第19話 佐々成政のさらさら越え

 俺は、伊与と松下さんと、合計3人で浜松城を訪れた。

 徳川家の足軽が、じろりと俺の顔を睨んできた――ような気がした。

 そんな俺たちの前に、能面面の老侍がひとり、近侍を2名従えて、登場する。


「山田どの。堤どの。よくいらっしゃった」


「石川さん。お世話になります」


 石川与七郎数正。

 徳川家の宿老にして、外交を担当している人物でもある。

 俺たちとは、はるか30年前、家康の人質時代に駿府で会ったとき以来の仲でもある。


「顔は何度も合わせているが、ゆっくり話すのはいつ以来になるやら」


「ぜひもっと、ゆっくり話したいものです。徳川さまも交えて……」


「拙者としても、そうあってほしいが」


 石川さんは息をひとつ吐きながら、俺たちを案内してくれる。


「徳川さまは……羽柴家に対してお怒りなのですか?」


 伊与がおずおずと尋ねた。

 石川さんは「うむ」とうめくと、


「まあ、会ってみれば分かる」


 とだけ言った。




 浜松城、その評定の間に顔を出すと、家康が確かに上座に座っている。その両脇には徳川家臣――酒井忠次と本多忠勝が控えていた。家康はもちろん、酒井とも本多とも、俺とは顔見知りではあるが……。


「山田弥五郎どの。よう、おいでになった。最後に会ったのは確か、安土城だったかな」


「はい。信長公が徳川様を接待されたときに、ご挨拶をいたしました」


「あのときは、山田どのは途中でどこかに行ってしまった」


 家康はニヤニヤと笑いながら言った。

 よく覚えている。あのとき、俺は確かに、それほど俺が出る幕はないと思い裏に引っ込んで、松下さんと喋り込んでいた。


「申し訳ありませぬ。あのときは食後の甘味を手配するために下がりました」


「ふむ、そうだったか。あのとき、安土で戴いたかすてーらは確かに美味かった。それでも、一度、山田どのとはしっかり話がしたかったがな。……なにしろ古くからの付き合いではないか、オレたちは」


 かつて駿河で出くわした、まだ短気な少年だった松平元信をほうふつとさせる家康の笑みである。


 会心の笑顔と言っていい。俺は思わず、男惚れしそうになった。家康ともっと話したい、と思ってしまう。秀吉の人たらしぶりとは、また異なる次元の笑顔だ。苦労と経験を経たうえで、努力によって得ることができた人たらしという実感を持った。


 しかし俺は、ただ惚れているだけではなんともならぬと思い、


「その分、今日、話をいたしましょう。……俺も徳川さまとは一度、よくよく腹を割って話し合いたいと思っておりました」


「いくら山田どのとはいえ、一介の商人が我が殿と腹を割り合おうとは、いささか出過ぎではござらぬかな!」


 酒井忠次が大きな声を張り上げた。

 すると本多忠勝も、うむとうなずいて、


「左様、その通り。羽柴大納言本人ならばいざ知らず、山田弥五郎どのと我が殿が対等と思われては至極迷惑」


「待て、おぬしたち――」


 石川数正さんが、割って入ってきた。


「山田どのがせっかくこうしていらっしゃったのに、そう喧嘩を売るような態度をせずともよかろう」


「喧嘩? ――与七郎よ、なにを言うか。喧嘩どころか、つい先日まで干戈を交えた徳川家と羽柴家ではないか。その羽柴家に仕えている商人司が、我が殿に向かって長年の友達のように腹を割ろうなどと言う。これが無礼と言わずになんと言うか。喧嘩を売っているのは山田弥五郎どののほうぞ」


 酒井忠次が、目を剥いて俺を睨んでくる。

 すると家康が「左衛門尉」と酒井忠次に目を向け、


「いきり立つな。長年の友達とはまさにその通り。山田どのとオレはガキのころからの付き合いだ。大名と商人ではなく友達同士で話し合おうとなって、なにがおかしい。なあ、弥五郎どの――」


「は。……まったく」


 俺は、その場で一度、平伏したあと、顔をわずかに上げて、


「徳川さまは、まことに慈悲と友情に厚いお方。この弥五郎、感謝しております。いえ徳川さまだけではなく、酒井どの、本多どの、そして石川どのの忠義にも、深く感激している次第でございます。まったく、本当に腹を割って話せそうでございます」


