カオルちゃんはいい子
カオルがいる生活を受け入れてから、一ヶ月が経った。
ただのペットのようにゴロゴロしている時期は、もう終わらせることにした。一通りの家事を教え、食事も三日に一回は作らせてみることにした。
もちろん初めからうまくできるわけはない。料理は焦がす、調味料を入れすぎるなんていう定番の失敗は、あらかたやらかした。
掃除や洗濯も、ちょっとしたミスを連発していた。せっかく集めたゴミをぶちまけた時なんかは、チリが僕の頭に降ってきた。気の毒になるくらい青ざめていたけれど、容赦なく叱ったさ。叱られるということを、悔しいと思わなければ、なかなか成長はしないだろうし。
臆病な猫のように、何を考えているのかわからない不思議さは薄れていた。以前と比べて、感情がよく出てくるようになったと思う。
カオルの立ち位置は、可愛がられ与えられる愛玩動物から、ようやく人としての一歩を踏み出したように思う。そのことを、少しだけ嬉しく、そして誇らしく感じていた。
感情という彩りが加わった日々は、楽しいばかりではなくて、ちょっとした軋轢も生むようになった。
仕事が忙しくて帰りが遅くなると、あからさまに表情が強張り、言葉には鋭さが増す。態度や口調もくだけてきたため、気安くはあるのだけど、そのことに怒りのツボを刺激されることもある。
赤の他人が一つ屋根の下で同居しているのだ。そりゃあ感情や生活スタイルの違いで喧嘩も起きる。そのこと自体は当然だと思っていた。
ある意味自然なやりとりをできるようになった。僕にとっては、喜ばしい出来事といえるかもしれない。
ただ、少し気になることがあった。週に二日ほど、どこかへ出かけている様子なのだ。
出かけること自体は制限していないので構わない。きちんと帰ってもくる。
気になることというのは、帰宅後のカオルは、機嫌が悪いことだ。帰ってきた後は瞳を尖らせて、唇を縫い合わされたように閉ざしていた。その強張り具合が、心の硬直と比例しているように思った。
僕は、いけないとは思いつつも行動に移すことにした。
今日も仕事だと嘘をついて、カオルを尾行することにした。有給申請の際、上司は渋い反応を示していた。今忙しい時期なんだけどって嫌味もいわれた。百も承知だい。
サングラスにニット帽を着用する。さらに不釣り合いだとはわかっているが、パンを牛乳で流し込みながら、カオルが動き出す時を待った。今の僕は刑事。はぐれ刑事猫耳派だ。
どれぐらい待っただろうか。尿意にがジワリと迫ってくる足音に焦りを感じていたその時、ついにカオルはマンションから出てきた。玄関を出てすぐに西側に向かって左折した。カオルと反対方向に隠れていて良かった。カオルが向かうところは、なんとなく出会った公園の方向だと思っていたが、ビンゴだった。
尾行のやり方に覚えはないので、距離をとって追いかけた。こんな時、探偵の友達が欲しいと思った。探偵の友達募集中。いや、その場合は探偵にやってもらえばいいのか。
カオルは公園に入り、例のベンチに向かうのかと思いきや、北側出口を真っ直ぐと進んでいった。謎のダンボールはもう撤去されているし、ただの通り道だったんだろう。
公園の先には、やたらと凝った名前のマンションが立ち並ぶ住宅街だ。経済を回す中心人物たちが軒を連ねている。要は高級マンション群だ。会社の女性社員の間では、玉の輿ゾーンと呼ばれている。がんばれ。
マンション群の中でも、頭一つ抜けたマンションにカオルは入っていった。やはり実家は金持ちなのか。金の卵を育てているかもしれないことに気づいた。けれど、だからといって態度を変えたりはしないぞ。とはいえ、少しだけ優しくしてやろうかと思った僕は、悲しくなるほど庶民的だ。
マンションの資産価値や、住むのに値する収入について考えた。そして自らの収入では届かない現実に打ちひしがれる。実家に両親も生活が厳しいらしく、来月から仕送りはストップするという。忙しい会社でも、来月から部署が移動することも決定している。業績不振から、運営規模を縮小するという、現実感溢れた悲しい実態。うむ世知辛い。
世の中のお金持ちに対する憎悪が芽生えかけたところで、カオルはマンションから出てきた。隣には真っ赤なスーツに身を包んだ、妙齢の女性。遠目からでもわかるほどに化粧で過剰装飾されていた。もはや原型がわからない。
話をしているのは、一方的に女性の方で、カオルはただ頷いているだけのようだ。
二人は、腕でも組みそうなほどの距離感で、マンション向かいにあるカフェに入っていった。僕も後を追った。
二人が座る席の、真後ろのテーブル席に腰を下ろした。四人がけを占拠してしまうことは申し訳ない。人だかりが出来てきたらどきますので、今は勘弁してください。
「じゃあ私は、モーニングセットをお願いするわ。カオルちゃんも、それでいいわよね?」
「うん」
「それにしても大変ね。大学で研究のために泊まり込みだなんて。でもお外は危ないから、終わったらきちんと帰ってくるのよ。カオルちゃんはいい子だから、いうことをきけるよね?」
「うん」
「さすが私のカオルちゃんだわ。ほんと昔から聞き分けが良くて、お母さん助かるわ。カオルちゃんは、ほんといい子ね」
甘ったるい声が響くたびに、真っ黒な何かが沈殿していく感じだ。それからの会話の内容は、ほとんど似たようなものだった。カオルちゃんはいい子。カオルちゃんはいい子。壊れたテープレコーダーのように繰り返す。本当に壊れろ、と思うのは僕が他人だからなのだろう。
800円もするブルーマウンテンの味がわからなかった。ただ感じるのは苦味だけだ。愛情という名前をつけられた束縛の味。
まだ半分以上残っていたけれど、僕は会計を済ませて、吐き気を抑えながら店を出た。二度とこのオシャレなカフェに来れないことを残念に思った。
ふと振り返ると、相槌をうつマシーンと化したカオルの顔があった。
その顔は笑っていたけれど、いつぞやの公園で見た、泣いている表情と重なった。
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