第24話 羽柴徳川、和平成立なるか

「石川どの、よくぞ参ったのう。徳川を見限り、我が家臣となるためじゃな!?」


「は。――」


 大坂城にて。

 秀吉が上座に座り、その両脇に羽柴秀長と俺が控える。

 さらに蜂須賀小六や黒田官兵衛や、他の羽柴家臣も揃っていた。


 平伏する石川数正を前に、秀吉は得意面であった。

 前々から秀吉は、石川数正に引き抜きの声をかけていたらしい。


 石川数正は徳川家中における交渉役。なにかにつけて大坂や京に来ては秀吉と会っていた。それだけに、羽柴家の強さを心から知り抜いていた。


 秀吉としては、この石川数正を口説き落とせば、徳川家の力は半減すると見込んでいた。さもあろう。石川数正は徳川家康にとって腹心中の腹心。徳川家の軍法や、徳川家が有する城の間取りや位置、さらに徳川家臣団の人となりまで、知り尽くしている。


 その上、徳川家康が今川家の人質だったときからの兄貴分でもあった。……

 俺もあのとき、会っていたものな。

 まだ若かったころの家康と石川数正。……石川さんに。


 あのころ、俺と藤吉郎は行商人に化けて今川領に侵入。徳川家はまだ松平家といって、今川に支配され、家康は孕石主水という今川家臣に馬鹿にされ、あるいは岡崎城も今川の代官、石原甚兵衛に支配されていて……。


 それがいまや、この情景だ。

 クールな若侍だった石川さん。

 その面影はもう、見られない。


 家康は信長公に従うことで東海一の弓取りとなり、ひとかどの大名となった。そしていよいよ織田政権下ナンバーツー大名となろうかというときに、明智光秀の乱が起きて、その後あれよあれよという間に秀吉が台頭したのだ。


 徳川家が、秀吉に対して従順になれないのは、まさにこういう点にあるのかもしれない。

 とはいえ。どれほど徳川が不満を抱こうとも……。

 現実は、ご覧の通り。


「よかろう、石川どの。わしと汝は長年の付き合いじゃ。かつてこの弥五郎とふたりで駿府に来たときからの長い朋友じゃ。のう。わしは受け入れるぞ! わしと石川どのは仲良しじゃ、はっはっは!」


 秀吉は下座まで下りてきて、ばんばん。

 石川さんの肩を激しく叩いたものだ。


 思い出はあるが、朋友――と呼ぶほどには親しくはしていなかっただろうよ、と俺は思った。例えるならば、高校時代に隣のクラスにいて、それなりに話していた、その後も数年に一度は仲間の集まりで顔を合わせていた、くらいの関係だろうか。


 もちろん秀吉、そんなことは百も承知で親友面だ。

 それくらい、いまの石川さんは仲間に入れる価値がある、ということなのだ。


 しかし石川さんは、どこか暗い顔をしながら。

 やがて悲壮な表情をしながら、雄叫びをあげた。


「殿下。恐れながらお慈悲を!」


「ん? 慈悲? なにが……」


「この石川が大坂に参った以上、もはや徳川家には逆らう力はございませぬ」


 石川さんは、もう、額を床にこすりつけながら、


「ゆえに、なにとぞ、お慈悲を。徳川を潰さずに生き延びさせてくだされ。殿下の深い御心をもって徳川を家来にし、どうかどうか生かしてくだされ。徳川家もいまならば、殿下のお言葉を心より受け入れ、臣下としてお仕えすることでございましょう。だから、ですから!」


「……なるほど。前々から声をかけていたとはいえ、石川どのがなぜ急にここにやってきたのか不思議であったが、そういうわけか。……徳川を活かすために汝は、我が配下となったか」


 秀吉は、興醒めしたような顔で石川さんを眺めている。


「確かに汝が裏切ったいま、徳川家は軍法までこちらに筒抜け。いまひといくさ起きれば、徳川は戦うことも難しかろうな。……忠臣よのう……」


「それゆえ殿下! お慈悲を! 徳川次郎三郎様は必ず、あなた様の股肱となって働きましょう! なにとぞ!!」


「石川どの。……試みに問うてみるが、いまわしが徳川と戦うといったら、汝はどちらの味方をするのだ?」


 秀吉の冷たい声を聞いて、石川数正はハッと顔を上げた。

 その瞬間、秀吉はくわっと面を険しくし、


「頭が高いわ! 愚か者!!」


「は、はっ……! うっ……」


「どちらの味方をすると聞いておる。まさか徳川の味方はできまい。もはや汝に帰るところはない。ではわしの家臣となるな? 徳川を共に攻めてくれるな?」


「……それは」


「できぬと思うか? いますぐにでもやろうか? 官兵衛、出陣じゃ。兵をひとまず五万集めよ」


「は……」


 黒田官兵衛はわずかに顔を下げた。


「小六よ、織田と上杉に使いを出せ。力を合わせて徳川をつぶす。よいな――」


「お、お待ちくだされ。どうか、どうかご慈悲を、ご慈悲――」


「慈悲、慈悲とやかましいことよ。同じ言葉をチュンチュンとさえずるだけならすずめでもできようぞ! のう、石川どのよ、答えはまだ聞いておらんぞ。汝は羽柴の家臣か、それとも徳川の家臣か!」


