第27話 真・桶狭間の戦い
丹羽さんと藤吉郎さんが、六角氏の援軍約1000人を引き連れてやってきたのは、信長が出陣してから2時間ほど経ってからのことだ。
その間も、清洲城から侍が次々と出撃し、熱田へと向かっている。
城内に残っていた滝川さんと佐々さんも、そして佐久間信盛や林秀貞も出撃した。
「なんと殿様は、もう出陣なされたか! 相変わらず気の早いお方よ!」
やがて清洲に現れた藤吉郎さんは、俺の話を聞くなり大声で叫んだ。
すると藤吉郎さんの警護役を務めていた五右衛門は、真面目な顔で、
「うちらも行こう。この決戦に遅れをとったんじゃ、なんのために南近江から大急ぎでやって来たんだか分からねえ」
「その通りです。すぐに熱田に向かいましょう」
丹羽さんも、五右衛門の意見にうなずいた。
こうして六角氏の援軍は、清洲城で少しだけ休んでから、そのまま俺たちと合流し、熱田に向かうことになった。
――東の空が。
わずかに、白ばみ始めている。
「尾張の夜明けは美しゅうござるな」
そう言ったのは、六角氏の援軍を率いている武将、
六角義賢の命を受け、今川氏と戦うためにやってきた彼は、口元に薄髭を生やした穏やかそうな人物だった。
「近江とは、夜明けの色も異なり申すか」
丹羽さんが尋ねると、 蒲生賢秀は微笑を浮かべて、涼しげにうなずいた。
六角氏の重臣、蒲生家の跡継ぎである蒲生賢秀。このとき満年齢換算で26歳。
俺は初めて会う人物だが、どうも大人しい人物らしい。少なくとも、戦場の外では。
むろんこの人も、尋常の武将ではない。
俺の知っている史実では、のちに織田信長と敵対する彼は、観音寺城の戦いにおいて柴田勝家さんと互角以上の戦いをしてみせる優秀な人物なのだ。
その人物が、いまは織田家の味方でいてくれる。
心強い、と素直に思った。
「山田どのと申されましたな。拙者の顔になにかついておりますか?」
おっと、いけない。
ちょっと彼の顔をジロジロ見過ぎたようだ。蒲生賢秀が声をかけてきたぞ。
「これからいくさになりますので、六角軍の大将である蒲生さまのお顔、しっかり覚えておかねばと思ったのです」
「ははは、なるほど。それならばよく覚えていただこう。拙者も山田どののお顔、よく覚えておきますぞ。……山田どのは鉄砲や火薬にお詳しいと伺い申した。このいくさが終わったあとは、じっくりとお話をしたいものですな」
「それはもう、喜んで……」
――蒲生賢秀の主城、日野城は、のちに鉄砲の名産地のひとつとなる。いわゆる日野鉄砲だ。
今日この日、俺と蒲生賢秀の出会いが、日野鉄砲の誕生に繋がることになるのだが、それはまだ、もう少しのちの話である。
やがて、熱田の街並みが見えてきた。
織田軍の足軽や雑兵が、数人ずつの集団で熱田の町に入っていくのも見えた。
信長出陣の報を受けて、清洲や、尾張中から集合してきた者たちだ。
俺たちも、熱田に入る。
そして信長がいるという熱田神宮に到着した。
神宮の周囲には、信長軍が集結している。その数は数百人ほどか。
「五郎左、藤吉郎。よく来た」
信長は、やってきた俺たちを歓迎した。
そして六角軍の将たる蒲生賢秀にも手厚く礼を言い、
「こたびの戦に勝利した暁には、六角殿と酒でも酌み交わそう」
と、上機嫌に言った。
信長は酒が苦手な下戸のはずだ。
しかしここは、場を盛り上げるために言ったのだろう。
蒲生賢秀は、ニコニコ笑いながら信長の言葉を受ける。
だが、さてその笑顔がどこまで信じられるか。尾張国が今川に取られたら、六角氏も困る。だから、彼らは登場したわけだが、それでも状況次第では真っ先に退却するだろう。俺たちはあくまでも、織田の力を主戦力として今川軍を撃破しなければならないのだ。
「勝利、できますかな」
信長の隣にいた、林秀貞が言った。
かつて信長に逆らい、かつ信長を幼いころから知っている彼は、どんなときでも信長にやや否定的だ。
「するのだ」
信長は、彼の言葉を打ち消すように言った。
「できますかな、ではない。われわれは勝利する。必ずだ。我らならば、できる」
「…………」
俺は信長の顔をじっと見る。
後ろで、伊与とカンナが息を殺しているのが分かった。
――俊明。上総介さまは勝てるのか?
