第26話 武田攻め朝廷工作
1582年(天正10年)は、正月から多忙だった。
織田家の天下布武が、総仕上げの段階に入っていた。
滝川一益や徳川家康が、武田家を始めとする東方の攻略を続けている。
そのために俺は兵糧や武具、火薬、弾薬を準備してはせっせと東に輸送していた。
さらに、備前国の戦国大名、宇喜多直家が秀吉の手によって織田家に完全従属。
直家は去年の2月に病死していたため、その後は嫡男の秀家が継ぐことになった。
秀吉はこの秀家が宇喜多家を継いでいいかどうか、わざわざ安土城までやってきて信長の意思を確認している。信長は、秀家の宇喜多家相続を認めた。
「間もなく、於次丸の――羽柴秀勝の初陣もとり行う」
安土で俺と会った秀吉は、得意げにそう言った。
於次丸はこのころ元服し、
「敵の事情もあることゆえ、いつとは明言できぬが、まず来月か再来月。毛利方とやり合うたときに於次丸を出すつもりじゃ。弥五郎、汝も手が空いているなら参れ」
「初陣だけが理由じゃないんだろう? 恐らく他にも俺を呼ぶ理由が」
「相変わらず察しがいいことよ。その通り。官兵衛とも話しおうたが、今年の春先には毛利方の備中高松城を攻めるつもりじゃ。……その城攻めは、水攻めでいこうと思うておる」
やっぱりか。
戦国史に名高い高松城水攻め。
低地にある高松城を攻めるため、近くの川をせき止めて、高松城一帯を水で沈めて敵の士気を削ぎ、さらに兵糧攻めの効果までもたらす奇策だ。
「その水攻めを行うには土と人手がいる。神砲衆が手伝ってくれるならばこんなにありがたいことはない。……ああ、上様にはすでにお許しをいただいておるから、そっちは気にせんでいいぞ」
「なんだ。それならもう、話は九分まで決まったようなものじゃないか。この流れでは断れないぜ」
「断る気もなかろうが。……ん?」
秀吉はニヤニヤしながら、俺の顔を覗き込んできた。
俺は思わず噴き出した。
「顔が近いぞ、藤吉郎」
「ふん、冗談よ。……ははは、わしは男に顔を近付ける趣味はない」
「女なら近付けるがな」
「むしろなめ回したいわい」
「またねねさんに叱られるぞ」
「そりゃ勘弁じゃ。あいつは怒らせると上様よりも怖い」
また軽口の応酬になってしまった。
ふざけている場合じゃない。今後のことを話さなければならない。
「水攻めの手伝い、喜んでやろう。と同時にもうひとつ、提案したいことがある。……公方のところにいる和田さんと連絡を取らないか」
俺は低い声で言った。
秀吉は片眉を上げて、
「……和睦をせい、ということか?」
「毛利家はもはや限界だ。そろそろ降伏したがっている。ここらで和田さんや公方を通して和睦をするのもひとつの手だぞ」
「……そういうときのために、あの和田惟政と繋がっておることゆえな。しかし、あの公方はのう……。あれがおるから、毛利家とて引くに引けんのじゃぞ?」
「それもそうだ。しかし高松城まで落ちれば、あの公方もさすがに口は挟めまい」
「弥五郎、汝は甘い。ああいう男はな――いや、長話になる、よそう。……和田殿を通じて公方や毛利と和議を進めること、悪くない。そうしよう。……弥五郎、汝は和田殿と親しい。使いを飛ばしてくれるか?」
「承知だ。次郎兵衛を今日にも発たせる」
「頼んだぞ。……いよいよ毛利攻めも総仕上げじゃな!」
秀吉はニコニコ笑っていたが――
俺が和田さんと連絡を取り合う理由は、毛利家との和睦だけが目的ではなかった。
それは――
「甲賀の忍びを、上様の護衛に使う?」
伊与が叫んだ。
秀吉と会った翌日の、安土山田屋敷。
その一角で、俺と伊与とカンナは集合し、またも打ち合わせをしていた。
「そうだ。……いいか、これから本能寺の変が起きるとする。……起きないのが一番なんだろうが、おそらく起こる。本能寺ではなくても、明智光秀が謀反を起こすとする。そのとき神砲衆は全力で信長を守る。……しかし俺たちだけで明智勢と戦うのは無謀だ。そこで和田さんの家来や、和田さん自身の手を借りたい。和田さんの配下の甲賀忍者の力をもってすれば、上様を守り、安全なところへお連れすることもできるはずだ」
