第30話 新たなる希望

 戦いは終わった。

 義元の死が死れ渡ると、今川全軍は、蜘蛛の子を散らすみたいにわっと逃亡を開始した。

 信長軍の一部は、逃げた今川軍の兵士を追撃しようとしたが、信長は「追わずともよい」と命令した。


「治部を失った今川軍など恐くない。それよりも帰るぞ。治部や、その他、討ち取った者たちの首検分も清洲でやる」


 信長は、こうも言った。

 義元を失った今川軍が恐くないというのは事実だろうが……。

 しかしもうひとつ。追撃戦を行うだけの余力が、もはや信長軍にはなかったというのもあるだろう。


 このときの信長軍は、全軍2000人のうち、じつに1000人近く。すなわち半分の兵が討ち死にしていた(なお、そのうち300人近くは六角氏の援軍だった)。怪我人も多く、とても今川軍と戦い続けることはできなかったのだ。信長は勝利の中にあっても冷静に、そのことを見極めていたのだ。


 とにかくこうして桶狭間の戦いは終わった。

 田楽狭間で奇襲を行い敗北し、しかしいま一度立ち上がり、桶狭間山で戦って今川義元を倒した織田信長。


 自身の数倍の兵力を有した今川軍を打ち破った彼の雷名は、瞬く間に全国に広がった。

 尾張のうつけは、うつけに非ず。軍神摩利支天の再来なり――民衆はこのようにして、信長を称えたのであった。




 今川義元の死は、東海のパワーバランスを大きく崩した。

 東海の国を複数支配していた今川家は、しかし総大将たる義元の死によって統率力を失う。

 義元の子である今川氏真では、家来たちを束ねることはできなかった。今川家はこれより以後、ゆるやかに衰退してゆき、最終的には滅亡する。


 また、今川家の配下として活動していた松平元康こと徳川家康は、義元の死後、しばらくは今川氏真の下に留まる。しかし、やがて氏真の器量に見切りをつけ、三河の岡崎城を本拠地に定めて独立。戦国大名としての三河松平家はこのとき復活した。


 家康は、やがて織田信長と攻守同盟を結ぶ。

 いわゆる清洲同盟だ。この同盟は、結ばれてから約二十年に渡って継続される、極めて息の長い同盟となる。


 そして、信長――

 彼は、東の三河を家康に任せ、自身は北の斎藤家との戦いに専念することになる。

 義父、斎藤道三は美濃国を信長に譲ると言い遺して死んだ。その遺言を大義名分として、美濃攻略を開始するのであった。




 ……これらはまだ、もう少しのちの話になる。

 いまの俺たちは、勝利の喜びを噛み締めて、尾張清州へと帰国したのであった。




「いよう、弥五郎!」


 桶狭間の戦いから1か月ほど経ったある日。

 俺とカンナが津島の屋敷で商務をとっていると、藤吉郎さんが入ってきた。


「藤吉郎さん、どしたとね。なんかやけに嬉しそうやけど」


「足軽大将になれた喜び、まだ続いているんですか?」


 そう、藤吉郎さんは今回の戦いで、六角氏との同盟をまとめた手柄を評価され、足軽大将になったのである。

 いよいよ藤吉郎さんの出世も、大したものになってきた。足軽大将ともなれば100人単位の足軽を采配する立場であり、織田家の中でも下級とはいえ将校といえる身分である。評定における席次も上がる。


「ばかを言え。そんなものはとっくに終わった。汝と又左、それにわしとで3日3晩、祝い通したではないか」


「そんな馬鹿騒ぎもしよったねえ、そういえば」


「馬鹿って言うな、馬鹿って。……前田さんの前途も洋々なのが分かったからな。その祝いもあるのさ」


 桶狭間の戦いで駆けつけた前田利家さん……。

 田楽狭間の敗戦のあと、彼はしばらく柴田勝家さんと共に、三河北部の村に潜んでいたのだ。

 ……そう、俺と藤吉郎さんがかつて、針を行商したあの村に。




 織田家の前田さんと柴田さんがやってきたのを見て、あの村の人々は最初、当然警戒した。

 しかし前田さんと柴田さんが俺と旧知の仲であることが分かると、傷が癒えるまでの間、村の中にこっそりとかくまってくれたらしい。そして怪我が治ったころ、桶狭間の戦いの開始を察知した彼らは、信長軍の加勢にやってきたというわけだ。


