第21話 秀吉、関白になる

 大坂城の天守閣が、完成しようとしていた1585年(天正13年)5月のことである。丹羽長秀さんが、亡くなった。死因は胃がんである。


 昨年からすでに体調を崩し、自国の越前にて療養していた丹羽さんだったが、ついに寿命を迎えた。享年51。


 知らせを聞いた秀吉は驚き、丹羽さんの葬儀に家臣を名代として向かわせた。そして俺も、本来ならば葬儀に参加するべきなのだが、多忙がそれを許さなかった。代わりに伊与が向かってくれた。


「丹羽さん……」


 深い交流があったわけではないが、要所、要所で語り合い、共に働き、また戦った日々を思い出す。


 信長公とも親しかったあなたは、どんな気持ちで秀吉の台頭を見ていたのだ?

 温厚な人柄なので、露骨に態度に出したりはしなかったが、内心では――


「止せ、考えるな」


 俺は自分で自分に言い聞かせた。

 丹羽さんや、あるいは柴田さん、それにもはやこの世にいない佐久間信盛さんのことなどを考えていくのは、もっと老いてからにしようと思った。


 いまの俺は秀吉の天下取りのために働く、山田弥五郎だ。




 俺と秀吉が揃って多忙な理由。

 それは四国攻めがあるからだが、さらにもうひとつ。

 秀吉が、関白になろうとしているからである。


 俺は秀吉からその件について相談を受けたとき、


「是非、就任するべきだ」


 と、断言した。

 関白になることで、天下統一も容易になるはずだと俺は思った。

 そもそも、秀吉が関白になるのは史実でもあるからな。


 関白かんぱく――

 それは天皇を補佐する官職である。

 かつて天皇の外戚となった藤原氏がこの地位を独占して、日本の政治を意のままに動かした。


 その後は、藤原氏の子孫である五摂家(近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家の5つの家のこと)が関白の地位を独占し、世襲で受け継いでいったわけだが、世が乱れ、戦国乱世となったいまでは、関白の地位はもはや肩書きだけの存在となっていた。


 関白。

 すごい。

 だが、なにかをするわけではない。


 というほどにまで、現実の世の中には影響を与えなくなっている。

 しかし、現実社会で圧倒的な実力を持つ羽柴秀吉が関白になるとすれば。

 肩書きと実力。秀吉は両方を手に入れることになる。


 こうなるともはや秀吉は名実ともに日本の天下人。誰も手向かいできない存在となるだろう。佐々成政も徳川家康も、秀吉に従うしかなくなるわけだ。


 秀吉が関白になれば、まさに天下一の人物。

 あの大樹村の誓いが果たせたも同然となる。


 俺は秀吉が関白となるためならば、なんでもするつもりだ。




「現在の関白は、二条昭実にじょうあきざねという人物だ」


 自宅にて。


 俺は伊与とカンナに向けて、語った。


「その次が、近衛信輔このえのぶすけという人物になる予定だった。だが、それがいま争いになっている」


「なぜだ?」


「元はといえば、藤吉郎が原因なんだがな」


 朝廷は秀吉を右大臣にしようとしていた。

 だが秀吉は、これを拒否した。


「信長公がかつて右大臣だったからだ。右大臣になったら信長公のように亡くなってしまうのでは、と藤吉郎は恐れた。そこで藤吉郎は左大臣になろうとした」


「ふむふむ、それでどうなったん?」


「そうなると、いまの左大臣である近衛信輔このえのぶすけは追い出されてしまう。だから近衛信輔このえのぶすけは、さっさと関白にしてくれと言いだした。どうせ次の関白はオレなんだからいいだろう、というわけだ。


 そうなると、いまの関白である二条昭実にじょうあきざねは追い出されてしまう。それは二条昭実にじょうあきざねとしても面白くない。


 やめろ、やめん、やめろ、やめん。

 これが繰り返されて、喧嘩に発展してしまった。


 これぞ、のちに関白相論かんぱくそうろんと呼ばれる出来事であった」


「相変わらずアンタ、見てきたみたいに語るよねえ」


「――さあ、そうして揉めている関白の座。ここに、現在の右大臣である菊亭晴季きくていはるすえが藤吉郎に対して話を持ちかけた。あなたがいっそ関白になってしまえばいい、と。藤吉郎も俺と相談したうえ、乗り気となった。……というわけだ」


