第32話 敵は本能寺にあり

 1582年(天正10年)5月28日。

 安土城の天主にて、俺と伊与とカンナ。

 そして信長は、ふたりの商人と対面していた。


 神屋宗湛かみやそうたんさん。このとき満31歳。

 島井宗室しまいそうしつさん。このとき満43歳。


 揃って、筑前国博多の町の商人である。神屋さんは曾祖父が石見銀山の開発に関わった縁で、銀を用いた国際交易を行っており、島井さんもまた博多で酒屋や金融業を営みつつ、明や朝鮮と貿易を行う国際的商人であった。


 信長は、博多商人の代表格たるふたりを前にして上機嫌で、


「余の前に来たりて縁を繋ごうとは、愛いことである」


 と、目を細めた。

 すると島井さんは大きく平伏したあと、


「我が博多も度重なる戦乱を経て、灰となりましてございます。2年前に肥前の大名、龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶが博多を焼き討ちして以降、博多の町衆は散り散りとなりまして、筑前や肥前の山中に隠れ住みながら、商いを行っておりまする」


 島井さんの話を聞いて、俺は思いだした。

 21世紀の佐賀県唐津市七山という山奥に、博多という地名があることを。

 なぜ、佐賀に博多があるのか。それは戦国時代に博多の町人商人らが逃げ込んできて、しばらく生活していたためとも言われていた。


「山中にありながら、なお商いを行うか」


 信長が尋ねると、


「博多商人魂は、草深い山の中においても不滅でございます。ある者は足を使って山々を練り歩き行商し、ある者は小舟を用いて川を下り商いを行っております。土倉ひとつに紙と筆さえあれば、地球のどこでも商いはできまするので」


「言うわ。地球のどこでもか」


 島井さんが言った、その気宇の壮大さを信長は喜び、


「よかろう。博多の町衆はこの信長の名において保護する」


「あ、ありがとうございます!」


「余は間もなく中国の毛利を下す。その後は我が家臣の羽柴筑前守が、その官職の名の通り、筑前博多を守護することであろう。……そして、そこにいる山田弥五郎もな」


 信長は俺に視線を送った。

 神屋さんと島井さんが俺に顔を向け、目をわずかに細めた。俺も細めた。


「聞いての通りだ、山田。毛利攻めのあとはそちと羽柴が九州に入れ。敵がいればそちら二人で討ち倒すが良い。肥前には龍造寺隆信と、その腹心たる鍋島直茂という名将がいると聞くが、なに、羽柴筑前と山田弥五郎ならばひけを取るまい。九州はそちらに任せるつもりよ」


「はっ。承ってございます」


 俺は平伏した。

 信長はうなずいた。


「――しかし神屋と島井は明や朝鮮とも交易をしておるか。博多商人は遠き世界に足を運んでおるか。……それ、そこの蜂楽屋ほうらくやの父も、遠くルソンまで船で出向いていたと聞くが」


「はい。……我々は、実際にお目にかかったことはありませんが……かつてルソンやシャムまで出向き、異人の血を引く娘と婚姻した博多商人、蜂楽屋さんのことは、いまなお語り草でございますよ」


「あたしの父は、なお博多では名前が残っとるとですね」


「ええ。ですからこの度、蜂楽屋の娘さんとお会いできると聞いて、我々も楽しみにしていた次第で」


「お二方。上様の御前であるぞ」


 島井さんの話に応えたカンナたちを、伊与がたしなめた。

 だが信長がそれを手で制する。


「堤、よい。余もその話が聞きたい。――蜂楽屋の父はルソンやシャムまで出向き交易を重ねていた。それも何十年も前の話だ。商人は利潤のために万里の波濤はとうまでゆうゆうと越えよる。南蛮の商人どももそうだ。


 島井。地球はそこまで、商人たちが船で駆け巡っておるのか?

