第33話 明智光秀の乱

 俺たちは夜の闇の中、上京からも下京からも離れ、鴨川を東に越える。

 山科までやってくると、いよいよ世界は月明かりのみになってしまった。

 夜になると織田軍の中にも、足を取られる者が出てき始めたため、


「父上、このあたりで一度、休息されては」


 と、信忠が言い出した。


「急ぎ戦地に赴くわけでもありますまい。なにもそう急いで安土に戻られずとも、良いではありませんか。……」


 信忠は俺の転生も本能寺の話も知らない。

 だから、信長がなぜこうも完全武装で上洛したのか。

 そしていま、慌てて安土に戻ろうとしているのか、よく分かっていないのだ。


「で、あるか。……」


 信長はなお、悩んでいたようだが、そのときだ。


「上さま。……織田さまぁっ!」


 突如、闇の中から声がした。

 俺も信長も、織田軍の兵も警戒した。

 だが、カンナが「あら、島井さんの声よ」と言ったので、よく目をこらすと、確かに馬に乗ってやってきていたのは島井さんと神屋さん、さらにお付きの侍たち10数人であった。


「島井さん、なしてこげなところにおるとね!?」


「いや、織田様が上洛されたと聞いて、これはご挨拶せねばと思っていると、もう鴨川を越えられたと聞いて、慌てて追いかけて……はぁぁ……はぁ、はぁ」


 島井さんと神屋さんは揃って下馬し、俺たちに頭を下げた。

 博多商人たちにとって、信長の覚えがめでたくあるかどうかは確かに命に関わる問題だ。

 ここで夜通しでも姿を見せて挨拶しておこうという考えだろうが、ちょっと時期が悪かった。


 信長は、島井さんたちを目の当たりにして少し考えていたようだが、


「余への思い、確かに受け取った。……夜になり、もはや兵たちも道を歩けぬ。よかろう、一度ここで休息を取る。者ども、陣を張れ」


「はっ」


 こうして織田軍は、いったん歩みを止めた。

 俺としては、できれば安土に一刻も早く戻りたいところだが……。

 島井さんたちもやってきたし、兵の中には朝からの行軍で少し疲れている者もいるようだ。やむを得ないだろう。


 それに。

 本能寺からは遠く離れたんだ。

 もう俺の知っている史実とはずいぶん離れたことになっている。信長だって武装しているんだ。とりあえず、大丈夫だろう。


「上様、お水を」


「うむ」


 軍に同行していた森蘭丸が竹筒を差し出した。

 信長は用意された床几しょうぎに腰かけて水を飲み干した。

 それから、さすがに疲れていたのか腕を組み、大きく空を見上げた。


 俺も空を見上げた。

 夜空は、満天の星模様である。


「山田。やつは来ると思うか」


「分かりません。ですが、来たとしてもこちらの軍は準備万端。交戦しても一気に蹴散らすことは不可能でしょう。いかに戦上手のあの者といえども」


「……左様よな」


 俺と信長は、小声で話し合う。

 そんなときでも、俺の背後にいる伊与は周囲に異変がないか絶え間なく目配りしている。


「来たとすれば、まずはこの地で迎え撃つ。と同時に安土と大坂に使いを飛ばす。大坂には丹羽の軍が数を揃えているゆえにな。余と丹羽で挟み撃ちをする。そうして持ちこたえていれば、安土からさらなる援軍もやってこよう」


「ごもっとも。どう転んでも、俺の知っている通りの話にはまずなりますまい」


「うむ。……」


 と、話を進めていると、そのときだ。




 ピィーッ




 摩訶不思議な音が、あたりに響いた。

 兵たちがざわついた。信長は刀に手をかけながら立ち上がった。




 ピィーッ ピィーッ ピィーッ



 