「しかし……関白様になるなど、そう簡単にできるのか? 藤吉郎さんは言わずもがな、尾張の百姓の出身だぞ」


「そこで藤吉郎は、近衛家の猶子ゆうしとなるわけだ」


 猶子とは、相続権のない養子のことだ。

 伊与もカンナも、さすがに驚き、


「近衛家なんて名家中の名家なんに、猶子になんてなれるん?」


「そこは金と実力だ。……乱世だよ」


 と、話しているところへ五右衛門がやってきた。


「藤吉郎さんからの使いだ。いますぐ登城してくれ、だとよ」


「ほら来たぞ。……猶子にするために、俺に金や人を貸せって話だぜ、きっと」


「俊明。よくそこまで分かるな」


「俺なら、そうするからな。……カンナ、屋敷内から金銀をかき集めておいてくれ。五右衛門と次郎兵衛も、いつでも旅立ちができるように準備を。……じゃあ、行ってくる」


 そう言いながら俺は大坂城に登城した。




「結局のところ、銭よ、弥五郎」


 大坂城で、秀吉は何度か咳き込みながらそう言った。

 四国攻めの仕事を小一郎と黒田官兵衛に任せて、自身が大坂に残ったのは朝廷工作のためだが、体調が悪いのも確かなようだった。数日前に会ったときより明らかに顔色が悪い。


「百姓が近衛家の猶子になろうとするのじゃ。公家衆や都の者どもがずいぶん騒いでおる」


「そこで銭をばらまけ、ということだな」


「その通りじゃ。だからと言って露骨では困るぞ」


「分かっている。役目を回せばいいわけだ」


 乞食ではあるまいし、上から目線で銭をくれてやると言って喜ぶ人間は、そう多くはない。

 まして名門だらけの公家衆や、誇り高い都の町衆が相手だ。


 そこで、だ。

 銀山開発の仕事、地方から運んでくる商品の荷分けの役割、都言葉や礼儀作法の伝授……などなど。

 いま羽柴家や神砲衆がやってほしい仕事を、都の公家衆や町衆に委ねればいいのだ。

 未来風に言うならば、公共事業を任せる、とでも言うか……。


 とうに繋がりはできている。

 先日、秀吉が開催した事業者パーティーのときに、俺は都の人間ともさらに知り合いになった。


 ――せっかくのご縁ゆえ、ひとつ仕事を依頼したい……。


 などと言って、都の衆を羽柴経済網にどんどん組み入れていくわけだ。

 露骨ではなく、あくまでもやんわりと。


 都の人間ならば、もうそれだけで(ああ、近衛家猶子の一件に反対するなということだな)と察してくれる。……京の都の衆は、この遠回し型を妙に好む。


「さすが弥五郎じゃ。この役目は汝にしか任せられん。頼んだぞ」


「任された。その代わりに、身体を早く治せよ」


「承知しておるわ。いよいよ、双六のあがりも近いのう」


 あがり、か。

 まったくその通りだ。

 あと一歩で、俺の親友、羽柴秀吉が――藤吉郎が、天下の関白になるのである。




 6月、小一郎――羽柴秀長を総大将とする羽柴軍10万が四国攻めを進めているころ、俺は都の衆を相手にさまざまな工作に取り組んだ。


 そもそもからして、近衛家自体が秀吉をあまり好んでいない。

 秀吉のような成り上がりを家に入れるなどまっぴら御免だ、と思われていた。


 秀吉のほうも、近衛家をあまり好いてはいなかった。

 それはかつて明智光秀の乱が起きたとき、近衛家は光秀の味方をしていた、という噂が広がっていたからだ。


 しかし俺は、秀吉を関白にするには近衛家を動かすしかない、と知識の上で知っていた。だから秀吉に「近衛家と仲良くしろ。むしろ利用するつもりでいけ」と伝えたし、近衛家のほうにも、これに仕える下男下女にさえ接待を繰り返した。


 そしてときには説得し、ときには銭を見せつけ、ときには仕事を委ね、着実に近衛家を秀吉色に染めていった。

 菊亭晴季も公家衆を、朝廷を、説き伏せた。


 ――もはや天下は秀吉の意のままであり、これに逆らうことは朝廷と言えども不可能である。


 6月下旬には、もはや公家衆の大半を占めていた。




「なるはず、なんだよな……」


 京の都。

 鴨川沿いに建っている寺の中で、あぐらをかいたまま、俺は独りごちた。


 誰もいない。

 ただ、俺だけが部屋の中央にいる。

 喉がカラカラだった。秀吉が近衛家の猶子となり、関白になることが、まだ認められていない。


 本来の史実を考えれば、絶対に秀吉は関白になるのだが……。

 どうも、遅い。……俺の動きが足りなかったんだろうか?