 南蛮人や明国人だけでなく、日本人もか?」


「巡っておりまする。九州の武士や商人は、自前で船をこしらえ、あるいは明や南蛮の船に乗って、シャムのほうまで出向き、商いを行っております。……日本からは刀や槍、茶器に屏風などの芸術品などが運ばれ、シャムからは主に硝石などの火薬が運ばれてきて、売られておりまする。……畏れながら上様のかつてのお膝元であった尾張津島にも、ひそかに火薬類が運び込まれているはずでございます」


「……確かに津島は商いが盛んでした。出所不明の硝石が出回ってもおりました」


 俺は遠い昔を思い出しながら言った。

 津島の路地裏みたいな小さな店で、いかにも怪しい商人から硝石を買い求めたこともあった。


「余は南蛮の宣教師ともよく語り合うが、その話とそちの話は符合する。……地球は船の時代か。そうか……」


 信長は何度も何度もうなずき、ふと、背後を振り返った。

 地球儀が置かれてあった。おそらく南蛮人から献上されたものだろう。


「……神屋、島井。よく話を聞かせてくれた。余の天下布武は間もなく成る。成ったあかつきには、信長みずから船に乗り、ルソンでもシャムでも乗り込みたいところである。……しかしいまはまだ、話だけで充分だ」


「はっ」


「この織田信長の名において、博多を守り抜くことを改めて約定しよう。……後々のことは、山田弥五郎とよく話すが良い。……余はまたそちらと話がしたい。まだしばらくは上方に留まるが良い。京の都の見物でもしておくがよいぞ」


「「ははっ!」」


 神屋さんと島井さんは、揃って平伏した。


「日本のことが片付けば、地球のことにも気が向こう。……片付けば、な」


 最後に信長は独りごちるように言った。

 明智光秀のことを言っているのが、俺にはよく分かった。


 俺は信長と視線を交わした。

 そして、


「伊与、カンナ。島井さんたちと今後のことをよく話しておいてくれ。俺はここに残る」


 俺はそう言って、伊与たち4人を天主から退出させた。

 去り際、カンナと神屋さんたちが、温かい視線を交わし合っているのが見えた。

 博多人同士、あとはうまいこと話をまとめてくれるだろう。あっちは、あれでいい。


 あとは――


「山田」


「はっ」


「忍びから報告が入ったぞ。明智は軍勢を整えた。表向きは羽柴への援軍だ」


「はい、俺のほうでも確認しています」


 明智軍に侵入させている五右衛門から、使いが来たのは今朝のことだった。

 明智光秀は軍勢を編成した。いつでも戦いができる状態だ、と。


「その援軍は援軍にあらず。上様に牙を剥きます。しばらくの間、京の都には行かれぬが得策かと存じますが……」


「分かっておる。と言いたいが、公家衆から呼び出しがかかりおった。例の三職のことよ」


「殿様(信忠)を太政大臣か関白か、征夷大将軍にするというお話ですか」


「そうだ。余が推薦しておいたものだが、より念入りに話がしたいと公家衆が言って参った。主上(正親町天皇)までが『本邦の未来すえに関わる一大事ゆえ、よくよく話を吟味したい』と言って参った。そのために奇妙(信忠)はもう、京の都に上洛しておる」


「それはもちろん大事なことではありますが、危うきことでございます。主上のお呼びと言えども、この度の上洛だけは、できるならば避けるべきかと」


「分かっておる。だが無視もできぬ。奇妙を呼び戻す必要もある。……そこで余は都に向かい、最低限の顔見せだけして、すぐに奇妙を連れて都から離れるつもりだ。本能寺に泊まりはせぬ。近づきもせぬ」


「それは……」


 できれば信長にはずっと安土にいてほしい。

 だが信長の言い分も分かる。そこで俺は、


「分かりました。ではこうされてはいかがでしょう。上様は上洛されますが、充分に兵を連れ、武装した上で都に向かわれるのです。そして奇妙丸様と合流の上、すぐに都から去る。……さらに間者を飛ばし、明智軍の動きを一瞬たりとも見逃さない。……もしも明智十兵衛が謀反のうえ、上様が危なきときは、我が神砲衆が必ずお守り致します!」


