第20話 戦国商人立志伝、あと一歩で、あと一息で
けっきょく、徳川家康は羽柴家の傘下になるとは断言せず。
むしろ、佐々成政の要請に対して、前向きに検討するかのような態度を示した。
「山田どのには、わざわざ浜松までお越しいただいたのに、申し訳のないことです」
俺が浜松を去る間際、石川数正が特に申し訳なさそうにしていた。
「いやなに、元々は孫の顔を見るために駿府に来ただけなので……お気になさらないでください。徳川様によろしく」
俺は笑顔を返したが、石川数正は薄い愛想笑いを浮かべるだけであった。
どうやら、徳川家は羽柴の傘下に入ってくれそうもない。
この後、徳川家は佐々家に味方するかのように、羽柴家傘下の真田家と戦いを始めるのが史実なのだが、どうやらそうなってしまいそうだ。俺は眉宇を険しくさせながら、浜松を離れる。
津島へと戻る船の上には、樹のもとを離れた五右衛門と次郎兵衛もいた。
「二人とも、ありがとう。樹を守ってくれて」
「大したことじゃねえさ。それよりも佐々内蔵助、あいつは織田信雄にも接触しているらしいぞ。……って言っても、アンタのことだ。とっくに承知しているだろうが」
「未来の知識でな。内蔵助は家康と会ったあと、織田、それに滝川久助とも会って援軍を要請する。両方ともに断られるが、な」
「佐々の殿様も、意地張ってねえで、羽柴様にくっつきゃいいのに。ただでさえ、西は前田家、東は上杉家に挟まれて大苦戦してるんっしょ? あっしみたいな下っ端だったら、負けそうなんだから早く降参してくれって思いやすよ」
「まあ、それも正直な意見だよな」
俺は薄く笑った。
すると伊与が、次郎兵衛に視線を送る。
「次郎兵衛。もし俊明が四方八方、敵に囲まれ、それでも戦うと決めたらお前はどうする? 降参しろと思うか?」
「え――いや、それがアニキの決めた道なら、あっしは最後まで付き合いやすよ。それで殺されたって構わねえ」
「それと同じ気持ちだろうさ。佐々内蔵助に従う者は。もはや損得勘定ではないのだろう」
「……あの内蔵助の家臣だからな」
俺は、佐々成政の咆哮を思い返していた。
――真に天下の安定を考えるのならば、欲の世界に歯止めをかけて、義理と忠誠の世にせねばならん。欲のためだけに動く世界は、いまこそ終わりにしなければならない。
――おれたちは信長公を超えなければならない。
「信長公を超える、か」
船上、潮風を浴びながら。
俺は空を見上げ、天に輝くまばゆい太陽を見つめた。
信長公を超えるなんて、あの太陽を超えるようなものだと思うが……
しかし……。
1585年(天正13年)、1月。
俺は家族、仲間たちと共に大坂で新年を迎えた。
その後、大坂に登城して秀吉に年賀のあいさつを行い、その後は自分の屋敷に戻って、年賀の客のあいさつを受ける立場となった。
大坂、京、堺、坂本、津島、加納、などなど。
各所から人々が集まり、俺に頭を下げ、年賀の祝いとしてさまざまな品々を次々と贈呈してくる。
ここ数年はいつもこんな感じだったが、それにしても今年は多い。
伊与など「いつまで続くのだ」とうんざりした顔を見せ、途中で屋敷の奥に戻ろうとしていたが、俺はそれを許さず、どこまでも年賀のあいさつを受け続けた。
気が付けば、夜になっていた。
「あかり。いますぐに湯漬けを頼む。二杯だ」
「私にも頼む。塩味の効いた漬物をつけてくれ」
「あたし、甘いのが欲しか……。砂糖の塊でいいけん、ちょうだい……」
俺、伊与、カンナの3人はぐったりと横になったものである。
はい、ただいま、とあかりが台所に向かってくれた。早く飯が食いたい。昼も食わずにあいさつばかりだったんだからな。
明日も明後日も、人が来るだろうなあ。
と思いながら目を開くと、五右衛門と次郎兵衛が突っ立っていた。
五右衛門はにやにやしている。
「お疲れさん。頭目ってのは大変だねえ。朝から晩まで人、人、また人、それ人、やれ人、どこまでも人」
「うるさい。だいたい五右衛門も少しくらい手伝ってくれてもよかったものを……」
「だってウチは泥棒だもん。影の世界に生きる者だもん。年賀のあいさつを受けるような立場じゃないからね。あー、残念無念」
「来年はお前が影武者を務めろ。私の影だ、いいな」
「伊与だけずるか! あたしなんか絶対影武者がおらんけん、どうしようもないとよ!?」
「そりゃあんたの、その金色髪が悪いんだよ。ヘラヘラ」
「ヘラヘラって口に出すことかいな!? 好かーん、もう……う?」
カンナが急に口ごもった。
なんだ?
