第32話 救われるべきものたちへ②

 項垂れる美里亜の姿を見かねてだろうか、母・友里が部屋の中に入ってきた。まるで一歩一歩呼吸を合わせるようにじっくり。そしてゆっくりと歩を進めると、やがてはベッドに上がり、そのまま上体だけを起こした美里亜を包み込むように抱き締めた。


「ごめんね……」


 確かに彼女はそう呟いた。美里亜の濁った瞳が、柔らかい風に草花が靡くように、静かに揺れていた。


「ごめんね……守ってあげられなくて……。ごめんね……気づいてあげられなくて……」


 友里の瞳も、ラムネ瓶の中のビー玉のように淡く光り、潤んでいる。


「苦しかったよね……。悲しかったよね……。誰かに聞いて欲しかったよね……」


 今、友里の言葉は、美里亜の幾重にも重ねられた心の防壁に、染み入っているのだろう。母親だから伝わる言葉がある。血が繋がっているから響く想いがある。


「ごめんね……駄目な母親で。私、あなたのこと、何もわかっていなかった。何もわかってあげられていなかった。いつもこんなに側にいたのにね。毎日、顔を合わせていたのにね」


 いつしか美里亜の目は、友里の首筋を捉えていた。その身体の温もりを肌で感じ、その懐かしい匂いを思い出していたのかもしれない。近くて遠かった存在。想いを伝えられず、美里亜には母親が他人にさえ思えていたのかもしれない。


「ずっと賢くて強い子だって思ってた。親が言いたいことを、言う前に全部やってのけて、本当に出来た娘だって思ってた。でも、違ってたんだよね? ううん、間違ってはいないけど、あなたはずっと一人で苦しんでいた」


 友里の言葉に、美里亜の唇が震え始める。その目も鼻も頬だって、赤みが差し始める。


「どんなに強い子でも、どんなに心の強い子でも、やっぱりまだ子供なんだって、私は今ようやく気づいたの。甘えたかったよね? 頼りたかったよね? もっと話したかったよね? 本当に駄目な母親でごめんなさい。私全然気づかなかったの」


 いつしか友里の声は涙声になっていた。そしてその声は、確かに美里亜に届いていたはずだ。


「でもね、気づいたこともあるの。あなたがこんなにも頑張ってたんだって。こんなにも頑張り屋さんだったんだなって、あんなにもたくさんの人のことを考えていたんだなって、それでも泣かなかったんだなって。そして大勢の人に愛されていたんだなって、私は今日初めて知ったの」


 そう、美里亜はずっと一人で努力してきた。学園の風紀を乱すまいと、みんなの空気を良くしようと、そして生徒の見本となるよう、絶えず勉学に勤しんでいたのだ。みんな知っていた。みんなわかっていた。でも、みんな彼女を頼り、縋っていたのだ。大天使ミカエルが、その羽を広げ、甲冑をまとって天の軍団の先頭をいく姿に、惹きつけられるように。彼女にはその強さと神々しいまでの魅力があったのだ。


「でも、もう我慢しないで。何でも私に言って。泣きたい時はちゃんと泣いて。お母さんが駄目な時は、ちゃんと叱って。あなたが失敗した時には、!」


 顔を押しつけ、力強く美里亜を抱き締める友里。友里の涙は今、彼女の心に届いたのかもしれない。


「どう……して……?」


 震えていた。舜だって震えていた。その心に。その溢れる愛に。


 ――だから。


「だって、あなたは私の大切な子供もなんですもの。あなたが痛がっている時は、私も痛いの。あなたが苦しんでいる時は、私も苦しいの。あなたが嬉しい時は、私も自分のこと以上に嬉しいの。だって、あなたを産んだのは私なんだから」


 ――舜は泣いていたのだろう。


「だからね、大丈夫。二人で一緒に、もう一度頑張ろう。親子二人三脚で、二人で手を取り合って、一緒に前を向いて」


 かつて失った家族の形がそこにはあったから。


「うん……」


 そして、美里亜は友里を抱き返した。背中に回される手と手。咽び合う二人の親子。その姿に、舜は胸を打たれたのだった。そしてそれは、もう二度と舜が取り戻すことのない世界。だからこそ、舜は思うのだ。


 ――他人だけは幸せになって欲しいと。


 山代美里亜は泣いていた。それでも口元が笑っていたのは、彼女が本当に救われた証拠だろう。だから――。


 ――大丈夫。


 まだやり直せるはずだ。舜は目を細め、ある人物にSNSのメッセージを送った。


「今、古い友人に連絡を入れました。すぐに車で迎えがきます。先輩はその医師の病院で診てもらいます。誰にも悟られずにひっそりと。ゆっくりと治療に専念してもらいます」


 きっと彼女はパトカーや救急車を呼ばれると思っていたのだろう。驚いた顔をする美里亜。そしてそれは友里も同じようだった。


「どうして……天田君?」


「美里亜先輩には、救急車も警察も似合わない。それだけです」


 そう、彼女のプライドが許さないのもあるが、舜自身がそれを受け入れたくなかっただけだった。美里亜は真顔の舜を見て、クスッと口元を緩めるのだ。


 ――ああ。


 それこそが舜が待ちわびた、あの山代美里亜の心からの笑顔だった。そう、舜はこのために、あの日彼女の声に耳を傾けたのだ。彼女に認められたくて、彼女に見て欲しくて、そして、もっと近くで彼女の声を聞きたくて。舜の声は響いただろうか。舜の想いは届いただろうか。その清々しい笑みが、内緒で答えを教えてくれているようだった。


 しばらくすると、舜が呼びつけた人物がやってきた。舜よりもかなり背が高く、長い黒髪に白衣をまとい、涼しげに笑うのだった。


「どなた……なんです?」


「ああ、友里さんすみません。こいつは若くして医師をやっている古い友人です。年だけは僕より六つ上なんですけどね」


「年だけはとは何だ、天田。僕は飛び級で君よりも遥かに前に大学も卒業したし、医師免許も取ったんだぞ? だから僕の方が色んなものが六つ上だ」


 そんなところで張り合ってどうするつもりなのだろう。舜は呆れながらも、彼に自己紹介を促した。


「柊と申します。お美しいお母様、お嬢さんと一緒に僕の病院に来て頂けますね?」


 相変わらず気障で世間ずれしているところが面白い。普段なら罵声を浴びそうな科白だったが、美里亜も友里も可笑しそうに口元に手を当てるのだった。


「ふふふっ、お願いします」


 布団を捲った美里亜の姿は、なかなかのものだった。友里が両足に丁寧に包帯を巻いてはいたが、その包帯には惨たらしくも血が滲んでいた。その足には最早力が入らないようで、柊が運んできたストレッチャーに、二人がかりで載せたのだった。美里亜の身体は恐ろしく軽かった。この細い身体のどこに、あれだけのエネルギーが隠されていたのだろう。舜は人の強さを思い知るのだった。


 柊の車に二人が乗り込んだ後、舜はずっと聞こうと思っていたことを美里亜に尋ねた。そしてそれこそが、本当の意味での事件の解決に必要なことだった。


「美里亜先輩。一つだけ、お願いがあります」


「何かしら……?」


 横に寝そべったまま、顔だけを舜に向けてくれる美里亜。愛おしかった彼女の顔も、その目も、その唇も、最早舜の目には入らなかった。


?」


 八大天使に含まれるイェレミエルは、七大天使ウリエルと同じ扱いをされることがある。そう、最初から舜たちの目は欺かれていたのだ。

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