第22話 駆けずり回る天下人
安土城の天主に向かうと、夜だというのに信長は会ってくれた。
「山田か」
「はっ」
俺と伊与とカンナは揃って、仁王立ちになっている信長を前にして平伏する。
天主は四方が開け放たれ、夜風が入り込んでくる。部屋の四隅に取りつけられたあぶらの灯火のために、部屋の中だけは夕方くらいに明るい。
「いい眺めだぞ、この天主は。星と月に照らされて、地球のすべてが見えるようだ」
信長は片手に小瓶を抱えていた。金平糖だ。
金平糖をかじりながら、夜空を眺めていたのか。
「山田、堤、蜂楽屋。構わん、立て。立ち上がって、共に地球を眺めようぞ」
「は――」
言われて、俺たちは戸惑いつつも立ち上がる。
信長と共に、まさに夜の地球を眺めた。
安土城の天守から見える夜の外界は、明かりなどほとんど見えず、ただ闇、闇、闇。
しかし、空の彼方で弓形に光る下弦の月と、数多のまばゆい星たちが、琵琶湖から世界の隅までを照らし出してくれている。はるか彼方がほんのりと丸い。
「綺麗……。どこまでも星が続いていこうごたる……」
「そうだろう。手を伸ばせば、天の川さえ削り取って、余のものとできそうだ」
「それも素敵です。織姫と彦星がいつでも会えるようになりますけん」
「ん? ……はっはっは……! で、あるな……!」
元より女性に対しては妙に優しい信長だが、今夜は特に上機嫌である。
「堤、蜂楽屋。手を出せ」
と、信長が言ったので、ふたりは両手をおずおずと出す。
すると信長は、小瓶から金平糖をいくつか出して、伊与たちに渡した。
「こ、これは……上様……」
「かじれ。甘くて美味い。……山田にはやらんぞ。どうせ家にいくつもあるだろうからな」
「いえ、いくつもは……そんな……」
俺はわずかに笑いながら、頭を下げた。
伊与とカンナは、少し戸惑いつつも金平糖を食し、また夜景に目をやる。
未来の世界じゃ、この夜景は無理だな。
地上が明るすぎて、月や星の明るさが消えてしまう。
そもそも空も空気が汚い……。
さて、いい雰囲気だが。
俺は信長と夜景を見るために、ここまで来たわけではない。
「上様。俺は――」
「佐久間たちのことならば、聞かんぞ」
信長は夜空を見つめたまま、答えた。
「大方、その話と思っていた。……佐久間はだめだ。あの男はもうおしまいだ」
「佐久間さんにも、至らぬ点はあったと思います。しかしすべてを奪って追放はあまりにも。……せめて1万石か2万石などの石高で、なにか他のお役目を」
「たわけ。やつには至らぬところしかないわ。戦をやらせても下手、調略をやらせても下手、余に相談もこず、金ばかり貯め込む欲まみれ。その上、余と長い付き合いであるのをいいことに、口ごたえまでしおった。……余はずいぶん我慢してきたのだぞ。……だが、もう我慢はいらぬ。本願寺も我が軍門に下ったいま、佐久間のような輩は……いらん」
ごくり……。
と、小さく金平糖を飲みこんだ音が聞こえた。伊与のものだ。
緊迫した空気が天主の中に漂う。
「分かったか、山田」
「……いいえ。……これは佐久間さんだけの問題ではないのです」
俺はなおも、続けた。
「佐久間さんは何十年と織田家に仕えた老臣。それがこうまであっさりと捨てられるとなれば、他の家臣たちも不安になりましょう。
人間はみんな老います。
そして年老いたあと、役に立たなくなったら捨てられるのか。お役目で失敗をすれば無一文で追放されるのか。なにか一言でも意見をすれば、上様に逆らったとして追放されてしまうのか。
誰もが不安になり、安心して織田家のために忠誠を尽くすことができなくなります。
上様。……誰もが上様や、あるいは藤吉郎や明智十兵衛のように、機転が利くわけではないのです。どれほど頑張っても、できぬ者は出てきます。老いてしまう者も出てきます。ならば、ならば……せめて、今少し温情のある措置を、ご一考願えませんでしょうか!?」
「……。……山田」
信長は、静かな口調で俺の苗字を呼ぶ。
「余はそちに、いま、7000石しか与えておらぬな?」
「……はっ」
「その代わりに、織田と徳川の領地領海を自在に動き回り、領内の大名や豪族、さらには座の商人とも交渉、交易を行う権限を与えておる。そして、その交易によって出てきた上がりの半分以上を、山田弥五郎と神砲衆に与えている。これにより、そちは膨大な富を得ている」
「しかし、その富は」
「分かっている。そちは意味も無く貯め込んだりはしていない。得た富で、さらに武具や馬具、道具を作り、情報を手に入れ、当家に提供してくれておる。ときにはそこの堤伊与に命じて、いくさの援軍。ときにはそこの蜂楽屋カンナに命じて兵站の役目を任せてもいる。……そうだな?」
