第37話 義昭の怒り、信長の意見書

「弾正忠はなにを考えているのか! 将軍家をこうまで、ないがしろに致すか!」


「…………」


 織田信長が、朝廷の財政再建に乗り出したことを足利義昭は怒り狂って、ののしった。

 そして彼の目の前にいるのは明智光秀であった。金ヶ崎以降、あらゆる戦いで功績をあげた光秀は、畿内商業の重要拠点である坂本を任せられているが、それと同時に足利義昭と織田家の橋渡し役も務めている。


 これは光秀が優秀ということもあるし、かつて義昭の兄、足利義輝に仕えていたことがあったゆえの抜擢であった。足利義昭と織田信長。険悪になりつつある両者の間を取り持つ彼の心労は並大抵ではなかったが、それでも光秀は冷静かつ沈着に、その役割を果たしていた。


「武家において朝廷第一の臣は、言うまでもなく将軍家である。すなわち足利義昭である。その義昭をさしおいて、朝廷の財政に介入するとは、僭越せんえつの極みといえよう。そうではないか、十兵衛じゅうべえ!」


「お怒りはまことにごもっとも」


 光秀は、落ち着いた顔で義昭の怒りを受け止める。

 受け止めつつも、


「我が主は、決して将軍家を無視しているわけではござりませぬ」


 信長の言い分も、きっちりと相手に伝えていく。

 彼は、それをしなければならない立場にある。


「織田家の立場はどこまでも将軍家の代理でございます。我が主弾正忠は、公方様の代わりとして主上しゅじょうに尽くしておりまする。主上は弾正忠のみならず、将軍家にもたいへん感謝いたしております」


「そうは思えぬ。織田は将軍をさしおいて帝に尽くし、帝は将軍をさしおいて織田に感謝する。将軍は要らぬもの扱いを受けている。そうとしか思えぬ!」


 義昭は唾を飛ばして憤慨した。


「これでは織田家は、かつて兄を殺した三好家の連中となんら変わらぬ。将軍をないがしろにする逆賊同然――」


「おそれながら!」


 義昭が、言ってはならぬところまで声を張り上げた瞬間、光秀はそれ以上の大声を発した。

 この場には、義昭と光秀だけではない。お互いの近習や小姓もいるのだ。彼らは無言を保っているが、耳が聞こえないわけではない。義昭の失言が彼らを通してどこかに漏れ出るとも限らないのだ。


「主、弾正忠は将軍家のためにどこまでも尽くしておりまする。将軍家のためにこの屋敷を造りあげたのも、弾正忠でございますぞ」


 光秀は室内に、わずかに目を配らせながら言った。

 事実だった。義昭の屋敷は信長が造成したものだ。

 義昭は忘れている、と光秀は言いたい。誰が義昭をこの立場に置いてくれたのか。信長ではないか。流浪の身であった義昭を15代将軍にするために粉骨砕身努力したのは信長である。極端に言えば毎日の食事さえ、信長がいなければままならなかったのが、以前の義昭ではないか。


「武家が足利家に尽くすのは、当然のことじゃ。なにをそこまで感謝せねばならぬ」


 義昭は、ぷいとそっぽを向いて、吐き捨てるように言った。


「十兵衛。将軍は弾正忠を認めぬぞ。朝廷の下に将軍があり、将軍の下に日ノ本中の武家がある。この図式は決して動かぬ。動かせぬ。織田が足利を無視するのであれば、こちらにも考えがあるぞ」


「……いかがされようと言うのです」


「織田にこれ以上、大きな顔はさせぬ、ということじゃ。……帝の財政は、これよりは将軍家によって立て直す。織田が介入する余地はない」


「朝廷の財政を、公方様が立て直す、と? それは、どうやって――」


「やりようなど、いくらでもある。諸国の大名に、金銀や米、馬などを将軍家に差し出すように伝えるのじゃ。都中の寺社仏閣から税を徴収するのもよい。また、将軍家に仕えておきながら働きの悪いものからは俸禄や領地を取り上げれば、その分の金も手に入る」


「おそれながら――」


「まだあるぞ。織田家に仕えているあの商人――そう、神砲衆の山田弥五郎じゃ。あの者は米の取引でずいぶん成り上がったと聞く。将軍家も蓄えている兵糧を売り払い、米の相場を用いて銭を稼げばよいのじゃ。昨年にも、将軍は兵糧の一部を売り払ったことがあったが、今度はそれをもっと、大々的に行う」


「おそれながら、左様なやり方は人心の反発を招くだけでございます。また山田弥五郎のような米取引は、若きころより商いに励んできたうえ、算術に長けた身内がおればこそ可能なやり方でございます。兵糧の一部を売る程度ならばともかく、商いにまで手を出すとなるとこれはとうてい、いまの幕府では務まりませぬ――」


「黙れ! 黙れ、黙れ、黙れ! 山田弥五郎は、元はと言えば尾張の炭売りの息子だったというではないか。その山田にできることが将軍にできぬはずがない! 十兵衛よ、そちも所詮は織田の家臣よ。将軍に口ごたえしかできぬような男ならば、もはやこの屋敷に出仕する必要はない。ね!」


