第38話 信玄を討て!
「信長は人ならず」
武田信玄は、そう言って、
「これを討つことが天下と将軍家のためなれば、武田も兵を起こし信長を打ち倒すまで」
織田家の領土への進撃を開始した。
1572年(元亀3年)、秋のことであった。
「来たか、山田」
岐阜城内にある謁見の間で、俺と伊与とカンナは、信長に対面した。
「武田が動きました」
「知っておる」
俺が言うと、信長はうなずいて、
「信玄は軍をふたつに分け、攻めてくるつもりだ。ひとつは我が領土の美濃へ。もうひとつは、徳川家が治めている遠江へ」
「美濃における戦場は、おそらく岩村城になるでしょう。あそこは信玄領に対して最前線の位置になります」
「分かっておる。余は岩村城にも徳川家にも、援軍を送るつもりだ」
だが信長の顔色は冴えない。
無理もない。信長は包囲網を敷かれていて、四方八方が敵だらけだ。
それらに対抗するべく、兵は信長領中に散らばっている。例えばいま、藤吉郎は近江の横山城にいて、浅井長政と戦っているし、明智光秀は坂本や京の都において将軍家と交渉したり、なお反撃の機会をうかがっている延暦寺や朝倉家に睨みをきかせている。
織田家全体がこんな感じだ。
岩村城や徳川家に援軍を送るだけの余裕はないはずだ。
「越後の
信長にふいに、そんなことを言った。
「信玄の背後を、謙信に突いてもらう。いまの我らにはそれしかない」
「しかし謙信は、越中で一向一揆と戦っております。果たして武田を攻撃するだけの余力があるかどうか」
そしてこの一向一揆、実は信玄が裏で工作しているものだ。
信長と戦うために、信玄は、長年のライバルである謙信に背後を突かせないために一向一揆を動かしたのだ。これは未来の知識なので、信長には黙っていたが……。
「この際、わずかな兵で信玄をけん制してくれるだけでもありがたいわ」
おそろしく弱気な発言だった。
織田信長ともあろう男が、家来の前でこうまで言うとは。
それだけ信玄の上洛が恐ろしいのだろうが……。しかしこんな信長を見たら、俺としてもなんとかしたくなる。
「謙信に贈り物をしましょう。彼のやる気を少しでも上げればしめたものです」
「贈り物だと。……ふむ。では、なにを贈るべきか? 金か、米か、それとも」
「珍しいものがよろしいでしょう。我らは堺を抑えております。その堺で手に入る、そう、例えば南蛮の品など……」
「南蛮か。……ふむ。そういえば蜂楽屋、そちはいつも、南蛮風のマントを羽織っていたな」
「へっ? あ、あたし、ですか? は、はい。……着ていましたが」
突然話を振られて、俺の後ろに控えていたカンナはびっくり声を出した。
信長に拝謁するということで、今日のカンナはいつも桃色の着物しか着ていない。
しかし確かに彼女は、ふだん、ヨーロッパ製のビロードマントを着用している。出会ったときからずっと。
「あのマントがいい。似たようなものをいくつか作るか発注して、謙信に送れ。越後の田舎者ゆえ、南蛮のマントはさぞかし喜ばれるだろう。山田、さよう手配せよ」
「は、……ははっ!」
俺は平伏したが――
信長が謙信に贈ったマントは、21世紀になっても存在する。
米沢市の上杉神社に所蔵してあるそのマント。……まさかカンナのマントが理由だったとは。
信長が部屋を出たので、俺は思わず振り返り、――信長に声をかけられたことで、なにやら顔を赤くしているカンナの顔を見てニヤッと笑った。
しかし情勢は、悪化するいっぽうだった。
この年の10月、遠江の徳川領は武田軍によって次々と攻略される。
さらに11月には、武田家の秋山信友によって岩村城が落とされる。
信長と謙信の同盟作戦も、むろん進んでいた。
11月20日、謙信の家来、
信長は長を歓待し、そして彼の前で血判起請文を記す。これにて織田と上杉は同盟した。
だが事態は、もはやそんな同盟ではどうにもならないほど進んでいた。
信玄みずから率いる武田本隊が遠江に到着。その数は25000。対する徳川軍は、信長からの援軍を合わせてもわずか11000。敗北は目に見えていた。
事実、敗北する。
俺が知っている歴史ならば、いまからおおよそ一か月後、徳川家康は武田信玄と戦い――いわゆる三方ヶ原の戦いだ――そして信玄の猛攻の前に大敗を喫する。もっともその後、信玄は病気で死んでしまうのだが――
「しかしこの世界は、俺が動かなければ史実通りにならない世界だ」
岐阜の自宅にて。
伊与とカンナを前にして、俺は腕組みしながら言った。
「本来であれば病死する信玄。……だが、死なないかもしれない。俺が、俺たちが動かない限りは」