「……はっ」
「だが、山田に任せているのはそこまでだ。富はくれてやる。しかし権限と石高は渡さぬ。渡しておらぬ。なぜか。……前に、言うたことがあるな」
俺は、信長の言葉を聞いてはっとした。
「俺は、弱者に肩入れしすぎる……」
「そうだ。弱いものと強いものが争えば、すぐに弱い方を正しいと見てしまうのがそちの悪いくせよ。人間としては見上げたものだが、……強い権限は与えられぬと思うた。いま、まさにそうなっておる。
佐久間はならぬ。本人が役立たずなだけではない。息子もだめだ。金ばかり貯め込むことを考えている。この信長の目指す天下には要らぬ輩よ。
そして山田。……1万石でもくれてやってのんびりさせてやれとも言うが、甘いことよ。それこそ他の家臣たちへの示しがつかぬ。……手を抜いて働き、大した成果をあげることができずとも、最後は田舎で楽隠居が出来る。となれば誰もが手抜きを始めよう。
いまの佐久間を見て、他の家臣たちが不安になるかもとそちは言うが、逆じゃ。
ほかの家臣たちは、いまの佐久間を見て『ああはなるまい。追放されぬように自分は必死に働かなければ』と気を引き締めるのだ。
山田。
天下が泰平ならば知らず、なお乱世は終わっておらぬ。
やる気も能力も見せぬ輩にくれてやる扶持など、1石たりとて存在せんわ」
「ですが、佐久間さんは――」
「くどいぞ、山田!」
信長は、ついに声を荒らげた。
「よいか、余は天下布武の大義を掲げて戦い続けておる。応仁以来、百年続いた大乱を終わらせようとしているのだ。どれほどの難事業か、分からぬそちでもあるまい!
まだ天下布武は終わっておらぬ。ひとつ気を抜けば、天下はまた荒れ狂った昔に逆戻りよ。そちや堤が生まれ育った村のように、野盗が暴れ回って
まだ乱世よ。乱世なのだ。そんなときに、佐久間のような者のために捨て扶持をくれてやる余裕などない。そんな米や金があるのなら、戦に使うか、あるいは働いている者の褒美にくれてやる。……このようにな」
そう言って信長は、伊与とカンナの手を、みずからの両手でぎゅっと握った。
伊与たちは、信長がいきなり触ってきたので、恐れ多さと緊張でさすがに言葉もなかったようだが――
信長が、その手のひらで包み込んだ、二人の手の中には。
まだ、先ほどの金平糖が残っているのだ。
佐久間信盛にくれてやる金があれば。
その金を褒美としてくれてやったほうがいい、と。
伊与やカンナのような、頑張っている者たちに、夜景と金平糖を与えたほうがいいと……。
「山田。今日のことは忘れる」
信長は、もう、落ち着いた声になって、
「そちも、佐久間のことは忘れよ。そして明日からまた励め。よいな」
「…………。……ははっ」
俺たち3人は、その場で頭を下げた。
そして天主を退出したが、……出ていく直前に、そっと振り返る。
信長はなお、夜風に吹かれて仁王立ちになり、俺たちに背中を見せていた。
「……アンタはようやったよ」
安土城の廊下を歩きながら、カンナが言った。
「藤吉郎さんならともかく、そんなに親しくしていたわけでもない佐久間さんのために、ああして上様に意見したんやもん。偉い。弥五郎は見上げたもんばい」
「俊明の言い分も分かるが、上様のおっしゃったこともまた一理があった。……まだ乱世は終わっていないのだからな。捨て扶持を与える余裕などない、か……」
伊与とカンナを従えて、人気のない廊下をゆく。
信長の言い分も、伊与の言う通りもっともなものだ。
……前世で、正社員になれず、使い捨てにされる人たちをさんざん見てきた俺だ。
剣次おじさんだって、そんな感じだった。
だからつい、佐久間さんみたいな話が出てくると、カッとなって……。
「だがな、こうなることは分かっていたんだよな。分かっているならもっと早く、いろいろと手を打てばよかったんだろうが……。相手が信長だし、これも史実だと思うと、なかなか動き方が分からなくて――」
「しっ。……弥五郎」
「ん」
カンナに言われて、会話をやめる。
廊下のはるか彼方に、……明智光秀の姿が見えた。
若い、小姓らしき人間をひとり連れているが、……天主に向かっているのか?
「明智光秀……」
俺はふと思い出した。
佐久間信盛の追放は、明智光秀の
と、そういう説があることを。……あくまで説のひとつだ。それも戦国時代が終わってから出てきた説だったと記憶している。
だから、違うかもしれないのだが。
「…………」
明智光秀が佐久間信盛の追放に暗躍?