「公方様――」


 光秀は、落ち着いた顔で、しかしもはや処置なしといった顔だった。

 一度、平伏する。そして、その場を立ち去った。

 義昭は鼻息も荒く、顔を真っ赤にしていた。

 そして、すぐ近くにいた近習に、


「京の都にて、十兵衛が管理している土地をただちに押収せよ。あそこには神砲衆が商取引をすることで蓄えた金銀がずいぶん眠っているはずじゃ。それを手に入れる」


 近習は、さすがに驚き、


「左様なことをなされば、織田殿と神砲衆を敵に回してしまいますが――」


「構わぬ、将軍が許す。――かつてそこは、延暦寺が管理していた土地だったゆえ、延暦寺が壊滅したいまとなっては将軍が管理するのが道理である。そう言って差し押さえよ!」




「なんだと……!?」


 岐阜の屋敷である。

 足利義昭の手によって、都に置いていた神砲衆の金銀が差し押さえられたと聞いたときは、さすがに俺も仰天した。


 足利義昭が、明智光秀の管理している金銀を押収するのは史実として知っていた。しかしそれがこの時期に、しかも神砲衆の財産に手を出してくるとは!


「都に置いておいたお金は、5000貫を超えるとばい? それを取られてしもうたら、さすがに神砲衆としても商いが成り立たんくなる!」


 カンナはそう言って憤慨した。俺も同じ気持ちだった。

 仲間たちといっしょに稼いだ売り上げを、こうもあっさり奪われようとは。

 なるほど、世が戦国になるわけだ。私有財産が平然と誰かに押収される。現代日本なら、裁判所に訴えるところなんだろうが、この時代にはそんなものはない。訴えるなら、この時代の日本政府たる室町幕府なんだろうが、その幕府にも力がない。今回に至ってはその幕府が押収を仕掛けてきたんだからな。


「かくなる上は、弾正忠さまに訴えよう。織田家付きの商人、神砲衆の財産を奪われているのだ。これを取り返すために動くのは、主君の義務でもある」


「その通りだ」


 伊与の言葉に、俺は大きくうなずいた。

 家来や民衆の訴えに応じることができるのが、良い主君であり大名なのだ。

 逆に言えば、それに応じられない大名は下々しもじもの支持を失って、滅び去っていく運命にあるのだ。


 戦国とはそういう時代だった。

 そして織田信長は、下々の希望に応えるだけの意思と能力を持っていた。

 だからこそ時代は、織田信長を選んできたし、これからも選んでいくのだ。




 信長は俺の訴えをよく聞き入れてくれた。

 神砲衆の経済的打撃は、織田家の財政問題にも繋がるから、当然の対応でもあった。


 そして1572年(元亀3年)、10月――

 信長は足利義昭に対して、17条の意見書を提出した。

 意見書とはいうが、これはもはや弾劾状に等しい文面で、要約すれば、




『足利義昭は欲深い公方である。諸国の大名に馬を求めたり、家来に恩賞を与えなかったり、他人の財産を押収したり、非常にしき御所である』




 このような文章だった。

 しかも、ただ責めるだけではなく、いかに義昭が悪事を働いたのか、実に具体的に記されてあったのだ。――例えば、誰々が義昭に忠義を尽くしたのにその恩賞がまるで与えられていない、それはなぜか、ということなど、実に細やかに書かれてあった。


 信長のたくみなところは、この文章を義昭に宛てただけではなく、諸国の大名や民衆にも送りつけたところである。かつて武田信玄に、世論を抑えられた経験が活きた。征夷大将軍たる義昭に文句をつけるには、世論を味方にする必要があると考えたのだろう。


 この作戦は成功した。

 諸国の民衆は、足利義昭は悪御所であり、織田信長は正義だと思うようになった。


「織田様は、悪御所によるまつりごとを改革してくれる、よき大名じゃ」


「そもそも足利義昭はなにをしているのか。金ばかり貯め込んで、民のためになにをしてくれた」


「織田様の領内は治安もよく、道路も整備され、商いも盛んじゃ。もういっそ天下人は、織田様になっていただいたほうがよいのではないか」


 世論が形成されていく。

 もちろんこの世論も、信長の手紙だけが原因ではない。

 これまでの日々、信長が良政を敷き続けたことや、足利義昭が公方として大きな働きができなかったことから来る、ひとつの結果だったのだ。




 次の時代が訪れかけているのを、肌で感じた。

 足利の時代が終わり、織田の時代が訪れようとしている。

 それは、同じ時代に生きている人間でしか感じられない、確かな時代の息吹いぶきであった。




 そんなある日。

 カンナが、慌てて俺の部屋に入ってきた。


「弥五郎、弥五郎っ!」


「どうした、カンナ、そんなに慌てて」


「大変ばい。遠江に行商にいっとるひとからふみが届いたけど、――甲斐の武田信玄が、上洛の兵を起こそうとしとるっ!」


「っ――」


 そうか。

 ついに来たか。


 甲斐の虎、武田信玄が織田信長を攻めるために攻めてくる。

 それについても、知識としては知っていたが――いよいよそうなるのか。

 さて、これについて俺はどう動くべきか?


「俊明。……登城しよう。殿様に会いにいくべきだ」


 伊与の言葉である。

 俺は、大きくうなずいた。


「よし、行こう」


 信長と会うことだ。

 すべてはそれからだ。

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