「甲賀忍者やったら、昔、あたしたちとも一緒に戦ったけんね。まだ知り合いも少しはおるやろ」
カンナが微笑と共に言う。
もう20何年も前の話だが、確かに俺たちは甲賀で戦ったことがあった。
彼女が言っているのはそのときの話だろう。
「しかし、俊明。和田さんとその配下の甲賀忍者は動いてくれるだろうか?」
「くれるさ。和田さんは俺たちに恩返しをしたいと言っていたし、それに、ここで和田さんが上様を守れば、上様も和田さんのことをお許しになる。また、その手柄をもって公方と上様の仲立ちもできる――と、和田さんは考えるはずだ」
「そういうことか。……いや、公方と上様が仲直りできるかというと、そこが一番怪しい気がするが……。しかし和田さんだけに限れば、確かに動いてくれるだろうな」
伊与は大きくうなずいた。
カンナも首を縦にうんうんうなずいたが、
「やけど、一番は本能寺を起こさんようにすることよね。……あんた、上様に自分のことを打ち明けるって言いよったけれど、あれはいつするん?」
「それなんだ。どう打ち明けるべきか、真剣に考えている。しかも打ち明けた結果、明智光秀が謀反をするという話を、はたして信長が聞き入れてくれるかどうか」
いま、織田家中で信長の信頼が特に厚いのは、秀吉と俺――それに明智光秀だろう。
近ごろ、四国の長宗我部氏への対応をどうするか、信長と明智光秀の間でよく話し合いがなされているようだ。信長と明智では意見が合わないこともよくあるらしいが……。
だからといって、即処罰、即謀反、とはならないわけだ。
相変わらず、信長は明智光秀を気に入っている。
ここで俺が『転生者でございます。明智が裏切ります』などと言っても、そう易々と通るとは思えない。打ち明けるタイミング、話の持っていき方ってものがあるわけだ。
「だからといって、本能寺が起きるのは6月。それほど時間に余裕はないしな」
「そもそも本当に6月に起きるのか? 歴史が変わって、もっと早くなるかもしれんぞ」
「これまでの経験上、歴史上の出来事はそうそう日付けが動くことはないが」
「やけどあんた、桶狭間の話があったやん。あれ、あんたが知っとる話よりもずいぶん早く始まって、おかげで織田家が滅びかけたやん」
「……それもそうだな」
カンナの言葉はもっともだった。
桶狭間のときのようになったら、一大事だ。
「やはり、早く信長に俺のことや、本能寺のことを伝えるべきだな。ダラダラしていてはろくな結果にならない。――いま、信長は天主にいるかな?」
「いや、先ほど屋敷の中の者に聞いたが、いまは京の都のほうに出向いているそうだ」
「都、というと……武田攻めの朝廷工作か」
俺は史実を思い出した。
この時期、東の武田勝頼を攻め滅ぼすために、信長は大義名分を得ようとしている。
そのための朝廷工作だった。信長は朝廷に働きかけて、武田征討の勅命を得ようとしているのだ。
結果を言えば、この工作は成功する。
来月――つまり2月に、正親町天皇が『朝敵・武田勝頼を討て』との命令を出す。
信長はその命令に従う(という名目で)、嫡子・織田信忠を中心とする甲斐遠征軍を編成。武田勝頼を倒そうとするのだ。
俺の記憶が正しければ。
この武田攻めの工作。中心となってやったのは確か、
「明智光秀……!」
伊与とカンナが顔を上げた。
「するといま、上様は明智と京の都で会っているということか?」
「間違いなく、な。……それだけ明智は信長からの信頼が厚いんだ」
「どうするん、弥五郎。あんた――」
「むろん都に上る。明智の様子見、信長との対面。すべて俺自身がこの手で行う!」
そして俺は、もしも史実通り本能寺が起きたとき、信長をどのように逃がすかも考えておこうと思った。
かつて和田さんを死の運命から救ったように。
人の命は救えるのだから。
なんとしても。
俺は信長を助けてみせる。
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