第25話 大友宗麟、大坂城へ
1586年(天正14年)は年始そうそうから、中部地震の余震かと思われるような大地震がさらに発生し、世間を怯えさせた。
その地震とほぼ同時期。
秀吉はあの黄金の茶室を大坂城から宮中に運び、正親町天皇に披露。茶の湯を献じた。
秀吉と千利休のタッグによって主上を喜ばせたこの行為により、秀吉はいっそう皇室、ならびに朝廷と結びつき、その権威を高めていた。
「こんなときに、黄金の茶室で茶の湯なんて」
という声もあったが、こんなときだからこそ、朝廷の権威と繋がらねば、というのが秀吉の思いだった。
なにしろ秀吉には、先祖代々の土地も家臣もなく、ほぼ秀吉個人の才覚だけで成り上がってきたのだ。後ろ盾を強引にでも作らねばならなかった。その後ろ盾が、主上であり、朝廷なのだ。
さてその頃、俺個人としては痛恨の出来事がひとつ起こっていた。
若い生命がひとつ、尽きようとしていたのだ。
羽柴秀勝。かつて於次丸と呼ばれた信長公の四男である。
このとき、秀勝の近くに仕えて、身の回りの世話をしていた十五歳の少女を、
――おかげで、漢字を覚えるのが大変でございました。
のちに七海は、微笑みながら言った。
――
七つの海、か。
秀勝は父の信長公や、あるいは他の者から、大航海時代の話を聞いたりしていたのかもしれない。
だから、七つの海を越えて、どこか遠い世界に行きたいと願っていたんじゃないか。
ただの想像でしかないが、俺にはそう思えたのだ。
……羽柴秀勝は、1月の下旬に亡くなった。
事前に、彼の主城である丹波亀山城に食料と薬を送ってはいたが、俺自身はついに羽柴秀勝のところに向かうことができなかった。相次ぐ地震で丹波への道が塞がれていたことと、他の被災地への対処で時間がまったくとれなかった。……なにを言っても、言い訳になるが……。
「於次丸さまとは格別に親しかったわけでもあるまい。お前がそう悩むことはない」
と、伊与は冷静に言った。
「於次丸さまには他の家来もいたのだ。それよりも地震で困っている民衆を救うほうが、我々にとって大事な仕事だ」
その通りだ。
と思ってはいるが、それでも俺は秀勝に同情していた。
最期の瞬間、秀勝のところには、俺も、秀吉も、他の織田家の人間も誰もいなかったのだ。
唯一、秀勝の産みの母親と、七海のような優しい少女が近くにいたことが彼の救いだったかもしれない。
七海から聞いた話だが、秀勝は、いまわの際に、うめくようにして、
「父上。――筑前、さま。お役に立てず、織田にも羽柴にもなりきれぬ無能で、申し訳、なく……」
天に向かって、救いを求めるように両手を掲げたと言う。
秀勝の母が、「いいのですよ!」と甲高く叫んだ。「あなたはそれでよかったのですよ。あなたはそれで……」――七海もまた「お世話になりました。本当に、お世話になりました」と繰り返した。
秀勝は、憑き物が落ちたような顔をして、一生を終えたという。
京の都にいた秀吉は、秀勝の死を聞いて、驚いた顔も見せず、
「そうか。丁重に弔ってやれ」
とだけ答えた。
葬儀には使いを出しただけで終わった。
秀吉が本質的に、秀勝のことを良く思っていなかったのが伝わる話だった。
秀勝に対しては羽柴家の家督の問題で、かなり苦々しく思っていた秀吉である。
こうなるのも仕方ない部分もあるが……それでも。
秀勝には、いまごろ――
信長公がお迎えに来ているのだろうか。
織田家の人間といえば、織田三介こと信雄である。
俺は伊与、滝川一益、佐々成政と共に清州城に向かった。
大地震で信雄の領有する城は大部分が崩落していたので、比較的ダメージの少なかった清州に彼は移ったのだ。
「なんだ、なんだ。なつかしの顔がずいぶん揃ったものだな」
信雄はあっけらかんとして、俺たちを出迎えた。
「山田に滝川に佐々。父上のお気に入りが集まって、俺に正月のお祝いをしにきてくれたのか。誰か、酒じゃ、酒を持て」
「大納言さま(信雄)。酒どころではありません」
俺は第一声を放った。
「関白殿下からの使いとして参りました。殿下は徳川と、本当の和議をお望みです。そのためにぜひ、大納言さまに仲介をしてほしいと」
「……分かっている。そんなことだろうと思っていた。山田弥五郎、そちは相変わらずガチガチのクソ真面目でいかんなあ」
