第31話 時は今

「明智。そちには」


 信長は言った。


「羽柴への援軍を命ずる。ただちに領国へと戻り、軍勢を整えよ」


「羽柴殿への……?」


「そうだ。羽柴はいま、備中高松城を攻めておるが、やがて毛利家の本軍が高松城救援のためにやってこよう。それを余がみずから撃退するつもりだが、そちにも出陣を命ずる」


「それは……」


 明智は小刻みに震えた。

 無理もない。これまで四国を攻めるか、義昭を討つかという話をしていたのに、援軍を命じられたのだ。芝居でいえば、主役から脇役に落とされたに等しい。


 たった半年前まで、明智光秀は織田家中の出世頭だった。四国の長宗我部氏への対応も、和戦いずれになるにせよ明智が受け持つと誰もが思っていた。それが、四国攻めも義昭攻めもなくなってしまった。


 その理由は――

 無論、俺が動いたからなのだが……。


「明智。そちを軽んじているわけではない」


 信長は、落ちついた声で言った。


「そちにはそちの役目がある。……これより以後、毛利軍との激戦となれば、必ずそちの力が要る。……羽柴が備中ならば、あるいは毛利軍は山陰方面から進軍してくるかもしれん。そうなれば、そちの出番だ。出雲、石見のあたりでそちと毛利軍が戦うことになろう。その戦に勝利したあかつきには、出雲、石見の両国をそちに与えよう」


 信長にしては多弁である。

 明智へのフォローであることは明白だった。

 信長なりに、できれば明智に謀反されたくないと思っているのだろう。


「……すべては」


 そのとき明智は、大きく平伏し、


「すべては上様のお下知の通りに。明智十兵衛、羽柴殿への援軍を編成いたしまする」


 明智光秀は、淡々とした声で言うと、


「しからば、御免」


 立ち上がり、その場を去っていく――その背中を見た瞬間、俺はゾクリとした。鬼気迫る、という日本語があるが、まさにその鬼気だ。怒りと屈辱で心の中がいっぱいになった男の背中だ。俺には――俺には分かるのだ。前世で嫌と言うほど、他人に虐げられた俺には、他人が持つ負の感情が、悲しいほどに読めてしまうのだ――


「余は努力したぞ」


 信長は、目を細めて言った。

 俺と信長、二人きりの天主を。

 しいんとした、張り詰めた空気が支配する。


「あれで反逆をされては、たまらぬ」


「もちろんです。……」


 と言いつつ、あの誇り高い、そして実力主義者の明智光秀がこのようになるのは、この上なく屈辱的なことだろうと俺には分かった。


 実力こそすべての天下を明智は望んだ。

 ならば、その天下において自分が排されるのは、自分に実力がないからだということになる。

 それは明智にとって、残酷なほど辛いことだろう。


 だが、こうするしかなかった。

 理屈は色々と並べられるが、結局のところ。

 俺と明智光秀は、望む天下の形があまりにも異なるのだから。


 お互いに、相容れない存在だったのだから。

 恐らく、二十何年も前に、京の都で初めて出会ったあの時から。




 信長のいる天主から退場し、人気のない廊下に戻ると、四人の人影が現れた。

 伊与、カンナ、五右衛門、次郎兵衛の四人である。


「次郎兵衛」


「うっす」


「ただちに備中に向かえ。そして和田さんと連絡を取り、……都で万が一のときはただちに救援をするように依頼。その後は次郎兵衛――お前は藤吉郎についていてくれ。なにかあったときに、守ってやるようにな」


