくはなかった。

 彼女はジッと僕を見る。それは穏やかなようで、痛いような、おそらく両方の気持ちが入っている視線だった。美しいそのルックスで、きれいに見開かれた瞳で見つめられて、僕の心は一気に溶解してしまう。本音をしゃべってしまった。

「実は今まで女の子とつきあったことがないんだ」

 彼女はフッと気を抜いたような表情を見せた。

「私もないよ、そういうの」


 さりげなく彼女は言ったが、その語気とはうらはらの反響が僕の中に起こる。


 こんなにかわいいコが? 今まで誰とも? 信じられない。


 カマをかけたはずの僕が見事に返り討ちをくらってしまった。むろん、こんな僕の気持ちは彼女にはわからないだろうけど。

 僕のつまらない話にも彼女は一生懸命頷いてくれていた。女の子がこんなに自分の話を聞いてくれたことが、未だかつてなかったので、僕は感動を越えて有頂天になってしまった。

 僕は自分のルックスに関しては人一倍引け目を感じていた。、顔の輪郭が三角で、目が思いきり大きい。メガネのフレームでその大きさをカバーしているつもりだった。もちろん視力も低い。

「俺、顔が細いのに目だけ大きいでしょ。いやなんだけど、どうしようもないしなぁ」

 そう言いながらメガネを外し、彼女に素顔を晒した。そうしたら。


「かわいい目だよ?」


 え。


 生まれてはじめて、女の子にほめられた……。しかも顔のことで。

 これ以上、彼女の「攻撃」を受けたら、僕は無条件降伏してしまう。


 ねえ、どうしてきみはそんなに好意的なの?

 ねえ、きみはぼくのことを好きにならせようとしている?

 ねえ、きみはぼくのことを好きなの?

 まだ、それほどふたりきりの時間を過ごしていないよ?


 もっと知りたい。

 彼女はどうしてそんなに僕に対して、友達以上の態度を取ってくれるのだろう。


 しかし、直接的にも間接的にもそのまま問うには僕のボキャブラリーは貧困すぎたし、知りたいという意思よりも羞恥心が上回っていた。

 だから、回りくどくても、その周囲をめぐる話題を振り続けて、彼女の意図を探るしかなかった。


「ね、デートの要件って知ってる?」

「? なあに? それ」

「んっとね、別に法律で決まってるわけじゃなくて、自分で作ったんだけど」

 彼女は大きな瞳を細めて微笑む。

「まず、相手と二人きりで6時間以上いること。それで6時間以上一緒にいるってことは、絶対1回はご飯どきにひっかかるから、一食は一緒にご飯を食べること。最後は前もって約束があること」

「じゃ、今日みたいにバス停で偶然会ったんじゃ、デートとは言わないんだ」

 鋭い指摘。そんな方向から反応が来るなんて思っていなくて、少し焦ったけど、取り繕っても仕方がないので、そのときの気持ちをそのまま言った。

「でも今日はデートと言いたいな。偶然会ってはじまるほうが、なんだかロマンティックだし」

 照れているような、眩しい微笑みが返ってくる。笑顔は誰にでも似合うけど、彼女ほど似合う人もいないだろう。

 彼女は極めてナチュラルに自分の能力の中で、僕に対処しているように思えた。そして、圧倒的に僕は押されている。そこがちょっとシャクにさわった。

 亭主関白の家に育ち、自然な保守主義者に育っていた僕はこういう場でも、男が優位な立場を取るべきだと考えていた。だから、こんな行動に出てしまったのだ。ガラスのテーブルに両手で頬杖をついて、まっすぐに彼女を見すえたのだ。

 僕は僕自身にここまでさせた彼女の魅力と表情に99%の愛しさと、1%のいらだちを感じていた。その行動はただの友達同士のあいだで交わされるジェスチャーをはるかに逸脱していたから。

 

