第14話 信長軍、南近江をゆく

「相変わらず、無茶ぶりをあっさり引き受けるよねえ、アンタたちは……!」


 岐阜城下に用意された、神砲衆の屋敷に戻るなり相談すると、カンナは露骨にため息をついた。


「50000の兵を食わせるだけの兵糧とか、どれだけの銭と手間がかかると思うとるん!? ――50000、やろ? ひとりの兵士が1日に5合は食べるとして、そのお供に漬物と芋がら縄くらいはいるやろうし……」


 ぶつぶつ言いながらも、カンナはその場で計算を始めた。

 なおこの時代の日本人は基本的に炭水化物をよく食べる。21世紀と比べると倍以上食べる。1日に5合どころか、1升だって食うやつがいる。

 単純にエネルギー効率がいいとか、当時は米と言えど玄米で食うので栄養バランスもいいとかいう事情もあるが、そもそも野菜や肉などの副食物が、高価な上に世間に出回っている量が少ないので、自然とみんな、米ばかりをやたらと食べるのだ。


 なお、カンナが言った芋がら縄とは、植物の茎を味噌で煮しめたものだ。

 そのままでも食えるし、お湯に入れたら味噌が溶け出して味噌汁にもなる。インスタント味噌汁ってわけだ。


「ねえ、弥五郎。いま計算したんやけど、仮にひとりの兵が、1日5合、漬物1皿、芋がら縄1本を食べるとして、それを30日続けたら、いくらになると思う?」


「ん? ……ちょっと待てよ。ええと、米1合の相場がおおむね30文くらいだな。で、漬物と芋がら縄はそれぞれ20文ずつだな。すると1日で兵ひとりにかかる食費が190文だから、それが50000人で、30日続くとすると――」


 商人として、さんざん交易を繰り返した俺だって、計算能力は上がっている。

 紙上で計算するまでもなく、頭の上でまとめていく。すると。


「……285000貫!」


 結果が出た。

 その結論に、その場にいた伊与や五右衛門まで、うえ、と顔をしかめさせた。

 28万5000貫! シガル衆を倒すときに5000貫貯めるのに必死だった時代が嘘のようだ。


「たった30日いくさするだけで、こればい? それも武具馬具や鉄砲の弾薬なんかも用意せないかんやろ? 大丈夫とね、これ」


 いかに加納の楽市や近江との交易があるとはいえ、28万貫は大きい。

 もちろん、岐阜城や清州城に蓄蔵されている米や味噌も使うのだろうが、それでも28万貫分の銭や食料が消えると思うとぞっとする。


 だが――

 カンナの言葉を聞いた藤吉郎は、ニコニコ笑った。


「なあに、銭のことは殿様がきっとなんとかするわ。カンナよ、汝が考えたようなことに気づかぬ上総介さまじゃと思うか?」


「いや、それは……」


「ちゃあんと計算したうえで、できると踏んだからわしらに命令したのよ。あの方はそういうお方じゃ。後ろを任せる、と言うた以上、わしらが考えるべきことは銭の心配ではなく兵糧や武具を50000人分ちゃんと集めることじゃ。あとのことをやるのは、殿様の仕事よ、なんとそうではないか、弥五郎」


 藤吉郎の、信長に対する信頼が分かった。

 確かに、信長ならそれくらいのことは当然計算ずくだろう。

 カンナは、長い金髪を揺らしながら薄い笑みを浮かべて、


「そう言われたらそうやねえ。……やったらあとは、どこからごはんを集めるか、やね?」


「うむ、それについては弥五郎と汝がなんといっても一番頼りよ。考えてくれ!」


 拝むようなしぐさをする藤吉郎を見て、俺たちは苦笑するばかりだった。




 それから俺たち神砲衆は、動きに動いた。

 越前、北近江、美濃、尾張、信濃、三河、伊勢などの諸国を動き回り、農村や漁村に行き直接買い付けたり、六斎市に行って交渉したりした。


 購入した兵糧は、坪内利定の力を借りて水運で運ぶ。

 濃尾平野を血管のように張り巡っている河川の上を、どんぶらこっこ、どんぶらこっこと船が次々と進んでいく。

 米や味噌や、あるいは塩や干物がどんどん岐阜へと集まっていった。俺と藤吉郎は、それらをくまなく点検していく。


 ――しかし運ばれてくる兵糧はあまりに多い。

 神砲衆だけでは、もはや人手が足りなかった。


 なので、


「藤吉郎。そちに蜂須賀と竹中をつけてやろう」


 見かねた信長は、そう言った。

 岐阜城の頂点から、城下に次々と集まる兵糧の数に、さすがの彼も驚きながら、


「さすがは藤吉郎と山田よ。これほどの兵糧をよくぞ集めた。あとの点検は蜂須賀と竹中に任せよ。蜂須賀率いる津島衆は、交易や水運の経験も豊富。竹中もまた、美濃や近江にいただけあって各国の物資と人員の知識が豊かである。――なおかつこの両名は、そちや山田とも親しいゆえ、なんの問題もなかろう。……以後、木下藤吉郎秀吉は侍大将とし、蜂須賀、竹中、山田の3名を与力として預けるものなり」


 侍大将!

