第13話 羽柴家の世継ぎは羽柴秀勝
しかし俺や旧織田家臣団の懸念とは裏腹に、秀吉と織田信雄の関係は悪くなるいっぽうだった。
理由がある。
この年、秀吉は、年賀の祝いとして、織田信雄に対して、
「あなたが大坂にやってくるように」
と言ったからだ。
織田信雄は激怒した。
「なぜ、主筋の織田がわざわざ羽柴のもとへ出向いて年賀を祝わねばならぬか。逆であろうが。羽柴藤吉郎こそが、わたしのところへ来て礼を尽くすべきである!」
もっともではある。
しかし信雄の論理には、冷たい目を送る織田家臣団も多かった。
織田の主筋は、信長公、信忠、そして三法師の嫡流ラインであり、それ以外の織田家は、確かに羽柴の主筋ではあるが、では羽柴秀吉より偉いのかというと、首をかしげる者が増えてきた。
織田信雄は織田の嫡流ではないし、それに現実に秀吉が実力者である以上、三法師様ならばまだともかく、信雄様はもはや秀吉に礼を尽くしたほうが良いのでは……
と、考える者も増えてきていた。
そして秀吉も、織田信雄の激怒に対して、不愉快そうに、
「織田三介どのを大坂に呼ぶのは、大坂に諸大名や公家衆、町人衆、商人衆の有力者が集まるからじゃ。そこで三介どのが織田家の当主代理として現れたら、織田と羽柴の融和となったであろう。またいまの織田家の当主はあの方かと、都や堺の公家や商人が知ることができたのだが」
つまり信雄にもメリットがあったのだが、という言い方を秀吉はした。
しかし信雄にはそれが分からなかったのか、分かっていても信長の息子として秀吉の下風に立ちたくないと思ったのか。繰り返しになるが、信雄は怒ったのである。
「ならば、もはやこれまでよな。いまのわしが三介どのにご機嫌伺いする理由も、もはや薄い」
建設中の大坂城、その片隅に建てられた仮屋敷にて、秀吉は俺に向かってそう言った。
夜である。
秀吉と俺はふたりで、かきもちを互いにガリガリかじりながら、喋る。
隣室には近侍が控えているのだが、その侍に聞こえぬほどの低い声で。
「三介どのと羽柴がいくさになれば、商人としては困る」
と、俺は言った。
「津島をはじめとする、尾張や伊勢の町と交易ができなくなるからな」
「というのは口実。実のところ汝は、織田家の連中をいくさで失いたくないだけであろう」
「お見通しか。まあ、そうだ」
俺は薄く笑った。
秀吉はニヤニヤ笑って、
「汝はひとの命を大事にするからのう」
「藤吉郎だってそうだろう」
「ときと場合によるわい。必要ならば、いくさはためらわんよ。……織田家を相手にするのは、世間体も悪く、わしとしても気は進まんがな。しかし」
「しかし?」
「率直に言えばわしは、あの織田信雄が嫌いじゃからのう」
「……思い切ったことを言ったな」
「汝にだけ言えることじゃ。しかし紛うことなき本音よ」
秀吉のカミングアウト。
俺には理解できた。
もともと、世襲というだけで金や権力を手に入れることを嫌う秀吉だ。
かつて秀吉が足利義昭を激しく断罪した姿を、さらに養子である羽柴秀勝に対して複雑な思いを抱いていた景色を、俺はよく覚えている。
「なぜ、世襲の天下人を人々は支持するんだろうな」
俺は同調するように漏らした。
だが秀吉は、薄い笑みを浮かべ、
「弥五郎。そりゃ了見不足よ」
「なに?」
「世の中は世襲の人間のほうが多い。親や祖父の切り開いた田畑を貰い、家や家具、財産を引き継ぎ、あるいは家業を世襲して、それで飯を食っている者のほうがはるかに多いのじゃ。そんな連中が世襲の天下人を否定するはずがあるまい。みんな、先祖からなにかしら引き継いでいるんじゃからな」
そう言われると、それは21世紀でもそうかもしれない。
規模の大小はあれ、誰もが両親や祖父母からなにかを世襲している。
親の商売や家を引き継いだ人間はどんな時代でも一定数はいる。そういった人間が、世襲を大声で否定できるはずもない。自分もけっきょくは同類なのだから。
「わしや弥五郎のように、ろくに引き継げなかった人間は、そのあたりをつい忘れがちになるがのう」
「……そういえば、藤吉郎。あまり深く聞いたことがなかったが、……お前の父親は、どういう人間だったんだ?」
秀吉の母親は、尾張中村で暮らしていた、なかという農民の女性だ。
それは明らかだ。俺も顔を何度か会わせたことがある。
だが、父親は?