 石川さんは愕然とした顔で、その場に伏し、小刻みに震えながら、


「わたくしは、羽柴家の、家来でございます」


 ひとこと、ひとこと。

 区切りながら、しかしはっきりとした声で言った。

 秀吉は、急に恵比須顔になった。


「けっこうじゃ。石川どの、汝のことはまた追って指示をくだすゆえ、下がれ。……なあに、万石の領土は必ず与えるからの。悪いようにはせぬ。いまはただ下がれ。……わしが呼ばぬ限りは、ここに出てこずともよいぞ」


 石川数正は、震えながら退出した。

 やがて他の家臣たちも秀吉の前から去っていき、残ったのは俺と秀吉だけになった。


「ずいぶん、石川さんへの当たりが強いな……」


「この大坂にも、徳川の間者がおる」


 秀吉は、空中を見つめながら答えた。


「それはまあ、いるだろうな。間者はどこにだっている。俺だって先日まで五右衛門や次郎兵衛を徳川領に忍ばせた」


「わからぬか。こういう流れになれば、間者は徳川にこう報告する。石川数正は完全に羽柴家臣となった。もはや秀吉は、いつ徳川を攻めてきてもおかしくない……


 徳川家は完全に大混乱よ。石川が裏切り、秀吉はいますぐにでも五万の兵を出そうというのじゃからの。さらに裏切り者が出るか、出ないかという騒ぎになる。必ずなる。……そこで降伏勧告をすれば、本当に血を流さずに徳川を家臣とできるやもしれぬ。


 いまはまだ、もう少し早い。あと一か月か二か月かければ徳川家は必ず分解する」


「……流石、だな」


 俺は舌を巻いていた。


「間者の存在まで計算に入れて、石川さんにああいう態度をとったのか」


「無論じゃ。……だから官兵衛も小六も、本気の対応をしておらんかったろうが。わしが本当で出陣するといえば、あのふたりはただちに動き出すのにのう」


 確かに。

 官兵衛も蜂須賀小六も、秀吉が出兵すると言っても生返事をしただけだった。


「石川の態度が煮え切らぬゆえ、半分は本気で怒りもしていた。……もはやわしも関白、秀吉。なめられては困る。いつもニコニコ顔の陽気な大将ではおられんのよ」


「それもそうだ。……しかし徳川が分裂したとして、その後はどうする。降伏せよ、というわけか」


「できるならな。そのときの交渉役は、松下嘉兵衛どのと、弥五郎、汝よ」


「なるほど」


 俺は笑い出した。

 松下嘉兵衛さんには引き抜きの声をかけず、石川さんだけを引き抜いたのは。

 石川数正がより徳川家の重臣だからというのもあるが、和平側の人材として、徳川家に残しておきたかったわけだ。


「それとは別に、徳川をつぶすための案も進める。和戦どちらに転んでもいいように、な」


「――それがいいだろう。貯めてある兵糧をいつでも放出できるように、兵糧奉行に伝えておくといい。俺もやる。……それと」


「ああ、汝の仕事を手伝ってほしい、という話か? 構わんが……あまり上方を離れることはできんぞ」


 少し前から、俺は秀吉に、大坂城を離れて仕事を手伝ってほしいことを伝えていた。

 難しい仕事なので、ぜひじきじきに秀吉の指示を仰ぎたいと言ったのだ。


「しかし、いまの汝でもできぬ仕事とは、いったいなんじゃ」


「それは来てからのお楽しみだ。カンナもマカオに行って人手が足りないんだ。頼む」


「まあ、構わん。わしも少しは大坂や京を離れたくあったしのう」


 秀吉は、一度、大きく伸びをして。

 それから、ニヤリと笑ったものだった。




 俺は秀吉、伊与、あかりを連れて坂本に移動した。

 言わずと知れた商業地だが、俺はここで米や水や、薬、衣服、さらに材木などを買い集め、中部地方の主だった町や村に送りまくった。


 秀吉はこの間も、連れてきた祐筆に命じて、諸大名や家臣たちに送る書状や感状を書いたり、俺の仕事を手伝ってくれていたが、


「これは、わしがやるほどのものでもあるまい。なぜわしを坂本に呼んだのだ」


 秀吉は首をかしげていた。

 俺は薄く笑って、


「実は藤吉郎に骨休めをしてほしかったのだ。数日でいい。坂本で休んでいてくれ。近くには良い温泉もあるのだ」


「温泉に入れるのはなによりじゃ。きれいどころを集めてくれると、なお良いがのう」


「この女好きめ」


 ……もちろん、仕事も温泉も女性も口実に過ぎない。


 この年の11月に、中部地方全体を大地震が襲うのだ。

 このとき、秀吉が大坂にいては危ないかもしれない。

 だから俺は秀吉を坂本に呼び、目の届くところにいてもらうことにした。


 それだけでなく、可能な限りに救難物資をいまのうちに揃え、知人のところにはそれとなく、地震や天災に備えるようにと伝えていたが――




 ついに来た!