「又左。そちにとって、出仕を解かれたのは、良い経験になったのではないか?」


 義元を倒したあと、清洲に戻った信長は、前田さんに向けてこう言った。

 前田さんは、照れながらうなずいた。ただのカブキ者だった自分だが、浪人の身となって、初めて世間の苦労を知ったし、人間関係のありがたみを知ったと思ったのだ。


「又左。そちはいましばらく、山田のもとで修行を積むがよい。そのほうが、そちのためだ」


「……はっ」


「そして神砲衆で充分に修行を積んだと思ったら、戻ってまいれ」


 信長は、そう言った。

 前田さんは、大きくうなずいた。

 そういうわけで前田さんは、まだ俺の部下のままだ。


 しかし前田さんは、なかなか頑張ってくれている。

 特に彼は、意外に見えるかもしれないが金勘定の才能があった。

 カンナから金勘定や商売のコツを教えてもらった前田さんは、すぐに商売の能力を発揮して、交易をしてよくお金を儲けてくれている。


 槍働きのみならず、商売の才能も発揮しはじめた前田さん。

 前途洋々というのはそういうことだ。織田家への帰参も近いことだろう。




「で、藤吉郎さん。けっきょくなんの用事でうちに来たんよ?」


「おう、それじゃがの。ふふふ、聞いて驚け。……どうだ、驚いたか!」


「まだなにも言ってませんが」


「ええい、じれったい。長い付き合いなんじゃからそろそろ顔色だけで分かりそうなものを! ……ふふふ。弥五郎、弥五郎よ。なんと、わしはのう。……あのすっごく可愛いおねねちゃんと、今度釣りに行くことになったのじゃ!」


「つ……」


「釣り!」


 俺とカンナは目を合わせる。


「そうじゃ。ふふふ、あんなに可愛くて若い娘がの、わしと遊びに行っても良いというのじゃ。いやはや、押してみるもんじゃのう。このまま婚姻まで一直線といきたいのう、ふはははは!」


 どうやら、藤吉郎さんの上機嫌はそのことだったらしい。

 ははあ、ねねさんにデートを申し込んで、うまくいったのがよほど嬉しかったわけか。

 それを自慢するためにわざわざ津島まで……。ご苦労様だな、ほんと。


「なんじゃ汝ら、あまり驚かんの?」


 藤吉郎さんは、少し不満げに言った。


「い、いや、そんなことないですよ」


「そ、そうそう。あまりのことに、驚きすぎて声もでらんかったと!」


「ふうん、それならよいが。……さあて、これから小六兄ィのところにもゆく。さんざん自慢したいからのう! ははははは、はははのは。木下藤吉郎、こたびの手柄は一番槍100回にも匹敵するわ! わっはっは!」


 藤吉郎さんは去っていった。

 あとに残された俺とカンナは、そっと顔を見合わせて、


「……な? 言っただろ? ねねさんと藤吉郎さんは婚姻するんだって」


「ほんと。……アンタ、やっぱり未来から来た男やねえ」


 藤吉郎さんの未来を共有していた俺らは、ただうなずくばかりである。

 尾張の百姓だった藤吉郎さんが、織田家の弓衆の頭である浅野長勝の娘であるねねさんと婚姻するのは、この時点ではかなりの身分違いである。まして藤吉郎さんは、お世辞にも美男子とはいえないし、ねねさんとは10歳以上も年が離れているのだから、この婚姻はそうそうありえる話ではなかったのだ。


