第16話 羽柴秀吉包囲網
樹は桶狭間の戦いの翌年に生まれた子なので、満年齢だと23歳になる。
21世紀の感覚だと、早い懐妊のように思えるが、この時代の初産としては遅い――
孫ができた衝撃。
やがておとずれた喜び。
「俺が祖父になる。伊与が祖母になる……!」
俺はただちに尾張にいる伊与に文を送り、娘の妊娠を知らせると共に、屋敷の奥に一度こもって歓喜を爆発させた。――孫が! 俺の血を受け継いだ孫が生まれる! 子供のときより驚き、かつ嬉しいかもしれない。なんという幸福の繰り返し! 孫。ぞくぞくする。俺の子孫が、この戦国時代に確かに続いていく……!
「泰平だ。そして発展だ」
俺は独りごちながら決意を新たにしていた。
死に物狂いだ。なにがなんでも、娘のため、孫のために。
この日本に、平和と繁栄をもたらさなければならない。これは決定的な決心だ。
大樹村の誓いという夢を、さらにもうひとつ超えて。
人の親として祖父として先祖として、子孫のために何百年もの平穏を作り出さねばならない。
「……やるぞ」
俺は決意も新たに。
圧倒的な理想をもって、必ずみんなで笑い合える未来を築こうと思った。
大坂で決意していた俺とは裏腹に。
尾張で激闘を続けている秀吉軍は、あまり良い状態ではなかった。
秀吉は、
「織田信雄と徳川家康をおびき出す。そして一気に倒して決着をつけるわ」
と豪語し、信雄方の尾張国竹ヶ鼻城を包囲。
そして近くの川をせき止めて、大量の水を城に流し込むことで、得意の水攻めに持ち込んだ。
竹ヶ鼻城は陥落した。
城攻めの名手、秀吉による電光石火の攻撃だったが、肝心の家康や信雄が出てこない。
「こんな小城ひとつを落としても、仕方がないわい。それにしても家康は、織田信雄どのは攻めてこないのか。この羽柴秀吉がよほど怖いとみえる」
秀吉はわざと、周囲に聞こえるように言いふらした。
挑発をしかけて、家康たちを呼び出そうとしているのだ。
そんな挑発に引っかかる家康ではない。家康は秀吉の言葉を黙殺した。
「ええい。――なんたることよ!」
秀吉は焦った。
このころ、家康と提携している戦国大名、長宗我部元親がしきりに秀吉領に進出している
。
讃岐国の十河存保は、秀吉方であり、現在、十河城に籠城している。
そこを長宗我部軍に攻められ、大苦戦を強いられていた。
十河城が落ちれば、秀吉の主城たる大坂城はもはや目の前である。
十河存保は、重臣の東村政定を秀吉に遣わして、援軍を求めた。秀吉は了承した。
「大坂の弥五郎に使者を出せ。ただちに十河に兵糧500石を送れと伝えよ。また援軍は備前の宇喜多と、仙石秀久を遣わす。播磨にいる小西行長にも、船の手配をしろと伝えよ」
「宇喜多を出してよろしいのですか。安芸の毛利が、どう動くか知れませぬが」
蜂須賀小六が忠言する。
秀吉は、いらだったように頭をかきむしった。
安芸国の戦国大名、毛利輝元は、征夷大将軍たる足利義昭をまだ擁しているうえ、前年の柴田勝家さんと秀吉との戦いでも旗幟を鮮明にせず、中立的立場を保っている。だが完全な味方でもない。秀吉からすると、毛利もいつ敵になるか分からない、いやな存在だった。
「宇喜多の半分は毛利に警戒させよ。もう半分を讃岐に送る。……ええい、誰も彼もわしの敵になりおって」
秀吉はこのときほど『昔の信長公の気持ちが分かった』ことはなく、のちのち俺に向かって激しく愚痴ったものだ。
「大殿。まずは目の前のいくさをなんとか致しましょう。ここはひとつ、織田と徳川の連携を断ち切ってはいかがでござろう」
黒田官兵衛が進言した。
「いま、尾張の清洲に徳川家康が、伊勢の長島に織田信雄がそれぞれおり申す。この間にある蟹江城を攻め落とせば、連携を断つことができまする」
「うむ、それは上策ぞ、官兵衛。よう献策してくれた。……しかし長宗我部の動きも気になる。紀伊の雑賀衆も気がかりじゃ。官兵衛、ここはいったんそちに任せて、わしは大坂に戻ろうと思う」
「承って候。しかし蟹江城の一件は、いかがいたしましょう」
「滝川よ」
秀吉は、滝川一益の名前を出した。
「織田と徳川を断つようないくさ、わし自身でなければ、あとは滝川くらいしか務まるものがおらぬ。……滝川久助に至急、使いを出せ。蟹江城を落とせ、腕を見せよ、とな」
「老体を、こき使ってくれるぜ」
使者の口上を聞いた滝川一益は、白髪を何度かなで回した上で、
「承った、と大殿に伝えてくれ。……いまのオレに、どこまでできるか分からんがな」
「ご謙遜を。……また、大坂の山田弥五郎どのから火薬が大量に送られて参ります。ぜひ使ってほしい、とのことでございます」
「山田かい。いい頃合いに火薬をくれやがる。それじゃ、ひと踏ん張りするか。……それでも、なにしろ敵は徳川どのだ。勝てるかどうかは責任もてねえが」
滝川一益の自虐的な言葉は、現実となってしまった。
秀吉の命じた蟹江城攻めこそ、滝川一益は活躍し、見事に城を攻め落とすも、その後、織田・徳川連合軍が蟹江城を奪還するために攻めてくると、半月以上頑張ったものの、けっきょく滝川一益は敗退し、退却を余儀なくされたのである。