 転生してからこっち、この世界はときとして俺が知る歴史とは異なる動きを見せる。

 そのたびに俺は、史実通りになるように、あるいは天下のために、秀吉のために、自分自身のために動いてきたわけだ。桶狭間のときも、明智光秀の反乱のときも、ずっと、ずっと、何度でも。


「まさかここに来て、また妙なことになるんじゃ――」


 俺は震えた。

 汗をかいた。


 なんのために、ここまで震えている。

 しなくても、よかったものを――と、ふと考える。


 伊与とカンナと、樹と牛神丸の子供ふたり。それに仲間たち。膨大な財産、金銀財宝。俺は実に多くのものを手に入れた。途中でやめてもよかったのだ。信長公の時代であれ、秀吉の時代であれ。……どこかでこんな役目を放り出して、あとは悠々自適、銭を持ち、愛する家族と暮らしていればよかった。


 いつか剣次叔父さんの残留思念も、言っていたじゃないか。


 ――お前はそうはならないでくれ。剣次から受け継いだ能力で、今度こそ幸せを手に入れてくれ。


 幸せはもう、俺の手の中だ。

 だから、もうここから先は、なにもしなくていいんだ。

 いいはずだったんだ。


 だが、俺は動く。

 働く。いつまでも、どこまでも。


「なぜか……」


 なぜなら、それが、藤吉郎との誓いだから。

 そして、友情だからだ。……俺はもう、史実がどうとか以上に、秀吉の願いを叶えてやりたくなっているんだ。


 あいつが、好きなんだ。

 共に戦い抜いてきた日々が、血となり汗となって、俺の魂にまで染みこんでいるんだ。


 だから――

 あいつに、天下人になってほしいんだ。

 この世界で一番素晴らしい男だと、天下に認めて欲しいんだ。


「秀吉……」


 つぶやいた瞬間だった。


「俊明!」「弥五郎!」


 伊与とカンナがやってきた。

 あかり、次郎兵衛、五右衛門もいる。


「知らせが来たばい。藤吉郎さんが近衛家の猶子となって、従一位関白となることが決まった、って!!」


 カンナの雄叫びが、寺中に轟いた。

 俺は、そのまま茫然自失として彼女の青い瞳を見つめた。


 関白。

 秀吉が、ついに、関白。

 なったのか。……本当に。……あいつが。


 ――わしの名前は藤吉郎。尾張那古野の織田家に仕える小者での、薪炭奉行(しんたんぶぎょう)の下で働いておる。なにはともあれ、よろしくの!。


 前触れもなく、走馬灯のように過去の記憶が蘇った。

 34年も前の情景が、ありありと浮かんでくる。俺は顔を伏せた。涙が、一粒、二粒とこぼれた。友が願いを叶えた。天下がいよいよ定まる。泰平の時代の第一歩だった。俺の志もいま、叶った。この瞬間のために俺は、何年も、何十年も、ずっと、ずっと……。


「新しい日本が来た」


 俺は断言した。

 史学的にいえば、中世が終わり、近世がやってきた。


 しかし俺の考えていることはそういう次元の話ではなく、平安以来、五摂家のみが持ち回りで受け持っていた関白の座を、ついに百姓のせがれが手に入れたことが感動だったのだ。焼け野原の中で夢見た未来が、ついに俺たちの前に現れた。