 ど、ぉん……

 ぉぉぉぉ……




「くっ!?」


「俊明!」


「山田さま……!」


「動くな。伊与、あかり。揺れがおさまるまで絶対に動くなよ!」


 1585年(天正13年)11月29日夜。

 いわゆる天正大地震が起こった。


 天地が上下左右に揺れ、延々と続く地鳴り――地面の下で大爆発が起きているような音。これほどの地震は初めてだ……!


「な、なんたることじゃ! ええい、たまらぬ……!」


 隣室にいた秀吉の叫び声が轟く。


「藤吉郎、動くな。俺が置いた兜をかぶったまま、じっとしているんだ……!」


「言われんでも、わかっとるわ! ……おおお……!」


 ――この地震により、秀吉の領地は大打撃を被った。


 死者、負傷者が相次ぐ。

 俺は買いだめていた米や水や医薬品、材木などをただちに放出し、被災者の救済に務めた。


「出せ、いくらでも出せ。人命最優先だ。米も銭も、どこまでも出せ!」


「山田さま。あまり出しすぎると、さすがの神砲衆でも財が尽きますよ!」


 あかりが不安そうな声をあげたが、


「大丈夫だ。カンナがマカオで稼いできてくれる。あいつなら絶対にやってくれる。だから俺たちはいくらでも、出すんだ! こういうときのための銭なんだ!!」


 俺はひたすら、救済活動にいそしんだ。




 しかし羽柴領が受けたダメージは想定をはるかに超えて大きく、羽柴家は当分の間、軍事行動を慎まざるを得ない状態になってしまった。


 正月もへったくれもない。

 1586年(天正14年)となったが、休みなどありえない。

 俺と神砲衆は、対徳川の最前線でもある尾張にやってきて、津島を根城にして人々を助けていた。


 その中には、佐々成政の姿もあった。

 彼は佐々家の家来20人を連れてきて、俺の手伝いをしてくれた。

 越中国だって被災しているはずだが……そこは、彼の親戚と家臣、そして前田利家に任せてきたらしい。


「尾張は佐々家ゆかりの地。知り合いも多い。……見捨てられぬ」


 佐々成政はそう言っていた。


 そんなときである。


「おおい!」


 津島の町中で働いていると、聞き覚えのある声がした。

 振り返ると、数名の侍を従えた滝川一益が手を振っている。


「久助! どうしたんだ、こんなところで」


「殿下に役目を与えられたゆえ、伊勢に向かっているんだよ。その途中で津島に寄ったわけだ。……おう、内蔵助、下働きがなかなか様になってるじゃねえか、はっはっは」


「近寄るな、じじむさい……」


「じじいはお前も一緒だろうが。もう互いに女にも見向きもされん。ここはじじい同士で仲良くするしかあるまいが」


「……一緒にするな……」


「よせよ、こんな寒い中、外でケンカは。役目? 藤吉郎が?」


「ああ。織田三介さまのところへ向かう。……殿下は徳川との和平をお望みだ。地震でそうとうこたえたらしい。その仲介役として、三介さまを引っ張り出したいんだとさ」


「……ついに徳川と和平か。……うまく成立するといいが」


「成立するだろう」


 佐々成政は、ぼそりと言った。


「徳川も、羽柴打倒には動けまい。石川数正が羽柴家に寝返ったこともあるが……地震で苦しんでいる羽柴領に攻め込めば、非道のそしりは免れまい。羽柴領の領民には未来永劫、恨まれることになる。


 なにより、義理と忠義の名分として羽柴家と戦をしていた徳川家が、地震で苦しんでいるところへ攻め入っては義理もくそもへったくれもない。畜生にも劣る大名だと天下になじられることになるだろう」


「なるほどな。その通りだ。あらゆる意味で徳川も動けないわけだな。……かといって羽柴も動けん。そこで和睦ってわけだ」


 滝川一益が、大きくうなずいた。

 俺も、首肯し、


「しかしここで和平が成立すれば、もはや無駄な血が流れずに済む。天下もいよいよ統一だろう。……久助、話を聞かせてくれ。流れ次第では俺も三介さまのところへ向かう!」

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