第六部 山田俊明編

第1話 山田俊明VS滝川一益

 津島の大橋屋敷、その一角にて。

 俺こと山田弥五郎は、部屋の中でひとりあぐらをかいていた。


 目の前に、そばがきがある。

 あかりが作ってくれたものだ。

 材料のそばは信濃産のもので、質がいい。


 信濃のそばが、商人の手によって津島の市場に流れてくる時代となっていた。俺は無言でそばがきを食いながら、たまに天井を見上げたりしていた。


 足音がした。


「山田様。滝川様が参られました」


「うん。通してくれ」


 と言うが早いか、戸が引かれる。

 滝川一益とあかりが、部屋の外に立っていた。


「山田。しばらくだな」


 滝川一益が、落ち着いた声で言った。

 俺はうなずいて、


「入ってくれ。そばがきもまだあるぞ」


「飯はいらん。話がしたい」


「……わたしは外しておきますね」


「いや、あかりもここにいてくれないかな。別に隠すような話はしないんだから。……久助もそれでいいよな?」


「……そうだな。別に、あかりちゃんに聞かれて困る話はしねえ。……3人で話そうや」


 滝川一益は入室し、俺の真正面に座り込んだ。

 あかりもそれに続く。


 久助。……めっきり老けたな。

 髪の毛は半分以上が白い。髭もやたらもじゃもじゃと伸びていて、これまた白い。昔の久助は、髭は伸ばしてももう少し手入れをしている男だったが。


 俺は思わず笑って、からかった。


「仙人のようだな、その髭は」


「本物の仙人にでもなりたいところだ。俗世にいささか疲れた」


「滝川久助ともあろう男が、弱気なことを。もともとそういう弱音は、俺こそ得意とするところ」


「弱音を吐きたくもなる。……関東は地獄だった」


 滝川一益は、かぶりを振った。


「信長公が上方で亡くなったことを、関東の諸将に伝えたのが失敗だったぜ。オレとしてはもう少し、やつらと信頼関係ができていると思っていたんだが。……関東の北条家はオレの敵に回り、攻めてきやがった。……まったく、山田、お前さんの言うとおりさ。オレともあろう者がなんと甘かったか。……しかし……」


 滝川一益は顔を上げて、


「山田、まずは礼を言いたい。お前さんがオレのところへ送ってくれた鉄砲や武器、道具、兵糧の数々で、オレはなんとか生き延びることができた。それはなにより感謝しよう。さすがは山田弥五郎と、オレは逃げながら何度も思ったもんだぜ。……しかし。……しかしだ。……然れども……!」


 滝川一益の眉間に、しわが寄り始めた。

 そして、いっそう低い声で、


「山田、今日は貴様の腹を確かめに来た」


「……腹とは?」


「羽柴筑前のことである」


 滝川一益は、声を荒らげた。


「羽柴筑前、明智日向守を征討したること、その手柄は誠に天下無双、じつに見事なり。それは認めよう! しかし、しかし、しかし!! ……羽柴筑前、明智征討後に恩賞を諸将に与え、三法師様を抱えこみ織田の家中を専横し、いままた山城の検地を断行しようとしていると聞く。すなわち、この滝川一益の目には、羽柴筑前が織田家を乗っ取ろうとしているようにしか見えぬのだ!」


「……久助」


 俺は、一度息を大きく吐いてから、


「藤吉郎が諸将に恩賞を与えたことは、三七様(織田信孝)よりお許しを得た上での行動だ。山城国の検地にしても、かの国はすでに羽柴家の領土であるから、検地を行うのにいささかの問題もない。三法師様にしても――」


「そこよ、山田! 京の都がある山城国を織田家の直轄とせず、羽柴の領地としたること、これぞなにより野心の証拠。羽柴筑前は主家たる織田家をしのぎ、おのれが権力を得ようとしているのだ。そうじゃないか、山田!


 ……オレは知っているぞ。お前さんが筑前の指示を受けて、坂本や大津など明智の旧領を支配下に置いたことも。……ああ、お前さんは確かに筑前と仲が良い。筑前の頼みならなんでも引き受ける男さ。


 だが、だがなあ、山田。オレはもっと知っているぞ。お前さんは正義の男だ。曲がったことが嫌いな、そりゃあ良い男だ。それはオレがずっと昔から知っている。……そのお前さんが、山田弥五郎が、羽柴の専横を許すのか!?


 天下は織田家のものだった。信長公のものであった。その次は信忠公、そしてさらにその次は――織田家のものとなるはずだった。永遠に!


 それをあの羽柴はいま、奪おうとしている。間違いなく! 違う、などと言うなよ山田。お前さんには分かっているはずだ。あの羽柴筑前の野心、知らぬわけではあるまいが!


 羽柴は織田の天下を奪う腹づもりなり!!

 奪うは泥棒。泥棒は悪なり!!

 言うまでもなくそうではないか!!


 そのことを、山田。お前さんはどう思っているんだ!