「俊明」


「……うん」


「やったな」


「…………ああ」


 伊与がそっと、伏している俺の右手を握ってくれた。

 温かい手の甲に、細かなキズがいくつもついている。


 大樹村の百姓の娘で、けれども白く細い、汚れのない指先だった彼女が、血に汚れ、傷を負い、ここまで一緒に戦い抜いてくれたのだ。


「弥五郎。……アンタ、泣いとる場合じゃないとよ!」


 言いながら、カンナ自身もその双眸を潤わせていた。ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、それでもにっこりと明るい笑顔で――本来、繊細で臆病だったカンナが見せてくれる笑顔と博多弁が、これまでどれだけ俺の精神を支えてくれていたことか――その笑顔で、カンナは叫んだものである。


「大坂に行かな。藤吉郎さんと会うんよ。あの人が関白になろうちゅうときに、あんたが隣におらんでどげんするとね!」


「そうですよ、山田さま。参りましょう。馬は用意しています!」


「そうだ、そうだな。その通りだ。……行こう!」


「よっしゃ、ウチらは走ってついていくからな!」


「アニキ、ご出陣。……ご出陣っ!」


 仲間たちの声を背に受けながら、俺は寺を飛び出して、大坂に向けて一路、馬を飛ばしに飛ばした。




 ――藤原朝臣秀吉ふじわらのあそんひでよしを、従一位関白に任ずる。


 1585年(天正13年)7月11日のことだった。

 羽柴秀吉は、藤原氏近衛家の猶子となり、藤原氏の一員となることで、関白に任じられた。


 これにより秀吉は公武、名実共に日本の天下人になった。

 そう言っても過言ではない。帝に次ぐ、人臣として最高の地位を手に入れた秀吉は、朝廷の場において平伏し、口上を述べた。


 ――秀吉、謹んでお受けいたします。以降、関白として今上をお支えし、国のために身を砕く所存でございます。


 誰が想像しただろう。

 数十年前、尾張の荒野を駆け抜けていた、父の名も知れぬ若者の未来が、関白とは。


 秀吉が都にいるころ、俺は大坂城でただ待ち続けたが、その間、ただ感無量だった。

 やがて2日後、秀吉が大坂に帰ってきた。秀吉は言った。


「天守が完成した。見に来い」


「無論」


 大坂城の天守閣が、ついに完成したのだ。

 俺と秀吉は、天守に上り、無限に広がる大空と、眼下に広がる浪速の町並みと、果てなき山々を、ただ眺め続けた。


「弥五郎と二人になりたい。下がれ」


 秀吉は近侍や小姓たちを下がらせた。

 俺たちは、天守で二人きりになった。


「ついにやったな」


「ここまで来たわ」


「天下統一も、もはや目前だ」


「まこと、ここまで来られるとは、わし自身も夢のようだと思うておる」


 風が吹き抜けていく。

 7月の夏風が、この大坂の天守では実に心地よい。


「風ひとつさえ、違うものじゃな、弥五郎。夏の風など生涯で幾度となく浴びてきたものだが、今日という日の風は違う。不思議なことだが、風さえいまは愛おしいわ」


「現世が自分を認めてくれた、という実感が湧いているからじゃないのか。この国の頂点に立つことで、日ノ本がもはや、すべて自分を愛してくれたという気持ちになったんだ。だから自分も、風さえ愛しくなったんだろう」


「汝ァ、相変わらず理屈っぽいわ」


 秀吉は、大笑いした。


「すまんな、性分だ」


「ええことよ。その理屈を積み重ねて、やってきたんじゃからのう。わしら二人」


 西の空から、暮色が立ちこめ始めた。

 まばゆいほどの日輪が、俺と秀吉を赤く染める。


「この大坂城は、大樹じゃ。あのときふたりで見上げた大樹を、この地に築き上げたつもりじゃ」


「木の下にいた藤吉郎が、ついに木のてっぺんにたどり着いたわけだ」


「汝とふたりで、な」


「天下の大将軍」


「天下の大商人」


「見事だな」


「まったく」


 短いが、永遠とも思えるような時間である。

 燃えるような西日を見つめながら、俺たちはいつまでも、今日という日の喜びを噛みしめていた。太陽の向こうに、よく見えぬ幻がゆらめいている気がした。眼を細めると、それは確かに金銀色の虹であった。


 もう涙はこぼれなかった。

 ただ、友と夕陽を眺めているこの瞬間を、ずっと、ずっと噛みしめていた。






 はるか彼方で、ごく小さく、雷鳴が轟いた気がした。






 遠雷――








 

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