 俺は一直線に家康の顔を見た。

 すると家康は、嬉しそうに、ニタリと笑った。


「なるほど、さすがは弥五郎どのよ」


 この瞬間、評定の間には一気に暖かな空気が広がった――


 酒井忠次と本多忠勝が俺に喧嘩を売るようなことを言ったのは、芝居なのだ。

 酒井と本多が怒る。そこで家康と石川がなだめる。俺はそれで、酒井と本多にビビりつつも、家康と石川に感謝し、心酔する――という流れを、向こうは作ろうとしたのだ。


 だが、俺はそれを受け流した。

 酒井や本多の忠義にも感激した、と言うことで、そんな芝居はやめましょうよ、と暗に言ったのだ。


 すなわち徳川家は、俺を調略し、羽柴家から俺を引き剥がそうとしていた。

 俺はそれを跳ね返したわけだが、――家康がそんな態度を取るということは、家康はまだ、羽柴家と戦いたがっていることを意味する。山田弥五郎と神砲衆を徳川家に組み入れようとしていたのだから。


「徳川さま。もはや、はっきりと申し上げます。これ以上の戦は無益でございます」


 俺は、本当に腹を割って本音を告げた。


「織田三介さまが羽柴家と和議をいたしました。ここに徳川家も加われば、鬼に金棒。羽柴、織田、徳川の三家で天下を統一し、大名から民百姓に至るまで末永く繁栄する世を作り上げることができるでしょう」


「羽柴が余計だ」


 家康ははっきりと言った。


「織田と徳川で、ここまで築き上げてきた天下であった。そこをあの、明智の馬鹿がひっくり返した。そこを羽柴が仇を討って――そこまでは良い。そこまでは見事だった。だがあの羽柴が気付けば天下人のツラをしている。納得できるか。……弥五郎どのなら納得できるか? うん?」


「しかしその後の織田家の体たらくは、徳川どのもご存知の通りでございます。もしも羽柴藤吉郎が世に出なければ、天下は再び大きく乱れ、信長公登場以前の乱世となること必定でございました。……天下は織田家のみの天下にあらず。万民恒久の泰平と繁栄のために、羽柴藤吉郎の力がいま、必要なのでございます。それにご協力ください」


「そんなことが容易くできるか! 弥五郎どのよ、そなたは得意の銭話をするであろう。羽柴の傘下に入れば、堺や京や津島、あるいは唐天竺とも繋がりを持って銭儲けができる、と――しかしなあ、人間の心がそう銭だけで動くと思うな。誇りというものがある!」


「誇り、とは――」


「我らは織田信長公と共に血路を切り開いてきた。信長公が天下を取れば、我ら徳川家はその第一の譜代として天下に名を轟かしたであろう。徳川家では誰もがそう思っていた。民、百姓でさえも。


 それが信長公の家来で、もとは百姓だった羽柴藤吉郎の傘下になれとはどういうことか。いくら銭をやると言われても、はいそうですかと納得できるものではない。……小牧の戦は終わった。織田徳川と羽柴は確かに和議をした。しかしそれはあくまで一時のこと。オレたちの心はまだ、羽柴に下ったわけでは――」


「ようおっしゃった、徳川様」


 そのとき、突然の声が室内に響き渡った。

 俺も家康も、いやその部屋中にいた誰もが振り向いた。

 そこにいたのは、


「誰だ、おぬしは!」


「なんだ、おぬしは!」


 酒井と本多が同時に噛みつく。

 男はそこに立っていた。ひげもじゃで、ざんばら髪で、しかもムクムクと膨らんだ奇妙な衣服を着ている壮年。その脇には、困り顔の若侍がひとり――確か、徳川家臣、井伊直政だ。