 足軽大将からまた出世した藤吉郎は、へっ、と頭を下げた。


「ありがとうございまする。弥五郎と小六兄ィ、いえ蜂須賀どのを与力としてつけてくだされば百人力。木下組の今後にどうぞご期待あれ!」


 ニコニコ顔で叫びまくる藤吉郎を見て、信長はただ苦笑した、という。




 与力とは、21世紀風に言えば出向だ。

 俺と蜂須賀小六は、信長の家来でありながら、しかし藤吉郎の家来として彼の下に出向することになったのだ。

 親会社の社員が、子会社の役員になるようなものである。


 ――これまで織田家は、信長の独裁で、組織めいたものは特に作られていなかった。

 しかし50000もの兵を率いて、足利義昭を担ぎ上げて上洛しようというこの時期だ。

 もはやこれまでのように、上下関係の希薄な、気ままな織田家ではいられなかった。


 軍団はきちんと組織され、各員に役目や役職が与えられる。例えば前田利家や佐々成政も、それぞれ『母衣衆ほろしゅう』として、信長と各侍大将の間を行き来して命令や意見を交換させる役職を与えられたし、滝川一益も藤吉郎と同様に侍大将として一軍を与えられた。俺自身も、木下藤吉郎秀吉与力、神砲衆頭目山田弥五郎俊明、という肩書を得たのだから。


 織田信長は、まさに飛躍しようとしていた。

 それに伴い、藤吉郎秀吉もいよいよ歴史の表舞台に出てこようとしていたのである。




 そして、兵糧や武具の準備が終わった1568年9月――

 信長は、ついに15000の軍勢を率いて南近江に進軍した。

 むろん、軍勢はそれだけでは終わらない。岐阜城や、美濃国尾張国の各地からも織田軍が次々と出陣。

 信長上洛軍はまたたく間に、総勢50000の兵数となった。


 六角軍はこの光景を見ておおいに驚いたものの、


「人数こそ多いが雑軍である。1度勝利すれば必ず織田軍は崩壊する」


 と見て、こちらも15000の兵を南近江各地に展開した。


 これに対して織田軍は、数にものを言わせて、軍をみっつに分けて進撃させる。

 みっつの部隊はそれぞれ、六角氏の和田山城、観音寺城、そして箕作城に進軍した。


 このうち、箕作城攻めを担当した部隊に、藤吉郎がいる。

 彼は、2300もの兵を率いていた。

 さらに城攻めの軍の中には、木下隊のほかに丹羽長秀と滝川一益の部隊もいる。

 藤吉郎は彼らと協力しあって、よく城を攻めた。


 が、箕作城は容易に落ちない。

 決死の六角兵3000が立てこもる城だ。

 守りは固く、さすがの藤吉郎たちといえど攻めあぐんだ。


 さらに、そこに、雨までにわかに降りだしたため、


「ええい、退け、退けえい!」


 藤吉郎たちは撤退し、城から離れた。

 雨は、なお降り続けている。




「ええい、固い、固い。六角氏の本城でもないのに、なんちゅう城じゃ!」


 夕刻になり、藤吉郎は木下軍の本陣に戻った。

 すると藤吉郎は帰るなり、かたわらの半兵衛に向けて愚痴るように叫んだのだ。


「敵も必死ということですな。……これは持久戦になるかもしれません」


「そんなに長くは攻められんわ。50000の兵を食わせるのに、どれだけの金と手間がかかると思っとるんじゃ。しかも兵糧を売る商人どもは、あこぎなものゆえな。織田軍が苦戦していると知れば、兵糧の売値を吊り上げてくるに違いない。箕作城攻めに時間をかけられんのは、それも理由のひとつよ」