「相変わらず気ままな集団じゃのう。……いよう、弥五郎。遊びに来たぞ。わしにも茶づけを頼む。腹が減ってたまらん!」
「藤吉郎!?」
なんと、秀吉が俺たちの前に現れたのだ。
後ろには小一郎もいる。これには俺たち、全員仰天して、とりあえずその場に座って――次郎兵衛など、ここにいるのは身分不相応とばかりにスッと消えてしまった。
「なんじゃ、次郎兵衛のやつ、冷たいのう。昔はわしともよう話した仲じゃのに」
「立場が変わりすぎたんだよ、お前は。……しかし小一郎まで来るとは……」
「たまにはお忍びで夜話もいいでしょう。昔のように」
「さすがの天下人さまも、年賀のあいさつでくたびれたと見えるね。……積もる話もありそうだし、ウチは失礼させてもらうよ。……あいさつして消えるあたりが、次郎兵衛より礼儀を知ってるだろ? じゃあね、藤吉郎さん」
スッと、五右衛門も消えた。
秀吉は「あいつはいつまでも変わらんのう。うらやましいことよ」と笑ったが、……やがてあかりがお茶漬けなど夜食一式を持ってきて、退出すると、部屋の中には俺、伊与、カンナ、秀吉、小一郎の5人だけとなった。
まず、飯を食いながら他愛ない会話をした。
本当に何気ない会話だった。
小一郎などは「近ごろ、奥歯が一本抜けました」なんでことを口にして、
「じじくさいことを」
「飯を食ってるときにそんな話を」
「神経の使いすぎたい」
「初耳じゃ。弟からそんな話は聞きとうなかった」
などと残りの4人から非難囂々で、さらにその後は都で女性に流行の柄がどうとか、漬物の塩味は強いほうがいいか弱いほうがいいかとか、本当にどうでもいい話をしていたわけだが。
それも四半刻(30分)ほどで終わった。
「去年のことじゃが、朝廷がわしに、将軍になるよう言ってきた」
秀吉が言った。
「征夷大将軍か」
「無論よ。昨年の10月じゃったな。しかしこれは断った」
「なぜだ」
この時期、秀吉が将軍職を拒否したことは、知識として知っていた。
だがその理由までは知らなかったので、俺は尋ねた。
「将軍はどこまでも、武士の頭領じゃろうが」
「まあ、そうだな」
「わしはな、それではいかんと思ったのだ。秀吉は、武士のみならず、公家、商人、職人、町人、百姓――ありとあらゆる者どもの頭領となりたい。そうでなければならん、と思う。……それは弥五郎、汝がいたからそう思うのよ」
「俺が?」
「そうよ。汝は商人を名乗っておるが、実際は武士でもあり職人でもあろうが。神砲衆もまさにそういう集団じゃ。武であり、商であり、工である。汝はその頭目じゃが、わしもそうありたい。そうならねばならぬ。そう、すなわち――
この日ノ本に生きるすべての人間の頭目でありたいのだ」
「それは……しかしその立場には、恐れ多くも主上がおられる」
「無論よ。だからわしは、その次、ということになろうが、その立場となりたい。それには征夷大将軍では不足なのよ」
「そもそも兄上はいまの将軍がお嫌いですから」
「足利義昭のことか」
「毛利と和議も済んだいま、やつも次をどうしたものか、困っておるだろうが」
秀吉はニヤニヤしている。
十五代将軍の足利義昭は、京の都を追われたあと、毛利輝元に保護されていたが、その毛利輝元は信長の死後、秀吉に対しては中立かわずかに敵対という態度をとっていた。だが、毛利家と羽柴家はこの1月に和睦が成立。友好的な関係となっている。
「もはや義昭などはどうでもよい。それよりも、わしよ。わしがどうなるか、よ。……いっそ将軍の代わりに、もっと良い、新しい官位でも作ってやろうかと思うがの。それ、日ノ
「はは……羽柴日ノ本守、は語呂があまり良くないな」
俺と秀吉は、久しぶりに軽口を叩き合って笑った。
すると秀吉の隣にいた小一郎が、微笑を浮かべながら、
「山田どのも、そろそろ」
「うん?」
「官位を求められては、いかがでしょう」
「俺が? 官位を?」
そんな似合わない、と笑い飛ばそうとしたが、小一郎はもちろん秀吉ですら、真面目な顔をしていて、
「弥五郎よ。汝の立場はもはや、わしの友であり羽柴家の商人司、というだけでは済まなくなってきておる。それは分かるじゃろう」
