第二話 功夫 鍛えることについて

 「歩くときは、頭の高さを一定にすることじゃ」

 公園のベンチに座った老師が言う。

 オレの方は、彼女の座っている、そのベンチの周りをグルグルと歩いているところだ。

 「なぜですか?」

 「うむ、それはな、己の身体に意図しない動きをさせないためじゃ」

 老師の指示に従って、オレは、なるべく、身体を上下させないように意識して歩き続ける。

 「逆に言うと、”意図して”ならば、頭の位置を上下させても構わない、ってことですか?」

 老女がうなずく様子を、オレはベンチの後ろを歩きながら見た。こうしていると、一般の高齢者、ただの日向ぼっこ中のお婆さんにしか見えない。

 「上下には限らん。前後でも左右でも、己の意思によるものならば、存分に動かすべきじゃ。立身中正(※全身を真っすぐな状態にして保つこと)は、太極拳の基本じゃが、そうではない流派もあろう?」

 (ボクシングのウィービングとか、そうだな)

 うんうんと、オレはうなずく。

 「声に出さねば、伝わらんぞ」

 「はい! ・・・・・・伝わってるじゃないかよ」

 この老婆、背中に目でも付いているんじゃないだろうか。

 「歩くとき、頭の位置が意図せずに上下してしまうような者は、身体が鍛えられておらん。じゃから、腹パン一発で沈めることができるのじゃ」

 そして、心には獣を飼っているんじゃなかろうか。


 歩くことに続いて、走ることを学ぶ。この練習も、周ることは同じだ。

 「走るときは、頭の上下は気にせんでよい。それよりも、呼吸を一定にすることを意識するのじゃ」

 「はい」

 吸う。吐く。吸う。吐く。

 同じリズムで。同じリズムで。

 「歩くときと、走るときとで、変わらぬことの方は、何かわかるか?」

 問いかける老師の前を、一定の速度で走っていく。質問に答えるときにも、呼吸は乱さないようにする。

 「車に気を付けることとか(笑)?」

 「正解じゃ」

 え。

 冗談のつもりだったんだが。

 「武術は弱者が生き延びるための技術よ。そのために、人を殺せるようにすることが修練、修練で身に着く能力が功夫よ。

 武術の功夫は、車に挑むための能力ではない」

 「武術家が、車に挑んでも仕方がない?」

 「たとえ、車に勝てたとしても、それで死んでしまうのであれば武術ではない、と言うべきじゃろうな」

 とすると、仮に、車から逃げるための技術があるとすれば、それが武術に含まれる可能性はあるってことか。


 老師の教え方は、同じ一つのことを、違う話にしたり、違う動きを見せることで、学ばせるやり方なのだと、そのことが最近、少しずつわかるようになってきた気がする、オレなのだった。


 呼吸のリズムを保ったまま、走り終えると、老師は、オレの荷物から、タオルを取り出し、こちらに放ってくれた。汗を拭きながら、オレは尋ねる。

 「ところで、老師。老師は、”殺す”より、”殺せる”という言い方をよくされますよね」

 「うむ」

 老師が、うなずく。

 「それって、”実際に殺す必要は無い”という意味にも取れるんですが、オレの解釈、間違っています?」

 「一部、正解じゃ」

 タオルを首にかけ、オレは老師に近づいた。

 「たとえば、世界中の人間、50億人を殺そうとしたとしよう」

 「老師、今、70億人はいますよ」

 「てい」

 「ぐはっ」

 老師は、オレの足を蹴りつけた。座ったままだから、と油断していると、靴の爪先で、弁慶の泣き所を痛打してくる人だから油断ならない。

 (でも、今日の靴は、爪先に鉛が入っていないやつだったから、優しいな)

 「・・・・・・たとえ話に、精確な数字は要らんのじゃ。で、一人殺すのに1秒かかるとしよう。この秒数も、たとえじゃぞ? お前は、それをするか?」

 「しませんよ、そんなの。殺し終わる前に、オレの寿命の方が尽きちゃうじゃないですか」

 殺している間に、人口の方も増えてしまうことだろう。

 「そうじゃ。じゃから、必要なことは、実際に全人類を殺すことではない。

”どんな人間でも、このやり方なら、必ず殺せる”という実感を持つことなのじゃ。

 そして、その実感は、修練でしか身に着かぬのじゃよ」

 言って、老師は笑った。その笑みは、彼女の言う、”実感”とやらを、完璧に会得しているのだと、そうオレに告げていた。

 それは、思わず息を飲み込むほど、凄絶な笑顔だった。

 「オレを殺さないでくださいよ?」

 「じゃから言うておるじゃろう。

(この弟子を殺せる)

と、そう実感できるだけで、十分なのじゃよ」

 ぜんッぜん嬉しくない、今日の老師の教えだった。

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オレと老女老師 破死竜 @hashiryu

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