「三方ヶ原に行くか? 俊明」
伊与が言った。
「私たちの力で、信玄を倒すんだ。そうすれば織田も徳川も救われる」
「神砲衆が助っ人にいったくらいで、信玄に勝てるとは思えんばい。和田さんのときだってそうやん。和田さんを助けることはできたけど、勝敗そのものは、弥五郎の知っとる歴史の通りになったやん」
「カンナの言う通りだが……。しかしこの世界の歴史は、どこに落とし穴があるか分からん。極端に言えば、俺たちが三方ヶ原に行かなかったら家康が死ぬ――くらいのことは起こりかねない」
桶狭間の戦いで、信長が初戦で負けたようにな。
あれは俺と藤吉郎がいなかったら、織田家は完全に滅んでいた。
「山田さん。お殿様から使いが参っております」
部屋の外から、あかりの声がした。
「至急、登城せよ。堤伊与と蜂楽屋カンナ、石川五右衛門も同行するように。――とのことです」
「来たか。しかし五右衛門もいっしょとは、珍しいな」
さて信長は、俺になにを命じてくるのか……。
俺たちはすぐに仕度して、岐阜城に向かった。
「来たか、山田。まず最初に命じることがある」
信長は、いきなり話題を切り出した。
「しばらくの間、織田家の商いから神砲衆を外す。織田家の商いの用向きは、
「伊藤さんに? ……おお」
「お久しゅうございます、山田さん」
室内には、綺麗な月代を剃った男がいた。
彼とは顔見知りだ。清州に拠点を置き、尾張、美濃を中心に手広く商売をやっている商人、伊藤惣十郎。俺たち神砲衆が、近江や堺、三河や信濃など、広く広く商いの拠点を広げていったのに対し、伊藤さんは常に尾張に根を張って、手堅く商いをやっていた。
俺と伊藤さんは、商売の上ではライバルだった。しかし同じ織田家に尽くす者同士であり、また実直な商いをやる伊藤さんと、尾張の外で商いをやることが多かった俺とでは、いがみ合うよりも、お互いが協力しあい、情報交換、物々交換などをしたほうがメリットがあることが多いため、俺たちの関係は決して悪くなかった。
「お忙しいようでなによりです。山田さんときたら、尾張のエビス講にもなかなか顔を出してくれませんからなあ」
エビス講とは、福を授けてくれる神、エビス様を祭る宴会行事だ。
年に2度、1月20日と10月20日に行われる。商人仲間はこの宴会に顔を出し、お互いに親交を深め、あるいは顔見知りになる。そしてときには、資金を融通しあう約束を果たすなど、いわば互助組合的な役割を果たすときもあった。
「いや、どうにも多忙でして。不義理でまことに申し訳ない。しかし伊藤さんが、これからは織田家の商いを取り扱うとはいったい……?」
これまで織田家の御用商――商人司とか商人頭ともいうのだが――
それは俺たち神砲衆が務めてきたのだが――
「山田には、いや神砲衆にはもっと大きな役割を与えるからだ」
信長は、低い声で言った。
「ゆえに、商いのほうはしばらく伊藤に任せる。伊藤、よく引き継げ。詳細は山田の女房である蜂楽屋がよく知っている」
それは、カンナと伊藤は出ていけ、という意味だった。
商売については別室で打ち合わせろ、と信長は言っているのだ。
「では蜂楽屋さん、参りましょうか」
「は、はいっ」
伊藤さんとカンナは、ふたりで退出した。
ふむ。まあ商売については、あのふたりに任せておけばまず間違いはないが……。
俺と伊与、五右衛門の3人はここに残された理由。それは――
「他の者、入れ」
そのとき信長が言った。
すると小姓が、部屋の戸を開き、
「……お……!」
俺は思わず、短く叫んだ。
なぜなら戸の向こうにいたのは、――藤吉郎!
「久しぶりじゃのう、弥五郎!」
ものすごいニコニコ顔だった。
彼の後ろには、小一郎と竹中半兵衛、蜂須賀小六もいる。
いや、それだけじゃない。
滝川一益、佐々成政、前田利家、明智光秀。
それに、それに――
「弥五郎。金ヶ崎以来だね」
「松下さん!?」
松下嘉兵衛さんまで、そこにいたのである。
どうしたというんだ。徳川家臣となっている松下さんまで岐阜にいるなんて。
フルメンバー集合といった感があるこの面子。俺と交流があってここにいないのは、柴田勝家と丹羽長秀、佐久間信盛くらいだが……。
「これほどの面子を揃えたのには、むろん理由がある」
信長は、渋い顔をして言った。
「余がそちたちに命じることは、すなわちただひとつ。……武田信玄を、殺すことじゃ。いかなる手段を用いてもな」
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