「知らん」
「知らん、って」
「わしが七つのときに亡くなった。正直、ほとんど記憶にない。おふくろから聞いた話では、
「悪いが、それはおふくろさまの勘違いじゃないか? 藤吉郎が幼いころは、まだ南蛮から火縄銃が我が国に伝わっていないころだ。ただの足軽だったか――いや待て。そのころでも、明から火薬や火器の類は伝わってきていた。俺が作った炮烙玉のような、火薬を詰めただけの武器もあったと思う」
そもそもモンゴル軍が日本に襲来したとき、モンゴル側は『てつはう』という、爆弾にも似た火器を使ったらしい。
その後、日本に火縄銃が伝来したとき、日本人は火縄銃にその『てつはう』の文字を当てはめた。そのとき鉄砲が誕生したのだ。
「だから、
「かもしれぬな。まあ、いまとなってはどうでもいいことよ」
秀吉は心底、どうでもよさそうな態度で、会話を打ち切ろうとしていた。
俺としてはもう少し、秀吉の父親のことを、単純な好奇心から聞きたかったのだが、このままだと夜話がすべて終わりそうなので、もう深入りはしなかった。
「話は変わるが、弥五郎。わしは昨夜、ちと考えたんじゃが」
ありがたいことに、秀吉のほうから話題を変えてくれた。
「結局、わしは信長公の家来であって、織田家の家来ではなかったのかもしれんな」
「これまた、激しいことを言う」
「本音よ。わしは信長公の天下が見たかった。その信長公が亡くなった。ならば織田家はもう知ったことではないよ。……いやさ、義理くらいは感じている。世話になった、とも思っている。だからわしの味方についた織田家の者は、ちゃんと面倒をみておるよ。……三介どのが……織田信雄が、わしになついておれば、楽な人生を送らせてやるのに……」
「……藤吉郎。俺はやはり、お前と織田信雄がいくさになるのは避けたい」
「わしも避けたいが、向こうが噛みついてくるんじゃからやむをえまいが。それとも智恵者の山田弥五郎どのには、わしらの仲を取り持つ名案でもあるかいの?」
「茶化すな。……名案なんてものじゃないが、ひとつだけ」
俺は先日、佐々成政と話したときのことを思い出しながら、
「羽柴家の世継ぎを、於次丸様と定めるのはどうか?」
「……於次丸を?」
秀吉は、意外なほうに話がとんだ、という顔をした。
俺は話を続ける。
「信長公の遺子である於次丸様が羽柴の世継ぎとなれば、織田信雄の態度も和らぐ。他の織田家臣も羽柴家になんのためらいもなく忠誠を誓うだろう。……いや、藤吉郎が嫌がるのも分かるぞ。ついさっき、世襲は嫌だという話をしたばかりだからな。……しかし、誰であろうと、いずれは羽柴家の土地や財産は、誰かが受け継ぐんだぜ」
「……うむ」
「それが於次丸様ならば、八方丸くおさまるのではないか、と思ったわけだ。……それとも藤吉郎、他に世継ぎの案がすでにあったのか?」
「いや……」
秀吉は、視線をさまよわせながら、
「小一郎ならば務まるだろうが、やつはわしとそう年齢が離れていない。世継ぎとしては不適格じゃろう。……他には、姉の子である治兵衛(のちの豊臣秀次)か、ねねの甥である辰之助(のちの小早川秀秋)かと思うておったが、別に決めてはおらん。
正直、わしの死んだあとのことなど、どうでもいいと思うておった。力のある人間が適当に出てきて、羽柴の遺産もうまく扱うし、世をまとめるであろう、と」
世襲嫌いの秀吉としては、そういう発想になるのも分かる。
だが、
「そういうわけにはいかないぜ。世継ぎがいなければ、せっかくまとまった天下が乱れる。現に信長公と信忠様が亡くなっただけで、天下はこの大騒ぎだ」
「そうじゃな、その通りじゃ。これはわしのほうが不覚じゃった。……わしひとりの好き嫌いで決めていいことではないな。世継ぎは定めねばなるまい。しかし、それが於次丸か」
「不満か」
「いや。……治兵衛(豊臣秀次)は頭は悪くないが、気が弱い。辰之助(小早川秀秋)は勇猛だが気が短い。どちらも一長一短じゃが、わしの目からすると、どちらも天下人としては器ではないと思っている。
それは於次丸も同じじゃが、しかし信長公のお子だという一点で、治兵衛たちよりは有利か。……うん……」
