猫耳を付けたかった意味

 2LDKのマンションは、二人で暮らすには申し分なかった。

 しかし、体で払わせるといったものの、カオルは家事の類は一切できなかった。そもそも長居させるつもりがなかったので、何も仕込んではいない。そのため、カオルにやることはなく、平日は部屋でゴロゴロしている。

 これは二人暮らしというよりは、一人と一匹だ。本格的にペットと化している。

 これはいわゆるヒモって奴なんじゃないだろうかと、一抹の不安がよぎる。これではいけないと、シグナルが鳴り始める。僕はダメ人間量産機として生きていくつもりはないのだ。


「風呂空いたよ。入ってくれば?」

「うん」


 風呂には僕が先に入る。仕事をしているのだし、ここの家主であるから、当然の権利だと思う。

 だけど、それに対してカオルが文句を言うことはなかった。風呂の順番や食事が遅くなること、帰りが遅くなることにも、なんの不満もたれないので、扱いやすいとはいえる。きっと、手のかからない良い子として育ってきたんだろう。

 髪を乾かし、朝食と昼食の仕込みをしているうちに、カオルは風呂から上がってきた。

 下着も着用していない全裸姿だった。バスタオルのみが、カオルの体を守っている。あまり見ないようにしているけれど、意思とは無関係に映像は記憶に残る。視覚は情報として、カオルの裸体を捉えてしまっていた。

 ほとんど傷やシミもない、純粋さをその身で表しているような体躯。細く壊れそうな危うさ。幼い頃から大切にされてきたことをうかがわせるほどに、不自然な美しさだった。

 きっと子供の時に、怪我一つさせてもらえなかったのだろう。


「ちゃんと服を着てきなよ」

「うん」


 それだけ返事をして、カオルは着替えを用意してある脱衣所へと帰っていった。何度言っても、一週間毎日こんな調子だ。

 ふと、ぞっとするような推測が降りた。まさか、カオルは着替えすらも管理されていたのだろうか。大好きなママとやらに。

 カオルはスウェットを着用し、戻ってきた。色素の薄い人形のような肌。肩まで伸びた、無垢さを象徴するような黒髪。

 そして。


「髪、乾かして欲しいな」

「へいへーい。おいで」


 年齢不相応な甘えに、順応してしまっている。まるで子供にしてあげるような甘やかす行為も、自然と行えるようになってしまった。

 これは、ちょいとまずいのかもしれない。そうは思うのだけど、高級な布地を撫でているような感触に、少しだけドキドキしてしまう。これは恋か。恋なのか。

 いや多分まだ、違う。

 これは恐怖だ。

 とびきりの高級食材と、膨大な時間をかけて作成された、高級人形に傷をつけるのではないかという、恐怖。

 カオルを作ったママとやらに対する、畏敬にも似た恐怖の感情だ。


「終わったよ」

「うん。ありがとう。明日は日曜日だけど、もう寝るの?」

「まあ、そうだね。夜更かししてリズム崩れるのも嫌だし」

「社会人は大変なんだね」

「大変なんだぞ。もっと敬え、崇め奉れ」

「え……どうすればいいの?」


 困惑で顔を歪ませている。真剣だからこそ、なんだろうけど。

 この真っ直ぐさは、この綺麗さは、時に眩しく、鬱陶しい。

 軽く気持ちを晴らすため、痛みを伴わないように、加減に加減を重ねて、額にチョップ。


「あたっ」

「本気にせんでよろしい。もし本気でやるんだったら、白袴着て頭にしめ縄みたいなのを巻いて、護摩業しな」

「それは……無理だよ」

「そりゃそうだよ。冗談だっての冗談」

「冗談のレベル、高いなあ」


 高い冗談のレベルなんて知らない。逆に低いレベルってなんだろう。マヨネーズを胸元に構えて、チクビームとかやればいいのだろうか。

 くっだらねー。


「ほら、そろそろ寝るよ。布団に入った入った」

「はーい」


 僕はベッドに潜り込み、カオルは窓際に沿うように敷いた布団に収まった。客人を床に寝かせることに、倫理観は攻めてくるけど、一言いわせて欲しい。

 ベッドは僕のもんだ。

 それに、僕がベッドを使おうが、カオルにとっての結果は変わらないのだ。

 先週から支障が出ていることは、睡眠障害だった。もともと寝つきはいいのだが、他人がすぐ近くで寝ているということは、予想以上に落ち着かない。

 修学旅行の夜にもなかなか眠れんかったな。新鮮な状況ということと、誰かがいることによる緊張だったのかもしれない。今になって思えば、だけど、


 何度か寝返りを繰り返す。同じように聞こえてくるのは、衣擦れの音。僕以外の誰かも、眠れずに身じろぎを繰り返している。

 幽霊なんていう不思議現象でなければ、可能性は一つしか残らないわけで。


「……失礼しまーす」


 控えめなトーンで図々しく侵入してきたのは、当然カオルだった。

 窓に向けた背中に、新たな暖かさが触れた。心地よく、自分に似た温度、三十六度。人肌の温もり。

 体温の上昇を感じたけれど、それも一時的なことで、徐々に穏やかな波を刻んでいく。やがて眠気が攻め入ってきた。

 僕の意識が途切れるより早く、寝息が聞こえてきた。呑気なもんだよほんと。

 でも、背中合わせになって眠ることに安心感を覚えてしまったのは、僕も一緒だった。人のことはいえないくらい、呑気なもんだ。

 よく眠れそうだと確信した時、ふと今日の自分に抱いた、疑問の答えが舞い込んできた。

 ちょっと気になっていた自分への疑問。僕はなんで突然カオルに猫耳を着けさせたかったのか。

 それはきっと、カオルへの扱いを決めておきたかったんだ。

 猫耳を着けることで、可愛さは増強される。でも着けさせる意味を、その心理を考えると、とても下卑たものだと思い知った。

 それはきっと、犬の首輪と一緒だったんだ。カオルの扱いを、ペットという枠に押しとどめておきたかったのだ。猫耳を着けさせて、まるで飼い猫のように接することで。

 寂しさが発端の身勝手さに、自嘲気味の笑みが漏れた。心底笑えないけど、笑いたい気分だ。

 でも、カオルは拒絶した。明確にではないけれど、嫌なことを嫌と感じる能力は、残っていた。

 なら僕は、自分の欲望のみに従うことはやめよう。カオルとの接し方を真剣に考えて、向き合おう。


「……明日、カオルの日用品買いに行かなきゃな。とりあえず、コップは買おうか」


 特に反応は示さなかったが、明日起きた後に伝えればいいことだ。

 次に猫耳を着けて欲しいと願うのは、もっと違う理由でありますようにと祈り、そこで意識はまどろみに落ちていった。

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