 井伊は、家康と、謎の男をチラチラと交互に見る。

 家康はさすがに戸惑った顔で、


「万千代(井伊直政)。誰だ、この者は。なぜここに通した」


「はっ、申し訳ございませぬ。ただ、殿様も拙者も、山田どのも知っている方で――火急の用件ということでしたので、つい」


「知っている?」


「俺たちが?」


 家康と俺はとぼけたように目を見合わせていたが、やがてムクムク服の男は服を脱ぎ捨てて、その場に座り込むと、吼えた。


「お忘れか。佐々内蔵助、成政!」


「内蔵助!?」


 俺が一番仰天していた。

 よく見ると、確かに佐々成政なのである。

 異様に痩せ細り、しかもひげもじゃで、その上、着ている服が妙なので気が付かなかった。伊与も、徳川家の面々も唖然としている。


 いや、ここに来ることは知っていた。

 知ってはいたが、まさかこんな登場をするとは。


「内蔵助、なんだ、その服は……」


「昔、お前が作り方を教えてくれた服だぞ。アノラックという。寒さを凌ぐのに良い、と」


「アノラック!」


 た、確かに教えた。

 イノシシの毛皮から作ることができる防寒着だ。


「おかげで越中から浜松まで、やってくることができた」


「越中から……」


「この浜松まで……? まさか、山を越えて……?」


 酒井と本多が顔を見合わせた。

 とんでもないことである。驚くのも無理はない。

 日本本州の、北の端から南の端までを縦断したのだから。


 家康は驚いていたが、やがて平静を取り戻し、


「……なるほど。越中からわざわざお越しか。……アノラック、か。弥五郎どのが考えた服を使ったのか。とんでもないことだが、それならば納得もできる。察するに、足袋やわらじも弥五郎どのが考えたわらじを履かれたのかな?」


「いや、それはただの足袋とわらじだ。足腰は素の内蔵助で参った」


「…………」


「おかげで、少々くたびれたが」


「……さ、左様か。……すげえな」


 家康は今度こそ、目を見開いて――いや、誰もが改めて仰天しているわけだ。

 これぞ日本史上に名高い『さらさら越え』である。


 佐々成政は厳寒の山脈を踏破して、徳川家の前に現れた。

 この驚愕的な山岳行為は、はるか後年まで歴史として伝わることになるのだが――改めて目の当たりにすると、本当にとんでもないな。内蔵助は。


「……ところで、おれがここにやってきた理由を話してもよいか。……ここに山田と堤がいるとは思わなかったが、先ほどの話を少しばかり聞かせてもらった。山田たちがいる理由は想像がつく。徳川家を羽柴の傘下に組み入れようという考えだろうが」


「はっきり言えば、その通りだ」


 俺は首肯した。


「俺は徳川様に、そして内蔵助、お前にも羽柴との戦いをやめてほしい。そのほうが万民のためであり、天下繁栄のためでもある」


「どこがだ。山田、貴様、いよいよ銭の大海に溺れて呆けたか」


「佐々さま。いくらなんでも、いまのお言葉は!」


 伊与が食いつこうとしたが、俺は手で制止した。

 佐々成政の話をまず聞こう、と思った。徳川家の面々も同じ気持ちのようだ。


「おれは難しい話をしにきたのではない。そもそもおれは羽柴と違って、舌はよく動かぬ。だから思うところを言わせてもらうが」


 と、秀吉の弁舌癖を皮肉った上で、佐々成政は言った。


「思い返せば、信長公は銭の力を持って天下布武を半ば成し遂げた。道を整え、楽市楽座を広め、南蛮人も深く付き合い、力をつけた。羽柴筑前は、その意思を恐らくもっとも正しく継ぐ者だろう」


 おや、と誰もが思ったようだった。

 俺もそう思った。


 佐々成政が秀吉を認めた?

 だが、佐々成政の話には続きがあった。


「だからこそ、駄目だとおれは思うのだ」


「……どういうことだ、佐々どの」


「次の天下は、信長公を超えたものにしなければならぬ、ということだ」


 家康の問いかけに、佐々成政は答えた。


「そもそも応仁以来、天下はなぜ乱れたか。それはおかみから下々しもじもに至るまで、天下の衆生が皆、目先の欲に囚われたからである。金を求め土地を求め、戦働き、銭儲け、それだけを続けてきたからである。下剋上がどこまでも続いたからである。


 すなわち欲のせいで乱世が続いた。……ならば、真に天下の安定を考えるのならば、欲の世界に歯止めをかけて、義理と忠誠の世にせねばならん。欲のためだけに動く世界は、いまこそ終わりにしなければならない。