「大納言さま。地震のことで誰もが苦しんでいる中でございます。その中でふざけているのは、いかがなものか」
佐々成政が顔を上げた。
わずかに怒気さえ発している。
しかし織田信雄は、ひらひらと手を振って、
「佐々内蔵助も相変わらずよ。……分かった、そちたちは正しい。……しかしなあ」
信雄は上座から降りてきて、俺たちのすぐ近くに顔を近づけると、
「上に立つものがいつもクソ真面目な顔をして、酒も飲まずに汗水ばかり垂らしていろ。下に立つものは委縮して、気を抜くこともできんぞ。おれのように、フラフラしている上のほうが、家来たちが余裕をもって仕事ができる、ということもあるのだぞ。――な」
信雄はすっくと立ち上がり、
「父上(信長)と兄上はけっきょく、家臣に殺された。三七(信孝)は自害、そして於次丸も自分を責め続けて病で亡くなったと聞いた。父も、年の近い兄弟も、みんないなくなってしもうた。
誰もが恐らくおれより利口で真面目だったと思うが、それでも幸福にはなれなかった。織田家も事実上、空中分解。……利口と真面目が良いことばかりとは限らん。少なくともおれはそう思った。だから最低限やるべきことをやったら、あとはフニャフニャしているほうが良いのではと思ったのよ。……怒るな。おれはそういう大名にしかなれんのだ」
「……大納言さま」
「徳川への使者の件、確かに承った。このおれみずから、徳川領に参ろう」
信雄は薄く笑って、
「そちらはもう、帰っていいよ。あとはおれがやっておく。なあに、徳川どのはおれを殺したりはしない。ああ見えて、本当に義理と忠義の人なのだ。……殿下と仲直りすれば、この日本をうまく導いてくれるだろう。……任せろ、任せろ、あはは……」
信雄は奥へと引っ込んでいった。
俺も伊与も、滝川も佐々も、しばし茫然としていたが、
「……ああいうお方、だったかな……」
「ああいうお方だったと思うが、なにか悟りを開かれたような喋り方だったな」
「あの人にはあの人なりの境地ができたんだろうぜ。……そうだったな、三介さまはもう、父親も兄弟も次々亡くしちまったんだよな。……ほんの4年前まで、みんな生きていたのにな」
「おれの目は節穴だったかもしれん。信長公や信忠公とはまた違う英邁さを、あるいは持っている方かもしれない」
俺たち四人はそれぞれ、信雄への感想を漏らしてから、尾張へと戻っていった。
信雄は働いた。
その後、三河、岡崎城に向かって家康と面会。
秀吉と家康の和睦を成立させた。秀吉はこの翌月、徳川家を「
羽柴・関白政権はさらに動いた。
秀吉は武家や百姓を対象にして、年貢や枡、衣服などについての11か条の定めを取り決める。関白政権によって、世間の法律やモラルが決められていく。
京の都には関白の政治を執り行う場所として、
さらに、九州に目が向かう――
九州地方は、薩摩国の戦国大名、島津氏が南から北に向かって猛進しており、北部に勢力をもつ大名、大友氏は劣勢を強いられていた。
こんな情勢で、秀吉は関白として、大友、島津の両氏に停戦命令を出す。
大友氏を率いる戦国大名、
しかし島津氏を率いる
そんな情勢の中、大友宗麟は大坂城に向かった。
宗麟はもはや、腹を決めていた。
もはや単独では島津氏に対抗できない。
こうなれば秀吉の家臣となり、徹底的に守ってもらうしかない。
そのために大坂にやってきた宗麟は、大坂城下の賑わいに驚き、
「これが、上方か……」
と絶句した。
宗麟の家来たちも同じだった。
大友宗麟にも自負はあった。仮にも九州で何十年と死闘を繰り広げ、最盛期には北部九州の多くを支配下に置き、南蛮人とも交流を続けていた自分だ。上方なにするものぞ、と心の隅では思っていた。しかし、
「いや、負けた。こいつは凄まじい。三国無双とはこのことか」
その思いは大坂城に登城することで、いよいよ決定的となった。
唐天竺にもあるまいと思うような、空前絶後の大巨城が宗麟を待っていた。
これはもう、九州の大名では逆立ちしても及ぶまい。こんな城を作るとは、秀吉とはどういう男か。
「いよう、大友殿か! よう参られた!」
大坂城、謁見の間において、秀吉は宗麟を出迎えた。