 一瞬キョトンとした彼女は、ゆっくりとテーブルに肘をつき、やはり僕と同じように頬杖をついて僕を見つめかえしてきた。


 えええ。


  ――彼女は僕のことが好き?――。


 ばかばかしい思いが勝手に心の中に増殖していく。僕には彼女が僕をからかっている、という考えは浮かばなかった。周りの評判、毎日見かける彼女の表情や行動。それらはすべて肯定的で、無垢な女の子という彼女のイメージを裏打ちしていたから。

 僕自身が幼かったから、という理由は僕としては取りたくない。ただ、彼女にその理由を聞くことはもっと野暮だということだけはわかっていたので、今でもその理由はわからない。


 ジュースを半分ほど飲んだところで、僕は冷静さの半分ぐらいを取り戻した。そして、とんでもなくせこい考えにとらわれた。

 ここでこんなに高いものを飲むんだったら、僕の部屋に呼んで、紅茶でもいれてあげればよかったなぁ。

 ふと、そう思った。


「ここで時間つぶすんだったら、ウチに来たら良かったね」


 特に他意はなかった。ただ経済観念が発達しているというか、金銭の使い方に厳しくしつけられた僕の冷徹な部分がそう言わせたのだ。

 ところが、彼女は意外な反応をみせた。急にキリッとした表情になって、かんで含めるような口ぶりでこう言った。

「だめ。それだけは絶対にだめ」

「は?」

 なぜ彼女がそんなことを言ったのか、一瞬僕にはわからなかった。もう一度、自分の言った言葉を頭の中でくりかえし、この言葉が意味する意図を冷静に考えてみて、彼女がどう受け取ったのか、やっとわかった。


 彼女は誤解しているようだ。

 彼女は僕の目を見て恥ずかしげに可愛く怒っていた。妙な表現だが、そうとしか言えない。

「考え過ぎだよ……。そんな……何もヘンなこと考えてないよ」

 確かに、僕は変なことなど考えてなかった。そんなことより、僕は彼女の反応でまた一撃をくらってしまった。

 彼女の持つヴァージニティ。それは今まで会ったどんな女の子にも感じたことのない、汚れのない白さだった。そして、それは僕の理想だった。

 彼女は僕の理想が服を着ているようなものだった。そして、僕の問いかけに対する彼女の答えは、いつも僕を新鮮な驚きに導いた。

「ね、窪田僚って知ってる?」

「うん」

 あっさりと彼女が言ったので、僕はいささか拍子抜けした。今まで誰に聞いても知らないと言われ、シブがき隊が主演した映画『ヘッドフォン・ララバイ』の原作を書いた小説家だと回りくどい説明をさせられていたからだ。

「なんで知ってるの?」

「ほら、『コバルト』ってあるでしょ?」

「あ……季刊の?」

「うん、あれをいつも読んでいるから」

 窪田僚はもともとコピーライターだったが、季刊コバルトで小説家デビューした。映画化された「ヘッドフォン・ララバイ」がシリーズ化されている。『コバルト』はジュブナイル小説をメインにした季刊の文芸雑誌で、高校生あたりをターゲットにしている。しかし、季刊ということもあり、僕の周りでその存在を認知している人は皆無だった。それなのに彼女は知っていた。これはかなりレアな一致だ。さらに聞いてみると、僕と彼女の読書傾向はほとんど同じらしい。そして、本だけかと思っていたら。


「大江千里の『REAL』って知ってる?」

「うん、好き」


 ここまで一致していいのだろうか。僕は「REAL」を聞いてある種の衝撃を受けていた。

 この年の4月に発売されたシンガーソングライター、大江千里のシングル「REAL」。関西出身で大学在学中にデビューした彼のことを、僕は羨ましい気持ちと妬ましい気持ちの愛憎半ばで眺めていた。彼の書く楽曲はオシャレで都会的な男女関係が描かれていることが多かったので、僕はそれまでの曲のことを「軽い、軟派な曲」と見下していた。