「よかろう。そこまで万全に備えていけば、明智といえど謀反もできず、手も出せまい」


 信長は大きくうなずき、それから、天主の外に広がる琵琶湖の湖岸を見つめつつ、


「……しかし、山田。もしもこの度、明智が謀反をせず、余の忠実なる家臣であることを続けるならば、余はやつをさらに重く用いるぞ。……明智は、……やはり、余にとって必要な家来だ」


「……はっ」


 信長は、やはり、心優しい一面があるのだと俺は思った。

 異論などない。明智光秀が謀反を起こさないなら、それに越したことはないのだから。




 翌日。

 すなわち5月29日。


 信長は小姓衆200名のほか、神砲衆300人。

 さらに安土城に詰めていた兵2000に火縄銃や連装銃を装備させたうえで、上洛した。


 数こそ2500だが、完全武装の上、誰もが一騎当千と呼ぶべき強者揃いだ。

 その上、俺が和田さんに依頼した甲賀忍びまでひそかに織田軍についてきていた。

 明智軍が襲ってきても、これを突破するのは容易ではないだろう。


 信長は、上洛するなり、ただちに嫡男の信忠と合流。

 そして京の公家衆と面会を始めた。




 その頃、俺は、伊与とカンナを引き連れて、本能寺にやってきていた。

 寺の周囲には深い壕が掘られている。小さな砦のような印象さえある場所だ。


「なにかあるかもと思って、いちおう見に来たんだが」


 俺は本能寺の中を歩き回ったが、怪しい様子はなにもない。

 そもそも本能寺は信長の定宿で、信長は上洛する度にこの寺によく泊まっていた。

 その信長が、日ごろ使う部屋にまで足を運んでみたが、誰もいないしなにもない。


 信長の部屋の隣に、蚊帳かやがずいぶん置かれていたが、それくらいだ。

 明智軍の間者でも忍んでいるかもと思っていたが、それすらない。

 3時間ほど、本能寺にいて調べ回った俺だが、やがて伊与とカンナが、


「俊明。そろそろ行こう。もはや本能寺にはなにもない」


「あたしもそう思う。ここにおるよりは、そろそろ公家衆とも話が済んだ上様のところにおったほうがよかよ。明智軍が来るかもしれんなら、守らんと」


 そう言ったので「そうだな」と本能寺を離れることにした。

 それから公家屋敷のほうへ向かうと、信長と信忠はちょうど屋敷を出るところだった。

 もちろん、小姓衆に囲まれている。よし、二人は無事だ。


「山田か。よう来た。そろそろ安土へ帰るぞ」


「はっ!」


「積もる話もあるが、行きながら話そう。今日に限ってはあまり長居はするまい」


 信長はニヤリと笑うと、ついに用意されていた輿に入った。

 いいぞ。……あとは信長を安土に帰せば、きっとなにも起きない。

 起きるものか。いや、起きたところで信長を殺させはしないぞ、明智!




 数時間前。


 みずからの領地である丹波亀山城にいた明智光秀は、出陣準備が整った自軍を前にして、じっと宙を見つめていた。


 なにかを考えているのは誰の目にも明らかだった。

 だが、ただ空を見上げているわりには、その表情があまりにも鬼気迫っていたので誰も声をかけられなかった。――このとき、10000を越える明智軍の中には、ひそかに男装した石川五右衛門や、また信長が放った間者が複数、忍んでいたのだが、その存在には誰も気が付かない。


