第28話 心の叫び、そして解放

 藤堂の話では、その人物は女の子らしい。結局それが一体誰なのかを、藤堂は思い出すことは出来なかったようだ。しかし、彼の発言が舜に与えた衝撃は、凄まじいものがあった。


 彼の話を信じるならば、何者かが学園内に入り込んでいたことになる。そしてその人物は女の子で、藤堂から見て、いないはずの人物ということになる。舜は面識があるのだろうか。やっと犯人を絞れたと思ったばかりなのに。そんな矢先に奈落の底に突き落とされたような深い絶望感が舜を襲うのだった。


 ――どうして辿り着けないんだ。


 やっとここまで来たのに。やっと犯人を追い詰められそうだったのに。身を削り粉にしても、まだ届かないのか。これじゃあ、救えない。本当に守りたい人たちを守れない。そんなの意味がないじゃないか。頑張った意味なんてないじゃないか。流れた汗も涙も血液も、全ては無駄になってしまうじゃないか。


 ――どうしたら、どうしたらいいんだ。


 舜の思考の何処にも出口など見当たらず、全ては行き止まりで、振り出しに戻されるだけだった。


「舜君……私はどうしたらいいですか?」


 隣にはまだ汐莉がいた。学園からの帰り道、舜がずっと無言だったのが、彼女には辛かったのだろう。


「ん? 何がだ?」


 恍けてみせる舜。しかし、汐莉は舜の白い制服の袖を持ったまま、ピタリと足を止める。震えているのだろうか。彼女の呼吸する音が、いつもよりだいぶ大きく聞こえた。そして背中にかかる彼女の息が荒々しいように熱く、何処か思いつめたようでもあった。


「どうしたら、?」


 ――まさか。


 いや、そんなはずはない。彼女がそんな思考になるはずがない。舜は振り向き、気づかないふりをして笑って見せるが、汐莉の目はすでに涙で揺れていた。


「裸になればいいですか? それとも誰かに犯されれば? 私が今死ねば、舜君は私を信じてくれますか? 私がって、私がんじゃないって信じてくれますか?!」


 小さく可愛らしかった汐莉の顔が、今は台風にでもあったかのように荒れ果て、その涙で頬を濡らしている。鼻も頬も真っ赤になり、怯えるように彼女は震えていた。


「聞こえていたんです……。舜君が北野先生と話しているのが。いいえ、聞いてしまっていたんです。舜君が思いつめた顔で気分が悪くなってしまったから、何だか心配になって、どんなことで悩み苦しんでるのかなって思って。一人で悩まないで欲しいなって、何か私に出来ないかなって思って、ずっと保健室の外で聞いていたんです。そうしたら、まさか、私を疑っているなんて思いもしなかった」


 ――そんな……。


「私、舜君に疑われるなんて耐えられない。それなら、死んだほうがましです。死なせてくれないのなら、どうか、私を殺して下さい!」


 ――何で……。


 その時、気づいた。追いつめていたのは、舜だったのだと。こんな純粋で無垢な女の子の心を傷つけ、ここまで追い込み、その心を土足で踏みにじったのは、間違いなく舜だった。


 ――ひどい。


 あんまりだ。自分の残酷さに、舜は辟易した。


 ――何が。


 そう、何が違うんだ。人を殺す犯人と一体何が違うんだ?


 ――一緒だ。


 人を傷つけることに、重さも軽さもない。言葉が口から離れた以上、その声には、責任と重みが付きまとう。わかっていた。舜は思い知っていたはずだった。茉莉華の時も、美里亜の時も、舜は言葉の力を理解していたはずだった。


 ――それなのに。


 どうして、いともたやすく舜は人を傷つけるんだ。汐莉は舜を慕ってくれている大切な存在なのに。子犬のように甘えてくれる妹のような存在なのに。どうして、そう、どうして?!