 山田弥五郎はなにを思って、野心家と化した羽柴筑前の味方をするか!

 オレが腹を見に来たと言ったのはそこだ!!


 山田弥五郎。如何!?」


「………………」


 俺は滝川一益の瞳をじっと見つめた。

 滝川一益も、見つめ返してくる。


 あかりが、俺と滝川一益、ふたりを交互に見比べる。

 おそろしく、悲しそうな瞳で。


 外で、蝉が鳴き始めた。

 やがて俺は口を開いた。


「……信長公の生前、俺は考えた」


「……なに?」


「あの遠江の松下嘉兵衛さんと、安土城でかすてーらを食べた。美味かった。……あんなものを安土で食べることができるとは、良い世の中になったものだと思った。かすてーらだけではない。諸国から集まった名物、珍味を安土で食べることができる。俺だけではなく、安土城下の人々も食べられるようになった。


 そんな世の中にしたのは、信長公だ。諸国を統一し、楽市楽座を行い、撰銭をして、関所を廃し、道を整備し橋を架けた。おかげで俺たち商人は安心して、諸国と行き来ができるようになり、商いは盛んとなった。諸国の物産も多く交流するようになった。


 明智が支配していた坂本を制圧したときも、思ったものさ。都の反物、三河の味噌、若狭の塩を前にして。……昔では考えられないほどの商品が流れ、ひとびとの生活が豊かになり始めた。


 惜しかった。

 信長公がご存命であれば、天下は統一され、諸国はもっと豊かになり、ものが作られ流れる世の中になっていただろうに。……道半ば、だった……」


「山田。なんの話をしていやがる」


「ひとびとの生活の話だ! 織田家が天下を半ば統一し、信長公が善政を敷かれたおかげでひとびとは豊かになったんだ! 見ろ、このそばがきを。信濃のそばだ。昔は津島でめったに見られなかったものが、いまは見られる。


 飢えたひとびとが食べられるようになった。良い服を着られるようになった。ものが手に入るようになった。それはすべて信長公のおかげであり、さらに言うならば、強い人物が天下をまとめあげたからこそだ!」


「…………」


 滝川一益は、押し黙った。

 俺はなお続ける。


「天下がまとまらなければ、また諸国は乱れ、戦が増え、……いまのように、物も流れなくなる。ひとびとはまた飢える。そんな天下は真っ平御免だ。俺は天下を泰平にし、そしてひとびとをもっと豊かにしたい。……そのための、藤吉郎への協力だ!」


「なぜ、筑前なんだ!」


「逆に問おう。他の誰ができる!? 柴田様か!? 三七様か!? 三介様か!? できるか? 藤吉郎よりも見事に信長公のあとを継ぎ、統一した日本を作ることが! 豊かな日本を作ることが! 柴田様は見事な武将だ。だが藤吉郎には及ばない。三七様にしても、そうだ!


 久助。お前の言うことは道理だ。まったく道理だ! だがその道理も、天下統一、そしてその中にあるひとびとの生活のためという大義の前では、その道理も立たない!


 ……俺は……人々を豊かにするために、藤吉郎と力を合わせる。

 そういうことだ。……昔からの友である。大樹村の誓いもある。

 だが、それ以上に。……天下の商いをより盛んにして、日本の衆生を富ませたいのだ。


 それがいまの俺の、山田弥五郎の、腹だ……」


「……………………」


 滝川一益は押し黙った。

 まだ、蝉が鳴いている。


「……筑前みてえだな、お前さん」


 滝川一益は、薄い笑みを浮かべながら言った。


「弁が立つようになった。まったく筑前みてえだよ。……山田」


「久助」


「……だがな。……オレはまだ、納得がいかねえ。豊かになればそれでいいのかよ。道理は引っ込むのかよ。織田家の方々はどうなる。お市様は? 他の方は? 羽柴が天下をぶんどったら、織田家の方々はどうなるんだ。


 それに、天下を治めるのに商いの理屈だけを持ち出すんじゃねえよ。応仁以来のこの乱世は、子が親を裏切り、家臣が下剋上を起こし、民百姓が道徳を信じられねえからこそ続いているんだ。そんな時代に、信長公よりもっとも深い御恩を賜った羽柴筑前が、主家乗っ取りを起こす。……それじゃ乱世の続きじゃねえか! 道理もクソもありゃしねえ!


 そうじゃねえか、山田! 仮に筑前が天下を治めたとして、織田家の方々は納得がいかねえ。織田家の方々は復讐を考える。世間の民百姓も、羽柴筑前様はどうせ乗っ取りで天下を取った方だからと思うだろう。それじゃ天下布武はならねえよ!