「ふむ。……それは変わった視点ですな。山田どのの知恵ですかな?」


「それとカンナよ。あの夫婦はさすがに目の付け所が良いわ。長陣による相場の変動まで考えおる」


 それはシガル衆と戦ったころから、米相場や塩相場でさんざん交易を重ねてきた弥五郎とカンナゆえの考えだった。

 織田家はこれまで、尾張国内とせいぜいその隣国としかいくさをしてこなかった。南近江から山城にまで出張って戦争をして、その結果、いかに金がかかるか、それを正確に見積もれる人材は少ない。ゆえに弥五郎とカンナの感覚は貴重だった。


「箕作城は、遅くとも明日か明後日には落としたいが、さてなにか知恵がないものか? ……のう、半兵衛?」


「ふむ。……先ほどまで猛攻を受けていただけに、敵の兵は疲れているとは存じますが」


「攻めるならば、明日と言わず今夜、というのか。半兵衛」


「御意。……しかしそれは難しゅうございますな。この雨ではたいまつの炎もきません」


 それはもっともな意見だった。

 単純に言って、夜、攻めるには明かりがいる。

 すなわち、たいまつが必要なのだ。しかしこの雨では火は使えない。


 藤吉郎も、それくらいは当然分かる。

 それだけに、ふうむとうなずいて腕を組んだが、


「しかしよ、半兵衛。わしらがそう考えるということは、敵も当然そう思っておろうな。まさか今夜、夜襲はあるまいと」


「は。それは――まあ、それはそうでござろうが」


「……ふふん、ならば、そこが逆に狙い目よの。今夜攻めれば箕作城は落ちる」


「は。……しかし、夜の雨の中でござる。明かりをどうやって用意されるのです?」


「半兵衛」


 藤吉郎は、ニヤリと笑った。


「汝はまだ、織田家に来て日が浅い。ゆえに、まだ知らぬのじゃ」


「な、なにがでござる」


「こちらには、山田弥五郎がおるということを」


 藤吉郎はそれだけ言うと「兵糧奉行の役目にいく」と左右に言って、本陣の後方に待機している兵糧部隊のところへと向かった。




 さて、兵糧部隊がいる本陣後方では。

 なにやら、威勢のいいかけ声が響き渡っていた。


「そう、その米は佐久間さまの陣に送って! 漬物も運んできとるけん、それといっしょに! あっ、そっちの米は丹羽さまの陣たい! 他の米と、いっしょにせんといてよ!」


 カンナが、それは大きな声で兵糧の行方を采配しているのだ。

 そしてそのかたわらでは、俺こと山田弥五郎も采配していた。


「米俵、300。これは柴田さまの陣に送ってくれ。……っと、次はなんだ? ああ、津島の塩だな。それならば――」


「おおい、弥五郎、手伝いにきたぞ」


 そこへ、藤吉郎が声をかけてきた。


「どうじゃ、具合は」


「見ての通り、てんてこ舞いだよ。なにせ前代未聞の動員数だからな」


「そうもあるか。確かに美濃から南近江まで、50000も兵を動かすなど、応仁以来果たして何度あったやら」


 藤吉郎は快活に笑った。

 笑いどころではないのだが、それでも明るく笑い飛ばしてしまうあたりに彼の明朗性がある。


「まあ、この程度なら想定の範囲内だけどな。津島衆も手伝ってくれているから助かるよ。……で、藤吉郎。ここになんの用事で来た? 手伝いに来ただけではないだろ?」


「さすがは弥五郎、よう分かっておる。……ちと相談があるのじゃが」


「……もしかして、今日、夜襲をかける話か?」


 小さな声で尋ねると、藤吉郎はニヤッと笑って、


「ううむ、やはりさすがよ。汝、よく夜襲のことを見抜いたの」


 見抜いた――

 というより知っていたからな。

 箕作城が、木下藤吉郎の夜襲によって陥落する話は。


 とはいえ、俺の知っている史実では当然、山田弥五郎の登場などなかったから、ここで俺に声がかかるとは思わなかったが。


「いくさのことなら、半兵衛に相談したほうがいいと思うがな」


「やつは賢い。しかし今回のような状況になっては弥五郎、やはり汝の力が必要だよ」


「……そうかな? では、俺は具体的になにをしたらいいんだ?」


「おう、さすが話が早いのう! ……明かりよ。夜襲には明かりが要ろうが。しかしこの雨ではたいまつもろくに使えん。弥五郎、なにか良き智恵を貸せ」


「雨の中で、夜襲か……それも城攻めの夜襲……智恵……」


 俺は、ううんとうなってから、


「まあ、なくもない」


「おお、さすがは弥五郎。してどんな案じゃ?」


「こういうのは、どうだろうな?」


 ニヤッと笑ってから、俺は考えを藤吉郎に向かって告げた。

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