 震える彼女の目も、その唇も、指も、腕も、足の爪先さえも、恐怖を露わにしていた。舜に殺されることよりも、自ら死んでしまうことよりも、舜に信じてもらえないことのほうが、よっぽど恐ろしかったのだろう。


 言葉が出なかった。見つからなかった。汐莉に投げかける言葉も、汐莉を笑顔にする言葉も、彼女を突き放す言葉さえも。


 そして、彼女を救う言葉の一片さえも。


 汐莉は俯き、一歩前に出る。舜の袖を掴んだまま、また一歩前に出る。


 ――そして。


 薄ピンク色の制服の裾がふわりと揺れたと思うと、汐莉は舜に飛びついていた。そしてその胸に顔を埋め、痛いほど抱きしめてきたのだ。


「ねえ、舜君。私はね。ただずっと近くであなたを見ていたいんです。邪魔扱いされようとも、無視されようとも、舜君に別の好きな人が出来て、その人と毎日一緒に手をつないで歩いている姿を見せつけられたとしても。汐莉は舜君を見ていたいんです。駄目かな、こんなの。重いかな、こんな女。嫌いかな、こんな人間。生きている価値ないかな、私なんて。死んでしまえばいいのかな? ねえ、舜君。ねえっ?!」


 舜の胸の中で汐莉は、鼻を押しつけ、涙を飛ばし、その想いをぶつけていた。


 かつて、重いと感じていたのは、きっとまだ彼女の愛の深さを、そして大きさをわかっていなかったからだ。阿孫汐莉が心から舜を好きなのだというのが、今はっきりとわかった。そしてそのためなら彼女は人さえ殺すだろう。もし、舜の命が脅かされる時が来たのなら。彼女は舜を守ろうとするだろう。自らを犠牲にしてでも。そう、そのためなら。


 ――でも。


 今は違う。汐莉にとって、そのタイミングではない。自らを犠牲にしてまで、そして誰かを殺してでも、守りたいものが、彼女にはない。舜の他にはない。今、それがはっきりとわかった。


 ――だから。


 彼女は犯人ではない。そんな理由で否定するのは、きっとミステリー好きには怒られるかもしれないけれど、阿孫汐莉は人を殺し、自ら扇動して人を死なせたりはしない。誰かを死なせて喜ぶようなそんな人間ではない。証拠はと言われても、証明は出来ない。でも、舜は知っている。いや舜の心が知っている。彼女の流した涙の熱さを舜は心に刻み込んでいる。


「それじゃあ駄目だ」


「えっ?」


 舜の言葉に怯え、汐莉はまるで死の宣告を待っているかのように震えていた。


「絶対に駄目だ」


 舜は汐莉の背中に両手を回し、そっと抱きしめた。


「汐莉が死んじゃったら、僕が毎朝、


 汐莉の目から噴き出す涙。それを服で拭うように、舜は更に彼女を強く抱き締めた。


「君の高い声も、君のその涙も、温かさも、膨らんだ胸の柔らかさも大きさだって。ここ数日でやっとわかった君のことが、全部無くなってしまうじゃないか」


 汐莉が力いっぱい抱き返してくる。彼女の心が温もりと一緒に、舜の心に今伝わっている。


「そんなのは駄目だ。君のいない学園生活なんて、きっと退屈で何も起こらないから」


「いいんですか? 私もっともっと舜君に近づきますよ? もっともっとイチャイチャしたがりますよ?」


「ああ。したいだけしたらいい」


「それに胸だって、もっともっと大きくなるんですから。舜君を窒息させられるくらい大きく。でも、柔らかく。そう、マシュマロのように柔らかいんです。それで舜君をいっぱいいっぱい、たくさんたーくさん包むんですから。だから、覚悟しておいてくださいね? ねね?」


「ああ、男として本望だよ。それで死ねるのなら」


「もーう、死んだら駄目ですよ、ふふっ」


 汐莉は泣きじゃくりながらも、その表情には笑みが戻っていた。


「阿孫汐莉」


「はい……」


「僕は弱くて、自分にも自信がなくて、一人じゃ何も出来ない。白石ゆゆは助けられなかったし、甘木璃湖には気づいてもやれなかった。たまたま喜多川茉莉華は助けられたけど、山代美里亜は救えていないし、三島ひよりだって怒らせたままだ。そして阿孫汐莉を犯人扱いし、君が犯人じゃないのなら、未だ山代美里亜を犯人だと思っている。いや、今の今まで彼女が犯人だと思っていた。そう、思っていたんだ」