 伊与もカンナも、目を険しくさせる。

 俺も彼女たちと同様だったが、そのときだ。


「いや、待て。これは――呼子笛の音色だ! 五右衛門に違いない!」


「五右衛門? ……確かに!」


 伊与が叫んだ。

 そうだ、武田信玄と戦ったときのあの呼子笛だ。

 戦国時代に、この音色を出せる人間は俺たちの仲間以外にない。


「山田。石川が来たのか?」


「はい。明智軍の中に忍ばせていた彼女が……少々、耳をお塞ぎください」


 そう言った俺は、リボルバーを取り出して上空に向けてパーンとぶっ放した。

 五右衛門なら、この音で分かってくれるはずだ。


 果たして数分後、五右衛門は息を切らしながら、俺たちの前に姿を現した。

 雑兵の格好をして、髪を男性風に髷で結ってはいるが、間違いなく五右衛門だ。


「五右衛門、大丈夫か」


「まずご注進。明智十兵衛、謀反!」


 五右衛門は激しく息を切らしながら、その言葉を告げた。

 信長の顔色が変わった。信忠も森蘭丸も、伊与もカンナも――


 信長は五右衛門に近付くと、持っていた竹筒を無言で差し出す。

 さすがの五右衛門も、信長みずからの行動に目を白黒させてから俺を見つめたが、俺はうなずいた。信長も「構わん。飲め」と言った。五右衛門は、水を一気に飲み干して、ようやく息を吐くと、


「明智十兵衛、兵の前で確かに吠えたり。――敵は本能寺、と!」


「五右衛門、確かだな!」


「間違いない。明智軍は来る。やつは確かにこう言った。『我が敵は毛利家にあらず。わしの倒すべき敵は備中にあらず。敵は本能寺にあり』と――もしこの言葉に誤りがあれば石川五右衛門、何万べんでも痩せっ腹を切ったるよ!」


 俺は信長と目を合わせた。

 本能寺が信長の定宿であることは織田家臣ならば誰もが知る事実だ。

 もはや紛れもない。明智光秀は史実通り、信長を裏切ったのだ!


「すまねえな。できれば明智をこの刀でたたっ斬ってやるべきだったが、やつのすぐ近くに斎藤利三がいた。さすがに手が出なかった。だから急いで、お前に知らせるべきだと思って戻ってきた」


「いや、いい。それでいい。ありがとう!」


「上様、いかがされますか」


 森蘭丸が、問いかける。

 信長は歯を食いしばり、決然とした顔で空を見上げると、


「是非に及ばず。一戦、交えるぞ!」


 信長がそう決断したならば、もう俺から言うことはない。

 俺は伊与とカンナ、さらに神屋さんと島井さんのほうを振り向くと、


「戦になる。カンナたちはこの場を離れろ。安土に向かえ。伊与、お前はカンナたちについていってくれ。夜道は危ないからな」


「いかんよ、そんなの。伊与がおらんかったらアンタが困ろうもん。あたしもここに残って――」


「いたら大変なことになりそうだ。頼む。ここは俺が引き受ける。だから」


 俺はいったん、信長の顔を見た。

 信長はうなずいた。俺もうなずいて、伊与たちへ、


「だから、行ってくれ。なにも島井さんたちを逃がすためだけじゃない。援軍の要請だ。安土城に入り、ただちにこちらに援軍を送ってくれ」


「あっ、そういうことね。……かしこまり。あたしたち、すぐに行くけん」


「そういうことだ。頼んだぜ、カンナ。伊与」


「……分かった。カンナと、それに島井さんと神屋さんは私に任せろ」


「頼んだ」


「死ぬなよ、俊明」


「当たり前だ」


 伊与とカンナは、神屋さんと島井さんを連れてその場を急ぎ去っていった。

 伊与たちならうまくやってくれるだろう。あとは――


「奇妙。都にいた源五や村井には一時安土に退避せよと伝えておるな?」


「伝えてあります」


 信忠はうなずいた。

 源五とか信長の弟、織田有楽斎のことで、村井とは信長家臣の村井貞勝のことだ。


 京都には織田家の一門や織田家臣が複数常駐していたが、信長たちは今回の上洛から引き上げる際に、その家臣たちにも退避勧告をちゃんと出していた。それぞれ、やるべき仕事などがあったので俺たちに同行こそしていないが、彼らならうまく逃げてくれるだろう。