「……うっす!」


 次郎兵衛は、すぐに出発した。


「次に、五右衛門」


「あいよ」


「嫌なことを頼みたい。引き受けてくれるか」


「話次第だね」


「明智光秀を影から見張ってほしい。そしてやつが怪しげな行動をとったら、ただちに俺と信長に知らせ――その上で、可能なら、……明智を斬ってくれ」


 俺の言葉に、五右衛門ではなく伊与とカンナが目を見開いた。

 五右衛門は涼しい顔をして、


「うちは泥棒であって、殺し屋じゃないんだけどね。まあ、でもその役目はうちにしかできないか」


「すまん」


「引き受ける。と言いたいが、ひとつだけ条件があるよ」


「なんだ?」


「もう少ししたら、なにか起きるんだろう? それが終わったら、うちと、……うん、それと次郎兵衛。ふたりにちゃんと話してくれよ。あんたの正体を」


「…………」


 今度は俺が目を見開いた。


「あんたの正体が、ただものじゃないのは昔から薄々気付いていた。ただの商人とは思えない。……あんたは一体何者なのか、なにを考えてこの乱世を生き抜いているのか、それをうちらにもちゃんと教えてくれ。……そろそろ長い付き合いだし、それに、仲間だろ? うちらは……」


「……。そうだな。そうするよ。……必ず話す。だから……」


「その言葉で安心。それじゃ、行ってくるよ。任せときな」


 五右衛門は、白い歯を見せてその場を去った。


 俺と伊与とカンナが残る。


「俊明。私はどうしたらいい?」


「伊与は俺と一緒にいてくれ。本能寺の流れ次第だが、俺たちは信長の護衛として待機しておきたい」


「承知した」


「あたしは……」


「カンナは商務だな。こんなときだが、商売や兵糧の輸送を止めるわけにはいかないし……」


「かしこまり。と言いたいんだやけど、あたしからはひとつだけお話があるとよ」


「話……?」


「うん。筑前博多から、博多商人を呼ぶ話、しとったやろ?」


「……ああ! 神屋宗湛さんに、島井宗室さん! そうか、あのお二人が……」


 確かに博多商人のふたりが上洛してきて、会う話になっていたな。

 ちなみにこれも歴史的事実だ。神屋さんたちは都にやってきて、信長と面会し、その後、本能寺の変に巻き込まれ、命からがら逃亡する流れになっている。


 その流れがどうなるかは分からないが、神屋さんたちと信長の対面は俺が取り次ぎしないといけないな。前々からの約束だったからな。


 カンナに言ったセリフじゃないが、こんなときだが、商売を止めるわけにはいかないからな。


「分かった。神屋さんたちとはまず俺たちが会おう。その上で信長との面談を取り次ぐ」


「かしこまり。……本当にこんなときやけど、あたしはちょっと楽しみよ。お父さんの住んでいた博多の人と、ついに会えそうなんやけん!」


「そうだよな。俺も楽しみだ」


 カンナの笑顔を見て思った。

 天下は泰平に向かおうとしている。

 その流れを止めるわけにはいかない。




 明智光秀は京都の愛宕山にいた。

 信長に下された、援軍の命令には従った。


 軍勢10000を編成した。特に鉄砲にはこだわった。火縄銃本来の射程よりも遠くを撃つことができる改良型の火縄銃だ。銃口を中心に光秀みずからが改良案を出した逸品である。……山田弥五郎の作った鉄砲を参考にしたものだった。


 その光秀。

 忍びを、京の都や安土に飛ばしている。


 特別な行動ではない。常に朝廷や公家衆、都の民衆、さらに信長の動きを探るために、光秀は昔から常に忍びを飛ばして情報を得ている。自分だけでなく、信長だろうが秀吉だろうが、誰であろうがよくやっていることだ。


 報告を受けた。

 博多商人が上洛し、山田弥五郎と面会。

 やがて信長と顔合わせをするとのことだった。


(大した話ではない)


 あの蜂楽屋カンナが博多商人の娘だったはずだ。

 その繋がりで博多商人を呼べたのだろう。それほど重大な話ではない――


(……いや……)


 光秀の思考は急旋回した。


(博多。筑前博多といえば、羽柴が筑前守だったな。そして羽柴と山田は親しい。このままいけば筑前博多の取り次ぎは羽柴と山田が受け持つか。……北陸は柴田、関東は滝川と徳川、四国はあの丹羽。そして中国から九州は、羽柴と山田。自分はどうなる。……)