 豊かは大事さ。金も大事さ。だけど、それだけじゃダメなんじゃねえのか!? それだけじゃ……。


 ……くそっ、オレはお前さんや筑前ほど弁が立たねえから、うまくはいえねえがな。

 やっぱり違う。羽柴のやることに納得はできねえぞ!」


「久助!」


「山田っ!!」


 滝川一益は、ふいに立ち上がった。

 俺とあかりも、立ち上がる。滝川一益は、ぎろりと俺を睨みつけ、……しかし、すぐに俺から目をそらすと、眉をきれいな八の字にして、


「……邪魔したな」


「久助。待て、まだ行くな。待ってくれ」


 俺は滝川一益の手をつかみ、


「お前、俺たちと戦うつもりだろう」


「お前さんじゃねえよ。羽柴とだ。……いざとなればな」


「同じことだ。話そう。話せば分かる。久助。俺は」


 ひときわ強く、滝川一益の手首を握りしめ、


「俺は商いをずっと昔から続けてきた。伊与やカンナ、あかりに次郎兵衛に五右衛門、みんなのおかげでここまで来られた。それで確実に言えることがひとつある。……人間の本性は、対立ではない、協力だ。協力しあうことで、世の中は泰平となり、もっと大きな力が生み出されるんだ。久助」


「だからなんだ。筑前との対立をやめて、協力しあえと言うわけか」


「そうだ!」


「それはできねえんだ。滝川久助の道理が納得できねえ! できねえんだ!」


「久助!」


「滝川様!」


 あかりが、泣きそうな声を出す。

 滝川一益は、いよいよ困り切った顔で、


「あかりちゃん、そんな声を出すなよ。……女の涙には、弱いんだ……」


「だったら、もう一晩。もう一晩だけでもいいんです。ここに残って、山田様とお話を」


「そうはいかねえ。……オレは自国に戻る。家来どこが待っているんだ」


「久助」


「離せ、山田!」


 ばっ!

 と……


 滝川一益が、俺の手を振りほどいた。

 思いのほか、勢いがあった。俺は思わず、尻餅をつきそうになったが、こらえた。

 滝川一益は、ハッとした顔で俺を見つめてきたが、やがて顔を伏せ、


「お前さんの言うことも、一理ある」


 と、言いながらも、


「だがオレは、羽柴筑前を認められねえ」


「久助」


「お前さんと同じさ。……昔からオレとあいつは仲が悪かった。でもな、もう、そういうことじゃねえんだ。……織田家への忠義であり、そしてこの天下を、豊かさよりも忠義を上の天下としたいからこそ、オレはこの津島を去るんだ」


「滝川様。……行かないでください」


「…………。……すまん」


 滝川一益は、もう振り返らなかった。

 昔よりも、どこか弱々しい足取りで、屋敷を去っていく。

 俺たちの目の前を去っていく。あかりがその場にへたりこんだ。


「俊明」


 伊与がやってきた。

 隣にはカンナもいる。

 どうやら、途中から俺たちの話を聞いていたらしい。


「ようやっと分かったよ、あんたの考え。……天下を豊かにするために、強い力が、つまり藤吉郎さんが必要なんやね」


「だからお前は、藤吉郎さんのために戦うわけだな。……もはや、誓いのためでもなく、天下のために」


「…………。……そうだ」


 俺は拳を握りしめて、言った。


「それが天下のためだと、そう信じている」


 その言葉にいつわりはなかった。

 だが、そう言いながらも俺は、あかりのほうを見ることができなかった。


 滝川一益。

 ……滝川さん……。

 ずっと昔に、この津島で出会ったときから、……藤吉郎と仲良くする限り、こういう日が来ると分かっていたはずなのに……。


 それなのに……。




 その後、自分の領土である伊勢国に戻った滝川一益は、清洲会議の決定に対して異を唱えた。それは、領地の再配分を求める声であった。滝川一益は、


「天下の中心たる山城国を羽柴家が有するのはおかしい。山城は織田家にお返しするべきである」


 と訴えた。

 しかし、一度決定したことを覆すのは難しい。

 滝川一益の発言は通らず、山城国と京の都は羽柴家の勢力下のままとなった。


 滝川一益は、柴田勝家と手紙で話し合った上、羽柴秀吉の専横を諸大名に訴えた。

 しかし秀吉にも秀吉の言い分があった。信長の嫡孫である三法師、この子は本来、安土城に置くという話であったが(安土城の本丸と天守は焼失したが、二の丸などは機能していた)、織田信孝はこの約束を守らず、三法師を自分の城である岐阜城に置き続けたのだ。信孝は、明らかに秀吉を警戒していた。


 秀吉と、信孝・柴田・滝川の3者が対立し続ける中。

 秀吉は俺を京に呼び出し、そして拝んできた。


「頼む、弥五郎、銭を出してくれ!」


「なにをする気だ」


「信長公の葬儀じゃ! 葬儀をする! あのお方の葬儀をしていないのは我ら家臣団の手落ちじゃった。そのために銭が入り用なのじゃ。頼む、弥五郎!」


 信長公の葬儀が、どのような政治的意味をもつか。

 俺はもちろん知っていたが、ここはあえてなにも語らず、


「承知した。山田弥五郎にお任せあれ、だ」


 それだけ答えた。


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