声を失った鳥のように

 カオルが帰ってくるまでの間、気もそぞろで家事も満足に出来なかった。

 所詮は家庭の問題。僕が何か口を挟むことではない。そう理性はもっともらしい意見を述べるのだけど、感情という心は納得してはくれなかった。

 なかなか進まない時計の針を見上げて、石像のように椅子に座り続けた。インスタントコーヒーはもう何杯入れたから覚えていない。今夜は眠れないかも。

 ガチャリ、と玄関のドアが開く音を聞きつけた。カオルが帰ってきたと思うと、鍵を外す音まで控えめに聞こえてしまう。


「ただいま」

「おかえりー。ちょっとここに座って」


 訝しげな顔つきながらも、カオルは従った。僕の向かいの席に腰をかけた。いつもより背中が曲がっている気がする。疲れているのか、恐縮しているのか。

 カオルの前に、インスタントコーヒーを差し出した。そのカップには、猫なのか犬なのかよくわからないキャラクターがプリントされていた。ヘンテコな、カオル専用のコップだ。


「どうかしたの?」

「カオルさあ、私に隠れてどこに行ってるの?」


 気を衒うことのできない僕は、ストレートに尋ねるしかなかった。

 カオルの背筋が伸びて、表情は硬質的になる。もごもごと動かす口元は、言いたくても言えない気持ちを、言わなくても表しているようだ。


「別に、散歩だけど」

「長い散歩だね。ワンコですら帰りたいって駄々こねるレベルのなっがい散歩」

「……」

「まあ問い詰めたいってわけじゃないからいうけどさ。ごめん、みてた」

「そう、なんだ」


 それだけで全てを察したのか、血色が悪くなったのか顔色はさらに薄くなった。

 こんなこと、別に僕がいわなければならないわけじゃないし、様々な形に押し込められている人はごまんといる。それを個性って呼ぶのか不具合って呼ぶのかは、人それぞれだろうけど。


 僕はちょっと誤解していた。不思議で純粋で、甘えん坊な子猫みたいだとカオルのことを定義していたけど、多分違うんだ。

 見えない籠に囚われた、声を奪われた鳥のようだと思った。愛という堅牢な檻に守られて。身勝手という壁に阻まれて、その鳴き声すらも届けられない哀れな鳥なんだ。

 泣いていたあの日にあった正確なことは知ったこっちゃないけれど、自分が囚われた鳥であることに、糸に吊られた人形であることに、思うところがあったのかもしれない。

 そしてその気持ちは、今もなお膨らみ続けているはずだ。

 なんたって僕と過ごしている間に、家事や料理が少しでも出来るようになったんだから。より人に近づいたんだから。


「私は別にさ、カオルが今までどんな風に過ごしてきたかなんて知らないし、母親との関係にどうこういうつもりはないよ。今日聞きたいのは、カオルはこれから、どうしたいのかってこと」

「どうしたいかなんて、いわれても」


 カオルは申し訳なさそうに目を伏せ、口をつぐんだ。その沈黙は、僕にとってはうっとうしくも感じる。ただ黙っていれば、問題が解決してくれる。相手が痺れを切らしてくれる。そのような意図が含まれる沈黙が、嫌いだ。


「あのね、いっていいことと、いっちゃいけないことを選別しないで。思ったままにいえばいい。それが理不尽なことでも、身勝手なことでもいい。カオル自身の言葉が聞きたいんだから」


 そう投げかけると、一瞬だけ顔を上げたが、また前髪が垂れて表情を覆い隠した。

 沈黙が続くことは、張り詰めた糸のように緊張感を生んでいる。さらに時間だけを消費していくと、沈黙には苛立ちが混じってしまっているようだ。それでも僕は逃がさない。

 カオルの心を、もしかしたら今までで一度たりとも触れられなかった本音を、聞きたいのだ。


「もう、嫌なんだ」

「うん」


 痛みが伴うくらいに強引な力で絞り出された本音。その声は情感が含まれている分、とても痛々しい響きだ。僕はそれを聞き逃さないように必死だった。


「お母さんのことも、何にもできない自分も。それで綺麗事だけじゃなくて、行っても馴染めない大学だって嫌だし、時々うっとうしいユウのことも嫌だ」

「うん」

「なんで世の中嫌なことだらけなんだろう。嫌なことばっかりだって思うんだけど、それでも従った方が楽なんだ。流されるままにいるほうが、とっても楽。自分で何かを決めることなんて、責任を負うことは怖い」

「うん」

「嫌なんだけど、それでも決めてもらう方が楽だから。そんな自分がさらに嫌になって、それで……でもみんなそうじゃないの? 多かれ少なかれ、何かに頼って縋って責任から逃げて、そういうものじゃないの?」

「うんうん。その通りだよカオル。私もそう思う。みんな自分勝手で都合よく生きているよ」

「それなら、なんの問題もないよ。これからも……」


 カオルは安堵したように息をつく。けれどもその表情は全然晴れやかなんかじゃなくて、何一つ納得していない様子だ。


「自分でもわかってるんでしょ? 辛いんでしょ? その生き方。だからあの時泣いてたんだ」

「……」


 明確な答えは返ってこないけど、否定も返ってこないから、肯定と捉える。

 きっとそうやって生きてくるしかなかった。きっとそうやって生きることしか教えてもらえなかった。

 どこにでもあることかもしれない、ちょっとした不具合。誰が悪いのかなんて、責任を何かに押し付けることは筋違い。だけど納得なんかできない。

 辛いのは、本人のはずだから。

 僕にできることなんて、ほとんどない。カオルを救うことはできないし、一生をかけてカオルに責任を持つだけの財力も度胸もない。

 どうしても現実を暮らしていくには、必要なものがたくさんある。

 だから僕は、無責任に手放すことにした。


 僕にとっても都合のよくない、哀れで純粋な籠の鳥を。


「よし、飲みに行くぞ」

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