「殿」


 声がした。

 振り返る。家臣の斎藤利三さいとうとしみつが控えていた。


「四国攻めの件、何故なにゆえ、上様にもっと強く進言なさらなんだ」


「……不満か」


「おおとも、不満ですじゃ。四国の長宗我部のことは常に殿が取り仕切っておったはず。この斎藤の妹も、長宗我部の正室となっているのに」


 事実であった。

 四国の長宗我部元親、その正室はこの斎藤利三の妹であった。

 光秀が長宗我部関係の話を取り次ぎしていたのは、その縁もあった。


「だというのに、長宗我部のことを丹羽なんぞに取られて。……家中の者は皆、憤慨しておりますぞ。上様にもっと訴えるべきだ、安土に押しかけてでもご不満をきちんと告げるべきであると」


「口を慎め、斎藤。そのような話題、どこで誰が聞いているかも分からんぞ」


「……はっ……」


 斎藤利三は、平伏して場を去った。

 光秀はまだ一人になった。


 雨が降ってきた。

 光秀は無言で首を振る――


(なぜ、俺の人生にも雨が降り始めた。ほんの少し前まで、上様の覚えもめでたき自分だったではないか。それがなぜ、このような。……上様を恨むわけにもいかぬ。だが、だが。……誰かに讒言でもされたのか……?)


 かつて、自分が佐久間信盛を排したように。

 誰かが自分を排そうとしているのか? まさか。まさか――


「明智様。そろそろこちらに……」


 若侍に声をかけられた。

 光秀はうなずき、そのまま愛宕神社の西坊に向かい、入った。


 連歌の会が、開催されようとしているのだ。

 前々から決まっていた催しである。光秀のほか、親しい者たちが集まって連歌を行う集まりである。

 連歌のテーマは毛利家に対する戦勝祈願であった。


 光秀は連歌の会に参加し、素直に心の内を詠んだ。


「ときは今 あめが下しる 五月かな」


 雨が降ってくる五月の風景を、天(あめ)が下しる、という――すなわち、織田家が毛利家に勝利して天下を取る、いまがそのときだ。という意味を込めて詠んだ――




 ぞくり。




 と、きた。




 ときは今……。




 とき、という言葉に光秀の心はざわついた。

 とき。時。時はいま……。


(山田弥五郎は未来人だ)


 竹中半兵衛の言葉がふいに蘇った。

 時をこえて、この世界にやってきたという男、山田弥五郎。


 まさか、と思ったこともある。

 本人に確かめたこともある。違うと言われた。そうだろうか。そうだろうな。いや、しかし――複雑な思い。あまりに突拍子もない、竹中半兵衛の言葉でなければ一笑に付す類の言葉を、光秀はいま思い出してしまった。


(時。時を越えた男、山田弥五郎。やつが俺を排したか? 佐久間の一件の仕返しか? いや、違う。なにか、もっとなにか重大な――そう、時を越えた先にある世界のために、未来のために、この俺を排そうとした? そうと思えば合点がいく――


 今年の初めごろから、上様と山田はずいぶん親しく話をするようになったと言う。どんなときでも山田、山田、山田弥五郎、となった。その結果、武田攻めでも明智軍は出陣できず、そして四国の役目も奪われた。偶然か? 偶然と呼ぶにはあまりにも!


 未来……。

 やつは本当に未来から来たのか?

 それが本当だとしたら、織田家は、天下は、この俺はいったい……。


 確かめねばならぬ。

 いや、手ぬるい。それだけでは駄目だ。

 時と場合によってはあの山田弥五郎。……討たねばならぬか!)


 初めて会ったときから、なにか合わないものを感じていた。

 共に戦ったこともあれば、同じ飯を食ったこともある。命を助け合ったこともある。


 だが、それでも。

 なにか噛み合わぬ男、山田弥五郎!


(やつが本当に未来人ならば) 


 光秀はくちびるを噛みしめた。

 他の者の連歌など、もう耳に入っていなかった。


(未来の知識をもとにして、天下を動かそうというのならば、なんと歯がゆいことか。時はいま! 時はいま――時はいまの人間のものだ!! 未来の人間のものではない!!)


 光秀の心に、炎が灯った。

 時は今。時は今。時は今の人間のもの――




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る