 しかし、この「REAL」は違った。


 自分を振った女に憎しみを持ったとしても、一度は好きになった人なんだから口には出しづらい。なのに彼は堂々と「激しく憎んだ」と歌ってしまった。僕はなんだか自分の心の奥をそのまま歌われてしまったような気がした。彼の歌はまだ、そんなに評価されていなかったけど、僕は男の本音、強いて言うなら「男として生まれてきた哀しさ」を表現した彼の歌詞に激しく共感した。男だって弱いところはある。それを隠さなくてもいいときもある。未熟さを恥じることはないんだ、と。それまでの彼への評価が低かったものだから、その急上昇っぷりは自分の中でも戸惑いを覚えるほどだった。

 僕はどちらかといえば嫌いだった、大江千里の大ファンになっていた。彼女がどういう理由で「REAL」が好きなのかは聞かなかったけど、聞く音楽の傾向も同じだった。


 もう一致するところはないと思っていたら、まだあった。

 高校1年の国語で習った、谷川俊太郎の詩「かなしみ」が入ったエッセイを探しているんだ、と言うと、彼女はその本を持っていたのだ。

 

 最初はそのキュートなルックスが入り口だった。次に誰もが魅了される笑顔。ここまでは誰だって思っているだろう。しかし、僕への「友達以上」の態度や仕草、本や音楽の好きな傾向は偶然を超えて驚異的に一致していた。マイナーを超えてマニアックな趣向まで一緒だった。運命の女神が僕と彼女を引き合わせたのだとしか思えなかった。


 彼女が恋人になったら、僕の世界は新しい次元にシフトする。

 これまでの低迷した、愚鈍な時間をすべて見返して。


 新しい自分になれる。


 そう確信した。しかも、彼女の僕への態度から、かなり実現性が高いように思える。


 東海道本線の改札まで彼女を送ったけれど、僕のことを心配してくれて、地上のバス停まで逆に僕を送ってくれた。京都駅のバスターミナルからは何十本ものバスが出ている。自分で目指すバス停ぐらい見つけられると思っていた僕は、彼女の案内で地下街を歩くうちにその予測が甘いことに気づいた。送ってもらってよかった。

 5,6人が並んだバス停の列の後ろにつく。

「わざわざ、どうもありがとう」

「こんな時間に来るのなんて初めてだから、何かへんな感じ」

 僕の知らない朝の情景を思い比べながらだろう、彼女は言った。ここからいつもバスに乗っているのか。同じ系統のバスだし、バス通学しようかな、などとバス酔いの気がある僕は考えた。


 彼女は僕のそばを離れない。

「……いいの?、いかなくても」

 時計は4時50分を指していた。

「5時10分まで電車が来ないから、ここにいてあげる」

 どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう? 


 ねえ、好きになってもいいの?

 好きになっちゃうよ?


 ……すでに手遅れかもしれない。

 もう、僕には彼女がまともに見られなくなってしまった。心の中はすでに、「好きの嵐」が吹き荒れていた。理性が吹き飛んで醜態を見せたくない、という一点だけで僕はかろうじて踏みとどまっていた。


 彼女は5時にバスが来るまで僕のそばにいた。どうしてこういうときだけ、ダイヤ通りバスはくるのだろう。運転手を少しうらんだ。


 初夏とはいえ本当に暑かった昼下がり、彼女に偶然会えたことが僕にとって、三度の食事より大切なことになった。そして、大切な大学1年の夏を左右してしまうほど、重要な存在となっていく。そんな予感がした。


 翌日も、彼女は変わらない笑顔で僕に微笑んだ。


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第2章解説


ガムシロップ……当時は砂糖が主流でガムシロップを使う店はごく少数だった。


窪田僚……パルコ出版から刊行されていた雑誌「ビックリハウス」が主宰したエンピツ賞の第1回受賞後、コピーライターとなる。『季刊コバルト』に書き下ろした「晩夏風」にて小説家デビュー。コバルト文庫に書き下ろした「ヘッドフォン・ララバイ」はシブがき隊の主演で映画化された。現在は児童文学を執筆している。


『未成年』……大江千里の3枚目のアルバム。1985年発表。「REAL」が1曲目に収録されている。大江の初期の代表的アルバムと評されることも多い。


谷川俊太郎の「かなしみ」……第1詩集「二十億光年の孤独」所収。1953年刊行。中学校の教科書に取り上げられていた。

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