 おれたちは信長公を超えなければならない。銭儲けのすべてを否定はせぬが、銭だけのために人間が生きる世にあってはならない。人間のために銭があるべきであり、銭のために人間が生きるようではならない。それでは永遠に天下布武は、天下の泰平はやってこないのだ。


 …………。


 ……思えばはるか昔から、おれは確かに羽柴が、いや木下がどうしても好きになれなかった。なぜか。近ごろ、ようやっと気が付いた。やつからは義理と忠誠を感じないからだ。


 信長公は銭儲けが得意であったが、決してそれだけではない、忠誠と義理を、情けを知る侍でもあった。信長公は足利将軍家を完全には見捨てられなかった。最後まで足利と和解できぬかと考えておられた。信長公は弱者に対してお優しかった。おれのような佐々家の冷や飯食らいを取り立ててくださった。


 だが羽柴はそれが見られない、極めてその感情が薄いのだ。だからおれは、やつの生き様を認められんのだ。


 だからこそ――

 羽柴、山田、両名の考える天下を是とはできぬ。

 金儲けだけの天下、欲呆けだけの天下を肯定できぬのだ。


 なればこそ、徳川さま。

 あなた様に立ち上がっていただきたい。おれと共に羽柴を打倒し、義理と忠誠の世にしてほしい。あなたなればこそできる。信長公が持っておられた、忠誠と義理の心をより強くした、新しい世にしてほしいのだ。


 ――徳川家康ならば、織田信長を超えられる!


 それを見込んでお頼み申し上げる。信長公さえ超えた世を作り上げるために、羽柴の打倒を!」


「佐々どの!」


 井伊直政が、身を乗り出した佐々成政の肩をぐっとつかみ、後ろに下げようとした。


「出過ぎでございますぞ!」


「ここで出なければ、いつ出るのだ。下がっていろ、小僧。いまはこの佐々内蔵助が、徳川さまにお話を――おほっ、ごほ、ごほっ……!」


「内蔵助!」


 俺は佐々成政に駆け寄った。

 顔色があまり良くない。やはり無理をしていたのだろう。


「万千代、部屋をひとつ用意せい。佐々どのを案内せよ」


「はっ。……佐々どの、こちらへ」


「徳川さま。……山田……」


 佐々成政は、うつろな眼差しのまま、


「どうか、お頼み申し上げる。天下布武は、銭のためだけに非ず!」


「佐々どの、さあ!」


 佐々成政は、井伊直政に抱かれるようにして、別室に連れていかれた。

 その場に残った俺たちは、――しばし、無言。

 そのまま、数十秒……。


「寝言ですね」


 石川数正が、冷静な声で言った。


わらべでも言えるような理屈でした。義理と忠誠で、どうして飯が食えましょう。どうやって父祖伝来の土地を守り、天下を泰平にできましょうか。……あんなことを口にするために、わざわざ越中からやってきたのか……」


「まことにそう思うか、与七郎」


 家康が、真顔で言った。


「義理と忠誠はそこまで、笑うべきことだろうか。……確かにいまや、誰もが義理や忠誠の心をなくし、下剋上溢れる天下となった。そんな世のためにオレは……この家康は、三度みたびも身内を失った」


「三度? でございますか?」


 石川数正はピンと来ていないようだったが、家康はうなずいた。


「一度目は我が祖父、松平清康。オレ自身も会ったことさえない祖父だが、これは家臣に斬られて死んだ。


 二度目は我が父、松平広忠。これもオレはほとんど記憶にない父だが、これも家臣にやられて亡くなった。


 三度目は――我が兄、織田信長。これも、家臣だった明智光秀にやられた……。


 義理が、忠誠が、人間の世の背骨としてもっと深々と広まっていれば、こうはなるまい。こうも裏切り寝返り続きで、身内が亡くなり続ける世には。……弥五郎どのよ。そなたがよく話す羽柴と山田の銭の世は、豊かな天下は、まことに裏切りと寝返りのない世であろうか。


 どれほど豊かになっても、身内や家臣の裏切り寝返りが続くような世ならば、オレは、……オレは御免被りたい。


 天下は……

 義理と忠節によって成り立つ天下としたい。


 いまオレは痛切にそう思っている。


 ……そのためならば……

 オレは羽柴といま一度、激突しても構いはせぬ……!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る