「はいです……」


「僕はね、そんな簡単に人を疑うし、人を犯人扱いする。そんな酷い人間なんだ。もっと早く気づいてあげていれば、もっと早く自分を出していれば、僕はもっとたくさんの人たちを助けられたかもしれない。救ってあげられたかもしれない。君だって傷つけることもなかっただろうし、色んな人たちに、辛い告白をさせることもなかった」


「はい……」


「でも、信じて欲しい。ここまで辿りつかなければ、僕は何も出来なかった。ここまで追い込まれたからこそ、僕はようやく自分を取り戻せるんだ」


「はい、よくわからないですけど、舜君が言うのなら、はいなのです!」


 真面目な顔で舜を見上げる汐莉。上目使いする彼女が、今はとても可愛らしく、そして愛おしく思えた。


「ありがとう。だから、汐莉には信じて欲しい。僕がまだ何かやれるはずだって。信じて欲しい。僕がまだ事件を解決出来るはずなんだって。そして、勇気づけて欲しい。僕が本当はなんだって」


「それやらない子の言い訳、ナンバーワンの常套句ですよ、舜君。うふふっ」


 屈託なく笑い合う二人。彼女の顔からはいつしか涙が引き、いつものような無邪気な笑い顔になっていた。それでいい。きっと舜はその笑顔を見るために、力を発揮するのだから。


 ――


 みんなの笑顔を。


 ――


 大切な人たちを。


 ――


 この悲しみの連鎖の物語を。


「だから、今するよ」


「何を……ですか?」


「本当の天田舜を。僕がかつて僕であった頃の自分を」


「はい……です。でも、舜君。どういうことですか?」


「僕はかつて化け物と呼ばれていた。三島ひよりが言われているように、僕もあるタイミングまでは、そう呼ばれていたんだ。でも、ある事件がきっかけで、僕は悪魔と呼ばれるようになり、自らの脳に鍵をかけてしまった。自分で自分の能力を呪いさえしたんだ。だから、もう一度聞かせてくれ。阿孫汐莉。君は何があっても、僕を最後まで信じてくれるか?」


「当たり前です。私はそのために生きているのですよ? 舜君。あなたに助けられた日から、私の心はあなたのものです」


 大袈裟だと思った。それでも嬉しいと思うのは、舜の心が今満たされているからだろう。信じてくれる人がいる。その事実が、舜に大きな力を与えた。


「何故なら、汐莉はあなたの奴隷なのですから。ふふふっ」


「その言い方は誤解されてしまうから、止めてくれ。下手したら僕が捕まってしまう」


「私が逮捕しますから、ふふふっ」


 もし、彼女が婦警さんにでもなる未来が来たとしたら、ちょっとしたら悪戯で、彼女に捕まえてもらおうとする人たちが出てくるかもしれない。そんな姿を想像し、舜は肩の力を抜くのだった。


 全ては悲しみの連鎖だった。全ては止められるはずのものだった。でも、たった一つの歯車が狂って、一度動き出したものはどんどん止められなくなって、人は人であることを見失ってしまったのかもしれない。


 ――そう歯車だ。


 これから舜がすることは、その欠けた歯車を埋め、元通りにすること。元に戻ったところで、一度噛み合わせの狂ったもの同士は傷つけ合いバランスが崩れ、元のようには動かないかもしれない。でも、それでも前を向いて進んでくれると信じ、舜はもう一度、汐莉を抱き締めるのだった。


 脳の中に小さな扉がある。今、その鍵を、汐莉が挿して回してくれる。これは汐莉の心の犠牲によって出来た鍵だ。やがて音を立て、そのロックが解除されたのだった。


「さあ、汐莉。悲しみの連鎖に、をつけようか!」


「はい……!」


 そして舜は、自らの脳をした。





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