秀吉は何事かを考えているようだった。
まじめな顔だった。
ところで俺は内心、自分にうんざりしていた。
於次丸こと羽柴秀勝はいまからわずか2年後に病で死ぬ。
それが分かっているくせに、俺は於次丸を推薦しているのだ。
いまこの瞬間、織田信雄と秀吉の間が和解するには於次丸が一番だと思ったのだ。
於次丸が亡くなる2年後になれば、また状況が変わる。そのときにはまた次の策を打てばよい、と。
薄情だ。
人の命と運命をなんだと思っているのか。
しかし、羽柴と織田信雄が和解することで救われる命もあるはずだ。
そう信じて、提案した。
やがて秀吉は、小さくうなずき、
「決意した。於次丸を……羽柴秀勝を羽柴家の世継ぎとして定めよう」
「……おお!」
「於次丸は丹波におるゆえ、使者を出す。7日後に大坂に来るように伝えよう」
「よく決断したな。さすが藤吉郎だ!」
「おだてるな。汝の言葉のおかげよ」
秀吉は憑きものが取れたような、スッキリした顔をしていた。
俺も安心した。これで羽柴と織田信雄は仲直りに向かうことができるはずだ。
そうすれば羽柴と徳川も戦いにならずに済む。無駄な人の死を避けられるってものだ……!
7日後。
大坂の屋敷、その奥の間にて、秀吉と俺の前に羽柴秀勝が現れた。
相変わらずの線の細さで、信長公とはまるで似ていない。
どこか不安げに、キョロキョロしている。
俺は前世を思い出して、彼に少し同情した。
そうだよな、こういう場はとにかく緊張するものだよな。
ましてこの場には、織田一族も誰もいない……。
しかし、織田家の関係者はいた。
丹羽長秀、滝川一益、池田恒興の3人である。
秀吉に呼ばれた彼らは、羽柴家の世継ぎを羽柴秀勝と宣言したことの証人となるだろう。
証人といえば、堺から千宗易も呼ばれてやってきていた。
織田家の人間だけではかたよりが過ぎる。外部の人間である千宗易も入れておこうというのが秀吉の考えだった。
「於次丸どの。本日、父が大坂に呼んだのは他でもない」
上座から、秀吉が言った。
秀吉の脇には小一郎、蜂須賀小六、黒田官兵衛まで揃っている。
「知っての通り、わしには子がおらぬ。ゆえに羽柴家の世継ぎを、縁者の中から誰かに定めねばならぬ」
「…………」
羽柴秀勝は無言。
「わしもずいぶん思案した。しかし、わしの縁者の中では、やはり於次丸どの、器量といい血統といい、貴殿こそが当家の世継ぎにもっともふさわしい。言わずもがな、貴殿は亡き信長公のお子でもあられる。なにも悩むことはなかった。
於次丸どの。――羽柴秀勝どの!
羽柴の家督、天下の采配、いずれもやがては貴殿に委ねていきたいと思う。よいな?」
「祝着に存ずる!」
丹羽長秀がやや、うわずった声で言った。
丹羽さんには――いや丹羽さんだけでなく、この場にいたすべての人間が、すでに3日前に聞かされているのだ。羽柴家の世継ぎを秀勝に決める、と。
だからこの場にいる人間は、ただ祝いの言葉を述べるだけ。
それでいい。それがいい。そういうことだ。
「於次丸様が羽柴家の頭領となられること、亡き信長公もお喜びでございましょう」
池田恒興が、丹羽さんに追従する。
そして滝川一益も、
「大殿におかれましては、見事なるご決断と存じます。我ら家臣一同、於次丸さまにいっそうの忠勤をお見せいたしましょう」
やや芝居がかってはいるが、しかし祝いの言葉を並べた。
秀吉アンチとして有名だった滝川一益でさえ、今回の出来事を祝った。
その事実に、秀吉はニコニコ顔であった。
「……そういうことじゃ。秀勝どの、貴殿はもはや我が跡継ぎでござるゆえ、特別よ。さあ、上座にあがって参れ。構わぬ、さあ――」
秀吉としては、羽柴秀勝を破格の待遇として扱おうとしている。
だが、そのときであった。
「いやでおじゃりまする」
羽柴秀勝は、かぶりを振って、その場から動かなかった。
「……なに? ……いま、なんと申した?」
「於次丸は、羽柴家を継ぐのが、いやでおじゃりまする」
場の空気が凍てついた。
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