「羽柴家が天下の采配を執り行う立場となってきた以上、山田どのもいよいよ、その立場を明確にしていかねばなりません。羽柴家中における立ち位置はどこか、官位はどうなるのか、世間に対してはどのような立場で生きるのか。明確にする必要があるのです」
「む。……」
「まあ、今日明日にとは言わんが」
秀吉は、目の前にあった梅干しをポイと口中に放り込みながら、
「考えておいてくれ。又左にも、小六兄ィにも、それぞれ伝えてある。わしらはいよいよ天下の羽柴家じゃからのう」
「堅苦しゅうなってきたね。気ままな戦国商人の立場もいよいよおしまいかね?」
カンナが、あえて冗談っぽく、明るく言う。
そこまで気ままではなかった気がするが――言いたいことは分かる。
分かるけれども、俺はカンナに笑みを送って、
「いいんだ、カンナ。元々こうなることが、俺と藤吉郎の望みだったんだからな」
「……そうよな、弥五郎、よう言うた。まさしくその通りじゃ」
秀吉は、目を細めて、
「あと一歩じゃ。もう一踏ん張りで、あの日の、大樹村の誓いが現実のものとなる。わしは天下の大将軍、汝は天下の大商人。……あと、ほんの一息で……」
それから少し経って、1585年の3月。
秀吉は正二位内大臣に昇進した。
そして同じ時期――3月8日のこと。
秀吉は、京の都で大茶会を開催した。
京や堺の町人、商人を集めに集めて、二百数十人。
千宗易が茶頭を務めたこの茶会は大盛況であった。
もちろん俺も、伊与、カンナといっしょに参加。
顔なじみの商人たちとあいさつを交わし、茶を飲み、談笑し、また新たな商人の知人も増えて、商取引の約束を行う。
いわば事業者同士のパーティーのようなものだ。
未来風にいえば、名刺交換をしたり、酒を飲み交わしたりして、将来的な仕事に繋げていく。
また、このパーティーに参加しているのは、いわゆる上流階級が多いために、お互いに知り合いになっていて損はまったくない。俺は、次から次へと多くの商人、町人たちに笑顔を向け、あるいは笑顔を向けられ、知己を増やしていったものである。
――と、こんな催しが開催されている裏で、羽柴家は軍事作戦も展開させている。
3月21日、羽柴軍は、まだ従っていなかった紀伊国の根来衆、雑賀衆を屈服させるべく、陸海両方から侵攻。またたく間に攻略し、翌月の4月には首謀者たちを自害に追い込んだ。
さらに、小牧長久手の戦いのときに徳川方についた四国の大名、長宗我部元親を打倒するべく、軍を編成。四国攻めの作戦が進められ、そして6月には羽柴小一郎を大将とした軍勢が四国に上陸。長宗我部軍との戦いが始まった。
四国攻めの総大将が小一郎なのは、秀吉がそのとき、少し風邪気味でもあったからだ。
だがもうひとつ理由がある。秀吉はこのとき、将軍に代わる地位を求めるため、公家衆と親しく交わっていたのだ。
「将軍ではだめじゃ」
秀吉は常々そう言って、なにか名案はないかと考えていた。
日本という国全体の、民族的利益の代表者たらんと考えていた秀吉は、武士だけではなくすべての階級の頂点に立とうとしている。そのためには、どうするべきか。……
このとき、公家のひとりであり、右大臣の
「将軍がお嫌ならば、
「なに、関白?」
「そう、関白でございます。我が国における人臣として最高の職位……。主上を除けば、我が国の頂点と言っても過言ではない立場でございます」
「関白……。しかし、武士が関白になるなど、聞いたことがないが」
「あなた様は、武士ではなく、あらゆる階層の代表たらんとされておられる。ならば関白に任官されてもなにもおかしいことはございませぬ。……ええ、大丈夫。関白になる方法も、ございます――」
秀吉はもう一度「関白」とその単語を口に出して、まばたきを繰り返した。
――あと一歩じゃ。もう一踏ん張りで、あの日の、大樹村の誓いが現実のものとなる。
――あと、ほんの一息で……。
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