その両脇には、3人の男たちが控えていた。秀吉の家臣か、と宗麟は思った。
「わしが関白……関白、羽柴秀吉である。ま、ま、ま、そう硬くなられずとも良い。どうじゃ、大坂の様子は。明るい都じゃろう?」
「はっ……ははっ。いや、まさに天上の都を垣間見たかのようで……これまで、いかにわしらが井の中の蛙で、ケロケロうるさく吠えていたかが分かるというもので……」
「わっはっは、そうか、ケロケロしていたか。いやなに、わしはカエルが好きじゃぞ。見ていて、可愛い。それに焼いて食べると――美味い。鶏肉と似たような味がする。うっふっふ……今度、いっしょに蛙取りでもしてみようか、大友どの。わしはカエルを取るのがうまいぞ。わはは」
「殿下、そろそろおたわむれは……」
「小一郎、良いではないか。……大友どの、ここに控えるのは我が弟の小一郎。羽柴秀長じゃ。わしにどこか似ておろうが」
「はっ、お名前は耳にしたことがあり申す」
「知っていてくれましたか。それはありがたし。羽柴秀長にござる」
「そしてこちらが茶道の千利休。そしてこっちが、商人司の弥五郎――山田俊明」
千利休と山田俊明が、揃ってあいさつをしてきた。
宗麟もあいさつを返した。秀吉はニコニコ笑って、
「さあ、大友どの。共に天守閣に昇ろう。わしが案内つかまつる」
宗麟は秀吉、秀長、利休、俊明らと共に、天守閣に昇った。
「おお……!!」
大坂城の頂点から見る景色。
四月の春風が吹き抜ける。大坂城下どころか、山、川、森、さらにはるか彼方に見える村や町まで――あれは京だろうか? いや、まさか……播磨か? 紀伊か? 宗麟にはもはやそれも分からなかったが、しかし感銘を受けたのは間違いなかった。
「どうじゃ。まさに
「は、ははっ!」
はるか彼方に見える、情景の果て――
(かつて宣教師が言ったことは確かであった。この地球は丸いのだ)
宗麟はわずかに、涙で目を滲ませた。
「殿下、まことにありがとうございます。宗麟、この
「そう言ってもらえるとわしも嬉しい。新しい景色を、今際の際まで見続けたいものよ」
秀吉は、目を細めて、
「これで大友どのは我が家臣よ。以降、主上と関白のためによう働け」
「ははぁっ!!」
宗麟の返事に、いっそう気をよくしたらしい秀吉は、大きくうなずいて、
「今後はこの三人と話すがよい。
その日の夜――
大坂城内に用意された屋敷にて、大友宗麟一行二十数名は宿泊した。
誰もが大坂の繁栄について唾を飛ばしながら語り合っていた。
そんな中、宗麟の前に現れた妙齢の女性が、穏やかに微笑みながら、
「殿。いかがでしたか、関白殿下のお人柄は」
「良い方であった。気さくで、親切で、それでいて……さすがの策略家であった」
「策略家、とは?」
「このわしを天守閣に連れていって、世界そのものを見せてくださった。大坂だけでなく、このあたり全体の景色を見させてもらって、まるで鳥にでもなったかのようだった。……あんなものを見せつけられては、もはや反抗する気もなくなる。身も心も殿下に捧げるしかなくなる。……それを策略家というのだ。さすがはうわさの人たらしよな……」
宗麟は、わずかに笑った。
「九州の王と呼ばれたこともあるこのわしを、あの一瞬で参らせてしまった。見事、というほかないわ。羽柴秀吉――関白殿下! まさに天晴れ、我が大将よ」
「……山田は。山田俊明は、いかがでしたか? 紹介、されたのでしょう?」
「山田? ああ、された。ふむ、まあろくに話せんかったから、そっちはあまり印象にないが……商事は山田俊明に任せ候え、と申しておったな」
「そうですか。……あの方もずいぶん出世されたもので」
「そちは、殿下とも、山田俊明とも知り合いということだったな」
「ええ。ですから、こうして無理を言って殿についてきたのですから」
「なぜそちが、関白殿下や山田俊明と知り合いなのだ? ……」
宗麟は茶をひとすすりしてから、彼女の瞳を一直線に見据えてその名を呼んだ。
「――
年のころは三十代後半の、悲しげな瞳をした女性――未来は、やせぎすの頬をわずかに歪ませて、微笑を浮かべたのであった。
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