 そのときだ。

 家臣のひとりが光秀に駆け寄って、何事かをささやいた。

 すると光秀は、くわっと目を見開いた。


「まことか」


「まことでございます。……なぜ、あの者がかような……」


 ささやくような会話は、すぐ隣にいた斎藤利三にもよく聞こえなかった。

 やがて、光秀に耳打ちした家臣はその場を去った。光秀はなお、空を見上げた。


 目が血走っている。

 プルプルと、小刻みに身体が震えた。

 光秀は手を挙げた。再び家臣が駆け寄った。光秀は指示を下した。


「馬の早い馬を、10頭、用意せよ。さらに、乗馬が達者な上、夜目が利き、鉄砲の扱いに長けた者も9人、用意せよ」


「はっ」


 家臣はすぐに、準備を始めた。

 明智家の重臣、斎藤利三はついにたまらなくなり、


「殿。何事をお考えでござる。……我が軍は備中の羽柴様を助けに行く手はずでは……」


「いや」


 光秀は首を振った。

 そして、口を開く。


「我らの敵は毛利ではない。もっと大きな敵がいたのだ。……何十年も前に出会ったときから、同じ天下を抱くことができぬ、不倶戴天の大敵が。あの男……あの男だけは許容できぬ。決して許すことができぬ……」


「殿。なにを……」


「聞け、斎藤。……近ごろ、この十兵衛は冷や飯を食わされておった。甲州征伐では戦ができず、四国攻めの大任を奪われ、九州攻めも羽柴に奪われそうな日々。ましてこの度、羽柴軍の援軍など、あの猿面冠者の下風に立つような上様のご命令。あまりにも屈辱……。


 さらに言えば、実力こそすべてというわしの考えに、確かに一度は共鳴されたはずの上様であるのに、近ごろはまた考えを変えてしまった。あの足利義昭を生かして家来にするなどと、手ぬるいことを……。


 上様からの御恩は消え失せ、もはや理想も重なることはない。

 ならば、もはや織田家の家来たる意味もない。この十兵衛はいっそ、上様にお手向かいしようかと考えていたのだ……」


「殿。……殿!」


「だが聞けい、斎藤! 最後までよく聞くのだ。いま、わしのもとに知らされた情報は、あの山田が、山田弥五郎が、本能寺に入ったという知らせであった! なんということか……なんという――。


 わしは上様が上洛されたと聞いて、いつものように本能寺に泊まっていると思い、本能寺を襲うつもりでいた。だが山田はそれを読んでいたのだ。このわしが、本能寺にいる上様を殺すつもりなのを、やつは読んでいたのだ。あの男! あの男、あの男、あの男……!」


「それは……奇怪ですな。なぜあの男、そこまで先読みができるのか……」


「…………」


 光秀は黙った。

 斎藤利三には理解できないことだろう。


 あの山田弥五郎は本当に未来人であり、自分の謀反を知っていたのだ。だからそういう行動に出た。信長が自分を遠ざけたのも、近ごろ山田弥五郎が信長と接近しているのも、おそらくすべてやつの計算の内――


「やつは許せぬ」


 光秀は、目を剥いた。


「あらゆることが許せぬ。……いや、ずっと前から許せなかったのだ。やつのことを、この光秀は決して受け入れることはできぬのだ。あのときから、ずっと――」


 何十年も前に、京の都で山田弥五郎と出会ったときから感じていた不快感が爆発した。

 また、光秀が知る由もない竹中半兵衛最後の怒りが憑依さえしていた。やつは未来人だ。我らの歴史をきっと操った。未来を知っているあの男は自分の思うようにするために歴史を操作した。その結果、いま自分は織田家の中心から離されて――


「斎藤。わしはやつを、この天下から取り除く。そうすれば、上様もまたこの光秀と共鳴してくださるはずだ。やつが要らなかったのだ。すべてはやつのせいなのだ。君側の奸とはまさにやつのことを言うのだ。山田弥五郎――


 聞け、聞けいっ、皆の者。

 よく聞けい!! 我らは上様のお下知により、備中高松城にいる羽柴筑前の援軍に向かう手はずであった。


 だが、そうはしない、しないのだ。

 我が敵は毛利家にあらず。わしの倒すべき敵は備中にあらず。

 敵は――




 敵は本能寺にあり!!




 ……」




 いま、光秀の脳裏には、本能寺でほくそ笑んでいる山田弥五郎の姿が浮かんでいた。







「……本気か」


 明智軍の中にいた石川五右衛門は、小さくうめくと。

 気配を殺し、明智軍の中からそっと離れ、都へと向かった。

 

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