――言い訳になるが、数が違いすぎる。
のちに滝川一益は、俺に向かって言った。
――織田と徳川は2万を超えていた。こっちは3000ぽっきりだ。その上、オレにはもう良い家来衆がいなかった。良い家来はみんな死ぬか、筑前の直臣になっちまっていたからな。織田はともかく、徳川家の酒井や石川や大久保、本多に榊原に井伊なんて連中と渡り合えるはずがねえんだよ。山田、お前さんがくれた火薬を使って、生き残るのが精一杯だったよ……。
このときの徳川家は、滝川一益が言うほどのオールスターで攻めてきたわけではないが、それでも滝川軍が人材不足だったのは間違いなかっただろう。それで家康を相手に戦えとは無茶な話だった。むしろ家康を相手に半月保っただけでも滝川一益はやはり名将なのだ。
しかし、滝川一益が敗北した知らせを受けた秀吉は、怒髪天をつき、
「久助はなにをしておるかっ! ええい、どいつもこいつもわしを苦労させおるわ!」
吐き捨てるように言った。
実はこのとき秀吉は、滝川一益を助けるために60000を超える軍を編成し、再び大坂から出ようとしていたのだ。しかし滝川軍が負けたために、それも無駄になった。
「滝川め、武運いよいよ尽きたか!」
「そういきり立つな、藤吉郎。久助も精一杯やったんだ」
今回は秀吉と共に出陣している俺である。
怒り狂う秀吉を、俺はひたすらになだめた。
滝川一益がここで負けることは分かっていた。秀吉が怒ることも分かっていた。だから俺はなだめ役を務めようと、今回は秀吉軍の中にいるわけだ。
滝川軍の敗北を知っているなら助けてやれ、と思われそうだが、こちらはこちらで四国や
紀伊の反秀吉勢力に対応したり、織田徳川に経済制裁の作戦を行うので精一杯だったのだ。滝川軍に火薬を送るのがやっとだったのだ。
「徳川がまことに手強い。あの粘り腰が恐ろしい。なんとか、なんとか崩す手立てはないものか……」
敵が多すぎるためだろうか。
いまの秀吉は明らかに焦っていた。
そんな秀吉を前にして、俺は口にするのがためらわれたが、それでも言わねばならないことを言った。
「藤吉郎。……加賀の又左(前田利家)に使いを出して、越中に気をつけるように言っておくんだ」
「なに、越中。……佐々内蔵助か? ……まさか、あやつまでがわしに逆らうのか? 年始のあいさつには来ておったろうが」
「万が一、ということもあるんだ。気をつけるだけはしておくんだ」
「……うむ、ならばそうしておこう。……しかし、ええい、誰もかれも、このわしの作る天下が、それほど不服か。……」
「…………」
不満たらたらの秀吉を前にして、俺は考える。
佐々成政。史実通りならここで彼は秀吉と戦う道を選ぶ。
可能性は高い。
秀吉に対して不平を漏らしていた佐々成政だ。
おそらく、戦いを挑んでくるだろう。それに対して、俺はどう動くべきか。
「……くそっ」
秀吉じゃないが、俺も眉間にしわが寄ってしまう。
なにもかもが後手に回っている。良策を打たねば、このまま負けてしまいそうだ。
孫も生まれたんだ。この世を平和にするために、俺は戦わねばならないのに……!
俺の懸念は現実となった。
1584年(天正12年)8月。
佐々成政は、反秀吉の旗を掲げ、秀吉の家臣となっている前田利家の城を攻撃し始めたのである。
「地獄絵図だ」
知らせを聞いた俺は思わずうめいた。
佐々成政はやはり秀吉と戦う道を選んだ。
しかもあいつは、秀吉だけでなく、前田利家とも仲が良くない。
ああ、小牧・長久手に、四国に、紀伊に、越中に、どこまでも戦火が広がっていく。
このままじゃ殺し合いがいつまでも終わらない。なんとかしなければ、なんとか!
と、俺が焦りに焦っているときだ。
「弥五郎、大坂にわしの屋敷ができたぞ。一度、見に来い」
という秀吉からの言葉が、使者を通して俺に届いた。
俺はただちに大坂に向かうと、大坂城はまだ未完成で、天守閣も二の丸もできていなかったが、確かに秀吉の屋敷は完成していた。
「いよう、弥五郎!」
屋敷の入り口に立っていたのは秀吉本人である。
もちろん一人ではなく、小姓や近侍など十数人の家来を従えてはいるが。
「よう来た。いまから屋敷を案内してやろう。……ふん、相変わらず難しい顔をしておる。佐々の反乱や小牧の戦のことを考えておるな?」
「その通りだ。なにかできないか、いつも考えている」
「そんなことだから、眉間に深いシワが寄るのよ。毎日、鏡を見ておるか? 汝、顔はまだまだ若いくせに、眉間にだけはくっきりシワが刻まれておるぞ。苦労性よのう」
「茶化すな。それよりも、屋敷を見せてくれ」
「おお、もちろんじゃ。……と、その前に弥五郎、汝が好きそうな話がひとつある」
そう言って秀吉は、俺の耳に口を近づけてきた。
「ことしの6月に、長崎の平戸にイスパニアの船が来航し、多くのイスパニア人が上陸したそうじゃ。それも珍しいものをたくさん持ってきて……。どうじゃ、面白い話じゃろう?」
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