→Cinooh=Favela

 紫皇はサンシャインへ背を向けた。

 大丈夫だ。顔は見られていない。彼女いわく自分の表情は分かりやすいらしいから注意しなければ。


「シノー……あたしも」


 返事はしない。もはやまともに返せる言葉を自分は持たないし、これ以上サンシャインとの記憶をフィードバックしてしまえばこれからすることが恐ろしくて動けなくなりそうだった。

 止まれ、止まって振り向けと不可視領域ブラックスペースが訴える。


 ――彼女は己の、シノー=ファベイラの■■だ。離れるべきではない。

 

 不承。《感情》が即座にそれを拒んだ。

 もはやその値は平常値を二ケタほど超越しており不可視領域といえど容易にはくつがえせない。


「シノー!!」


 《幸せ》を目指せと彼女は言った。

 だからそうするんじゃない。紫皇自身がその言葉を快いと感じたからする。

 それは人に感謝されることであり、サニーの助けとなることであり、サニーが平穏であることだった。

 「一緒に逃げる」だけでは不足。最初から分かっていたはずだ。幽苺からは逃げられない。



 三階の踊り場はびしょ濡れで、今も水が降っていた。

 下階での火気を探知したのかスプリンクラーが作動している。

 背負ったジェットパックと自身のデバイスとを接続。


【警告:未登録のユーザーです】


 ……そうか、これはあの彼――名前は思いだせないが――から奪ったものだった。

 ジェットパックにも意思はあるだろう。きっとあのマスターのために駆動し、出来うるならその耐用期間を全うしたいと思っていたことだろう。


「……“ごめんなさい”」


 ああ、あの時サニーが謝った意味がようやく分かった。

 相手の意思を軽くみること、それはきっと自分がそうされたときのように苦しいものなのだ。一人のロボットとして生きてほしいというのはまさに、自分が今感じたようなことなのだろう。

 それなら言えばよかった。望むところと。自分は一点の不安も抑圧もなく、お前が健やかで心安くあることを目指していると。


【新しいユーザー:Cinooh=Favela 承認】


 ジェットパックのランプが点灯を始める。と同時。


「あーよかったぁ。壊しちゃったかと思ったわー」


 ごく間近まぢかから幽苺の声。慌てて周囲を索敵さくてきする。


「あなたを困らせて怖がらせるのは楽しいけど、死んじゃったらそれっきりだものねー。でも、そんな気遣いももうおしまい」


 姿が見えない。紫皇が目を凝らすと階段前の風景が瞬間的に大きくゆがみ、直後に隣の壁あたりから大蜘蛛おおぐもの足音がした。

 《星呑の蜘蛛ウーゴリアント》の難視化セミステルス機能と判断、目よりも耳を重視することで対処する。


「それでー? こんなところに突っ立ってどうしたの? 命乞い? 自分はどうなってもいいからお姫様だけでも助けてほしいって?」


 左、やや上、後ろ、だろうか?


「それとも一人で逃げようとしてたのかしら。そんなオモチャを背負っちゃって」


 振り向きざまに拾った瓦礫がれきを投擲する。

 ぞっとする静かな跳躍音とともに敵はそれをかわして移動していた。返しの銃弾が斜め上方から紫皇の胸へ撃ちこまれる。


ダガガガガギッ!!!


 六発ほどが内部に達する。運動系にエラーが起こり、紫皇はへたりこんだ。


「あっはハ、おしまいね。怖い? つらい? あぁ、もうロクに話も出来ないのかしら」


 音を認識できない。四つん這いの姿勢ででたらめに周囲を見回す。


「あーつまんない。もっともっと紫皇が苦しむところを見たかったのに。ねえ」


 足を撃たれ破壊される。這うことも難しくなりうつぶせでもがく。


「ねえってば、顔くらい見せなさいったらッ!」


 次の瞬間。紫皇は振り続けていた水粒が途切れるのを見た。

 上体の全機能を総動員して寝返りをうつ。それが叶うか叶わないかというタイミングでそれまで倒れていた床が大きく削れた。

 間違いない。敵は今そこにいる。紫皇に覆いかぶさるような形で。


 ズルッ と、視界が一段下がる。


 床が崩れ落ちようとしていた。下階からのマシンガンの掃射と、さらに上で起こった戦闘と《星呑の蜘蛛ウーゴリアント》の荷重によって。

 紫皇は視えない《星呑の蜘蛛》の足を掴む。


「“幽苺”……ッ!」


 もはやその名を呼ぶことで湧き上がる感情は《怖れ》ではなかった。

 ただ、二人が同じ世界では満足に生きられないだろうという確信だけだった。


「馬鹿にしてえッ!」


 崩落する床を蹴り、大蜘蛛が跳ぶ。掴まった紫皇をものともせずに。


「――“起動発射ウェイクアップ”」


 静かに紫皇は唱えた。

 背負ったジェットパックに火が入り、全身を《星呑の蜘蛛》へ押しつける。


「あっ、きぁあアッ!?」


 巨躯が中空で過剰に回転した。反転し天井へ足を着くはずだったそれは予測を狂わされ、ボディから天井へ激突する。

 さらに紫皇は難視が解除された蜘蛛のへともぐり込もうと試みながら、再び命令する。


「“起動ウェイク――」

「ちょっと何を――!?」

「――発射アップ”!」


 ドゴン、とジェットがこれまでで最大の炎を噴く。ほぼ機体の中心へ入った紫皇の身体は真下へ、たったいま一階までの吹き抜けとなった穴へ向けられていた。


「まさか、」

「“俺はサニーの妨げになる”」


 そうに違いないと紫皇は思う。

 この騒動を呼びこんだのは自分だ。そしてこの先もきっと、日常にまぎれこんだ異物として彼女の人生を歪めてしまうだろう。

 ならば。


「ふざけないで! 止めなさい、離せ、放せはなせェッ!」


 八本の足が紫皇の全身を滅茶苦茶に引っ掻き、押し潰す。

 底のフレーム一枚隔てた場所から響く幽苺の絶叫を、紫皇は文字通り聞き流し。


「“墜ちろ、クソ女ファッキン ビッチ”」


 切れ切れの声でつぶやくと、その全機能を停止した。



・・・

実績解除アンロック:《星呑の蜘蛛》】

 :...

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