「ならば良し。明智は本能寺を襲撃したあと、予がおらぬことを察知し、周囲を探り、やがてこの山科にやってくるであろうな」


「御意。衝突は恐らく、明日の昼ごろかと」


「で、あるか。よかろう、この場で迎え撃つ。大坂の丹羽軍にも使いを出せ。ここで明智軍と戦っている間に援軍を呼び、一気に討ち滅ぼしてくれる」


「上様。俺の神砲衆に先陣をお申し付けください。連装銃で明智軍を蜂の巣にしてやります」


「山田か。……分かった。では陣形の戦闘はそちに任せる」


「御意!」


 俺はすぐに振り返り、――座り込んでいる五右衛門のところへ駆け寄った。


「五右衛門。本当にありがとな。もう少し休んでおけ」


「あ、ああ。そうさせてもらうよ。さすがに疲れた……」


「明智のいる丹波亀山から、山科まで駆けてきたんだものな。さすがに俊足の大泥棒もこたえたか」


「こたえるさ。……悪いが、少しだけ寝かせてくれ。戦となったら起き上がる……」


「いっぱい寝てくれ」


 五右衛門を信長本陣の片隅に残してから、俺は神砲衆が待機しているところに向かい、神砲衆の旗を掲げた。


 まだ世界は、夜の闇に包まれている。そんな中、数本のたいまつを掲げている俺たちは、さながら河原のほたるのようなものだ。


 静かだ。

 明智光秀がいま、都に向かっているなんて、想像もつかないほどに。

 それにしても明智。やっぱりこうなってしまったか。だが、もはやあとは戦うだけだ。


「お前を倒し、織田家を生かし、そして天下を平定する。それこそが俺の立志伝だ。……よし、みんな! いまのうちに腰兵糧のへぼ五平を食らっておけ。明日は戦になる。上様の御前で戦えることを喜びに思え! 手柄を立てれば、恩賞は思いのままに――」




 ずだぁんっ!!




 鉄砲玉が飛んできた。




「……なに?」




 右肩に鋭い痛みが走る。

 狙撃された。一瞬で悟った。


 誰が?

 どこから?

 なぜ、俺を?


 決まっている。

 明智。……明智か! 明智だ!


「あそこか……!」


 俺は急ぎ振り向いた。小高い丘陵の上に、竹やぶが見える。その中に、馬を引き連れた数人の集団が、鉄砲を俺に向かって構えていた。その中にいたのは、――夜である。顔は見えない。だが、気配で分かる。さらに言えば、実力で分かる。


 こんな真夜中で、たいまつ程度の明かりしかない世界で、この俺を鉄砲で狙い撃ちにできるような腕前の人間は、この戦国乱世でも数えるほどしか存在しない。俺か、滝川一益か、佐々成政か。そして――


「明智っ! きさま!!」


「敵はここにあり! 山田弥五郎はここにあり!!」


 明智光秀の声音が響く。

 激痛が俺の体中を走った。だが、痛みはひとまず無視して思考する。

 光秀がなぜここに。本能寺に向かったんじゃないのか? いや、違う。馬でここまでやってきたな。おそらく明智軍本隊は別の武将に(おそらく斎藤利三あたりに)任せて、自分自身は夜目が利く者だけを連れて、ここまで駆け抜けてきたんだ。


 俺を狙い撃ち、殺すために!


 じゃあ、なぜ明智は俺がここにいることが分かった?


 明白だ。

 五右衛門だ。

 そうだ、明智は五右衛門を尾行したのだ。


 自軍の中に間者がいることを計算した上で、敵は本能寺にありと叫び、全員の注目を本能寺に集めつつ――自軍から脱出した間者(五右衛門)の動きを追尾し、そして俺がいることを確認したうえで、狙撃したのだ!!


「明智。……明智!!」


 俺はかつて、明智をこう認識したことを思い出した。

 やつは戦いの天才なのだ。秀吉よりも、あるいは信長よりも。

 間者の存在まで計算に入れ、さらに五右衛門に尾行を気付かせず、そして正確に目標を襲撃するとは!


「山田弥五郎、貴様だ。貴様を討つことこそが我が天命なのだ!」


「……なんてことだよ」


 俺はへらっと笑って、思った。

 信長を生かそうと思い動き続けた結果、信長はどうやら救えたが、その代わりに俺が狙われて撃たれるとは。


「笑えないな」


 と言いながら肩を押さえる、俺。

 痛みはいっそう激しくなる。四十を超えた身体に、こいつは辛い。

 だが、急所は外れている。この身体はまだ保つ。ならばやることは一つだ。


 明智光秀。

 飛んで火に入る夏の虫とは、このことだ。


「神砲衆、ただちに構え! あれに見えるは逆賊明智よ。大将首がわざわざ小勢で飛び込んできたわ! 撃て、撃ち取れ、首を取れ! あれこそ我らの宿敵よ!!」


 おおお、と神砲衆の士気が上がった。

 逆臣となった光秀をここで倒す。そうすればすべては終わる!

 俺は激痛のために血反吐を吐きながらも、歯を食いしばり、闇の中の明智をぐいっと睨みつけたものである。

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