まさか。……そうだとしたら、なんのために?
なんのために……。
『考えすぎだろう。明智殿ならばオレといっしょに大和にいる。いつもの通りだぜ』
と、こんな感じの手紙が滝川一益から送られてきた。
佐久間さんが追放されて、1ヶ月が経った9月のことだ。
滝川一益は明智光秀とふたりで、大和国(奈良県)に赴いている。
大和国の武士や公家、寺社に、所領の石高がいくらなのか教えろと言うためである。いわゆる『
安土に近い大和国は、松永久秀が支配していたが、その久秀もいなくなり、いよいよ織田家の支配が強化され始めている。
さらにこの年――1580年(天正8年)の11月には、北陸の柴田勝家が、織田家に敵対していた加賀一向一揆の指導者たちを討ち取り、その首19個を安土城へと送った。
――乱世はまだ終わっておらぬ
という信長自身の言葉とは裏腹に、天下は急速に平穏へ向かいつつあった。
だからだろうか。
翌年、1581年(天正9年)の1月15日。
信長は安土城下で、
左義長は祝義物を炎で焼いて、招福と魔除けを願う行事だ。
21世紀でも『どんど焼き』として伝わっている。
その左義長で、信長は――
ばんばんばん、ばぁん!
ばばばばん、ばぁん!!
「はっはっは! わっはっはっは! 続け、又左! 愉快だぞ! はっはっはっは!!」
「ち、ちょいちょい、上様、はしゃぎすぎだっつーの。年齢を考えてくださいよ!」
「構わん、余とそちならばおおいにはしゃごうぞ、昔のように! はっはっはっは!!」
ばんばんばん、ばぁん!
ばばばばん、ばああああぁん!!
「山田、もっとだ、もっと爆竹を鳴らせい!」
「ははぁ!」
「ははあ、じゃないぜ。おい佐々。なんだよ、こりゃあ……」
「知らん」
俺の両脇で、滝川一益と佐々成政が呆れたように景色を眺めていた。
この左義長の現場には、信長、俺、伊与、カンナ、あかりのほか、北陸の情勢を知らせるために安土に帰還していた前田利家と佐々成政、さらに滝川一益もいたのだが――
信長は左義長ことどんど焼きの炎の周りを、前田利家や他の若衆と共に馬にのって駆けずり回っているのだ。……しかも、俺の作った爆竹をガンガンに鳴らした音を、バックミュージックとしながら。
左義長が始まった当初、信長は南蛮傘をかぶり、紅色の絹を羽織って、安土の町衆といっしょに歌ったり踊ったりしていたが、やがて馬が登場すると、いてもたってもいられなくなったのか、前田利家や若い侍を誘って、爆竹を鳴らしながらの乗馬を始めてしまったのである。
「でも上様、あんなに楽しそう。……お姿を拝見したのは何年ぶりでしょうか。まるで年を取っていないみない。……あ、滝川さま。はいこれ、おもちです」
「おう、ありがとな、あかりちゃん。……まったく、あれじゃ上様も『うつけ』そのものだぜ」
「昔はもっと酷かった。おなごの格好をして馬を乗り回しながら、火縄銃を空に向かってぶっ放したことがあった」
「うげっ。それ本当かよ、佐々」
「本当だ(こくこく)」
「な、なしてそげなことしたっちゃろ、上様」
「したかったのだろう。ただそれだけだ。そういうお方だ」
「そういうことを、四十過ぎてもやるんだもんなあ、上様は……」
馬に乗って走り回る信長を、俺たちは呆然と見つめる。
民衆も、おおおおお、と声をあげていた。
「山田っ!」
「は、はい!」
「爆竹をもっと鳴らせ、もっとだ!」
「……お呼びだぞ、俊明」
「みんな、少しは手伝えよな! ……それっ!」
ばんばんばん、ばぁん!
ばばばばん、ばああああぁん!!
……ばぁん!!!!
「ははははは……! 気持ちいいぞ、山田! はっはっはっは……!!」
火炎の横を駆けずり回る信長。
佐久間信盛を冷徹に追放したかと思えば、爆竹といっしょにはしゃぎ回る、不思議な天下人だ。
俺たちはそんな信長を、呆れたように、……しかし少しだけ、その若さを羨ましく思いながら眺めるのだった。
そして眺めているのはもうひとり。
俺たちとわずかに距離を置いた場所で、家臣たちと共に信長を見つめる眼差し。
明智光秀だ。
いま信長のために鳴らしている爆竹は、半分は俺が作ったものだが、もう半分は明智光秀のものだ。
明智光秀はなにも言わず、ただ無言で信長を見つめている。
本能寺まで、あと1年半。
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