 しかし。

 現実にありえた。

 俺は知っている。藤吉郎さんとねねさんが生涯(多々の問題はあれど)、夫婦として添い遂げる未来を。


「弥五郎。……藤吉郎さんには言わんの? アンタが転生者だってこと」


「…………」


 俺は押し黙った。

 悩む。悩んでいるのだ。そのことは。


「伊与やカンナに教えるのとは、わけが違う」


「……」


「あのひとは豊臣秀吉。未来の歴史にあまりにも大きな影響を与えるひとだ。そのひとに未来のことを教えるのは……あまりにも」


 リスクが大きい。そう思うのだ。

 この世界は俺が動くことで、本来の史実の世界に近づく世界だ。それがいよいよ分かってきた。


 桶狭間の戦いだってそうだ。

 1度は、史実と違う動きになったのかと思ったが、しかし結局はこの通りである。


 思えば桶狭間の戦いには、常にふたつの説があるのだ。

 信長は今川軍を奇襲して勝利したという迂回奇襲説と、信長は正面から今川義元と戦い、これを撃破したという正面激突説。


 決戦の場所においても、ふたつの説がある。

 田楽狭間で戦ったという説と、桶狭間山で戦ったという説。

 そんなことだから21世紀においても、桶狭間の戦いが行われたと伝わる場所は二か所存在する。

 愛知県名古屋市緑区にある桶狭間古戦場公園と、愛知県豊明市に存在する桶狭間古戦場伝説の地。どちらが本当に戦いのあった場所なのかは分かっていない。


 このように、戦国史上でも特に有名なこの戦いは、なぜかふたつの説が常に入り混じる。

 どんな戦いだったのか、よく分かっていないのだ。


 しかし事実が俺の経験した通りなら。

 つまり桶狭間の戦いが2度あったのなら。

 ……説がふたつあるのも、うなずけるのだ。


 この世界はやはり、俺が動くことで歴史通りの世界になっていくのだ、と思う。

 ならば……いまこの時点で、俺が藤吉郎さんに本当のことを話したらどうなる? どうなるのだ、いったい……。

 それが分からない以上、俺はまだ、藤吉郎さんに本当のことは話せない。


「もう少し様子を見たい。そして考えたい。この世界の平和と歴史のために俺はどうするべきなのか。……考えさせてくれ」


「……わかっとうよ。アンタの苦しみは。あたしがアンタの立場でも、やっぱり悩むと思う。やけどこれだけは覚えといてね」


「ん? ……あっ」


 キスをされた。

 柔らかな笑みを浮かべた彼女は、俺のスキをついて、ごくさりげなく、唇を重ねてきたのだ。


「アンタにこの先なにがあっても、あたしはアンタの味方だってこと」


「……うん」


「幸せになろうね」


「分かってる」


 俺はうなずいた。

 そうだ、未来のことはどうあれ、俺は大切な存在である仲間たちと一緒に幸せになりたい。

 そのために、俺はきっと、この時代に生まれ変わってきたのだから。……あの不思議な雷の力を借りて。


 ――やがて。

 外から、五右衛門と前田さんが商務を終えて戻ってきたので、カンナはふたりへの対応のために部屋を出た。


「……ふう」


 俺は特に意味もなくため息をついて、立ち上がり、それから別室に向かう。




 伊与の部屋に行くのだ。




 桶狭間の戦いを終えてほどなく、体調を崩した彼女。

 いまでも寝たり起きたりで、あかりちゃんに看病してもらっている。


 あの元気で強い伊与がなぁ。

 まあ、薬師に診てもらったらただの疲れだろうってことだったけど。


「伊与、いるかー、……って」


「う、くっ……」


 伊与はやはり、苦しそうだった。

 身体をふたつに折って、目をうつろにさせている。

 そんな彼女の背中をあかりちゃんがさすってあげていた。


「おい、伊与、大丈夫か? また薬師を呼ぼうか?」


 しかしそう尋ねると、伊与はいきなり顔を伏せた。

 そしてあかりちゃんは……なぜかニッコリ笑ってる。

 な、なんだよ。なんで笑うんだ。伊与が大変なんだぞ?


「山田さま。必要なのは薬師ではないと思いますよ」


「へ?」


「お母さんから話を聞いてきたんですが、これ、たぶん間違いありません」


「なにが」


「おめでたです」




 ……

 …………

 ………………




「はっ!?!?!?」




 俺は、パニくった。




 心臓が、本気で爆発するかと思った。

 え、なに、なに? なにがめでたいの? なにが――


「伊与さんの中。たぶん赤ちゃんがいます」


「…………」


「……そういう、ことらしい」


 伊与は少しだけ顔を上げた。

 その顔色は、えっと、頬は少し照れてる感じに染まっていて、だけどなんだか苦しそうでもあって。……いやいや、いや、いや。


 ……いやあ。


「覚えがおありですよね? 山田さま」


「……あり、ます、けど。ですが、その」


 なぜか敬語になってしまう俺。


「し、しかし、1度、だぜ? たった1度でそんな、その、まさか……嘘だろ!?」


「……なぜ、そこまで騒ぐんだ。1度だろうがなんだろうが、したのは間違いないだろう。……そんなに嫌なのか? できたことが?」


「いや、別に嫌ってわけじゃ。ただ驚いて」


「お母さんの言った通りですねえ。男のひとは、できたと言ったらとにかく驚くって。山田さまもそうなんですねえ」


 あかりちゃんは、くすくす笑う。

 俺は、やはり呆然として、しかし何秒か経ってから、いよいよ実感が湧いてきた。


「俺に、子供が……」


 何度も、その事実を口に出してつぶやいた。

 やがて、じんわりと。この上ない勇気と希望が湧いてくる。


「そうか」


 俺は笑顔を作り、伊与の身体を――

 とても大事な存在となった彼女へと、改めて視線を向けたのだ。


「……そうか!」




 1560年。

 桶狭間の戦いは終わり、信長は名声を得て、藤吉郎さんは出世する。

 そして俺は、新しい家族を迎えることになった。


 このとき、俺の青春は終わったと思った。

 転生してから悩み苦しみ、もがきあがいていた時間は終わる。


 転生したことを知った俺の家族。

 すなわち伊与とカンナ。そして、やがて生まれてくる子供のためにも、もう俺はためらわない。

 天下のため、自分のため、家族のために闘い抜くまでだ。


 ……叔父さん。

 剣次叔父さん。

 幸せを手に入れてくれって、心から叫んでいたおじさん。




 ありがとう。




 俺、いま、幸せだよ。




第三部 桶狭間激闘編 完


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 第三部はこれにて終了です。

 次回より第四部「太閤昇龍編」をお届けします。

 新たなる場面を迎える山田弥五郎の新たな活躍をお楽しみください。


 ところで書籍版第2巻の話ですが、編集さんと少し話をしてきました。

 ちょっと変則的なことになりそうですが、たぶん続きをやるんじゃないかな、と思います。

 ともあれこれからもよろしくお願いします。

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