ここに来る途中、伊与は何度か俺に尋ねてきた。
表情こそ涼しげだったが、やはり不安なのだろう。
桶狭間の戦いの経過は、すでに未来人の俺が知っているものとずいぶん異なってきている。
信長が勝てるかどうか、俺にも断言できないのだ。まして今回は、俺たち神砲衆も新しい武器や道具を用意している時間がなかった。装備は連装銃やリボルバー、早合、銃刀槍の類があるのみだ。万を超える今川軍を粉砕するには力不足だ。
だが、俺は答えた。
――するのさ。
そう、信長のセリフと同じように。
――俺たちは勝利する。必ずだ。俺たちなら、できる。
今回ほど、博打のような一戦はない。
これまで俺たちは、戦うたびに新しい武器や道具を用意してきた。あるいは俺の歴史知識を利用して逆転してきた。
しかし今日に限っては、それらがまるでない。まして人数は今川軍に大きく劣っている。勝つ要素はほとんど見当たらない。
だが――
人生に一度か二度は、こういうときがあるのだと思う。
知識も道具もなにもない。勝つ見込みなどまるでない絶望的な戦い。
それを、徒手空拳で覆す。自分の力で。そうしなければ前には進めない。そういう瞬間が必ず存在するのだ。
織田信長にとって、そして俺にとって。
桶狭間の戦いは、そういう戦いなのだ。
――南東に、目を向ける。
丘陵の上で、薄い煙が立ち上っているのが見えた。
「あの山におる今川軍が、朝食を作っておるのじゃ」
と、藤吉郎さんが言った。
「炊事の煙ですか……」
「落城の煙のようにも見えるな」
佐々さんが、縁起でもないことを言う。
しかし確かにその煙は、火攻めを食らった城が燃え尽きた煙のようにも見えた。
そういえば、あの今川軍が陣取っているあたりは、かつて織田家の丸根砦や鷲津砦があった場所ではなかったか……。
「なんじゃ汝らは。揃いも揃って辛気臭い。わしにはあれが勝利ののろしに見えるぞ」
カラカラと、藤吉郎さんは笑った。
こういうとき、明るいひとはいい。
なんとなくあたりのムードが明るくなり、士気がにわかに上昇する。
「勝利ののろしとはよかった」
信長も、なぜだか上機嫌に言った。
「藤吉郎の言う通りじゃ。やつらの上げておる煙はわれわれ織田軍の勝利の狼煙よ。……よいか、皆のもの」
信長は、叫んだ。
「これより我らは今川軍に決戦を挑む。敵はすでに一度我らと戦い、その後も尾張に長陣を続けてくたびれ果てている者どもだ。それに比べて我らは新手。必ずや敵を突き崩せる――」
いつの間にか、あたりはしんとなっていた。
信長の甲高い声が、熱田の境内によく響く。
俺も、伊与も、カンナも、五右衛門も、次郎兵衛も。小六さんも大橋さんも。
藤吉郎さんも丹羽さんも、佐々さんも滝川さんも、林秀貞や佐久間信盛も、援軍の蒲生賢秀さえも。
誰もが、神妙な面持ちで信長の演説を聞いていた。聞き惚れていた、と言ってもいい。不思議なことだ。信長の声にはそれだけの力がある。聴いている者の意思をひとつにさせるような力が。――名将のみが持ち得る力というべきか。
「なんとしても今川軍をひねり潰すのだ。こたびの戦、勝ちさえすれば参加したものの家の名誉、末代までの高名であるぞ。おのおの手柄せい。功名せよ。敵の武器を分捕ることなど考えず、ひたすらかかれ!」
「おお!」
藤吉郎さんが、槍を掲げて叫んだ。
すると、他の兵たちも、おお、と吼えた。
おお――
おおお――
おおおおおおお……!!
軍の士気が。
天高く上がっていく。
誰もが叫んだ。
この場にいた信長軍は、いまひとつになった。
「……似ている」
大橋さんが、つぶやいた。
「似ている? なにがですか」
「覚えておられないかな。赤塚の合戦のときよ。あのとき、鳴海城の兵を前にして負けに負けていた上総介さまの軍勢は、しかしあのとき、上総様の声で士気を回復させ、一気に逆転したものじゃった」
そうだった。
あの戦いのときの信長は、とにかく華麗で、美麗で、そして神々しかった。
いまもまた、あのときと同じ。信長の鼓舞で全軍は奮いたっている。そんな不思議な力が、彼の声音には確かにある。
こうしている間にも、兵が少しずつ増えていく。
気が付けば信長軍は、全部で2000人ほどにまで増えていた。
いけるかもしれない。
高揚感が、全軍を覆っていた。
「狙うは今川治部の首ただひとつ! これより我らは決戦に挑む!」
信長の号令一下、織田軍は声を張り上げて――
「南東に見える今川軍を打ち破る。敵の数が多勢であろうと構いはせぬ。すべてを討て。すべてを倒すのだ。――ゆくぞ、者ども!!」
「おおおおおおおおおおおおッ!!」
織田軍は、今川軍が複数陣取る南東の方角へと駆け出した。
さて。
ここから先の話は、このとき今川軍の小者を務めていた者が、のちに俺の部下になったときに語ったものだ。
尾張南東の山上に陣取っていた今川義元の本軍。
その軍の中にいる義元には、接近してくる信長の軍勢がよく見えた。
「尾張のうつけめ、狂うたか」
義元は、高笑いしたらしい。
無理もない。今川は全軍で15000。
義元の周囲だけでも5000の軍勢を配置していた。
そこに2000ほどの雑軍で襲いかかってくるのは、どう考えても無謀だった。
「うつけはしょせんうつけでしかなかったのう。父、弾正忠信秀には遠く及ばぬ。……者どもに伝えよ。うつけが北西から攻めてくるゆえ、態勢を整えて弾き返せとな」
正しい指示だった。
今川義元はさすがの名将。
その下知にはなんらぬかりはない。
普通に考えれば負けるはずのない戦いなのだ。
いや、もう――あとになって考えれば、俺もこのときは、どうかしていた。
なぜ、2000足らずの兵で威風堂々たる今川軍に挑んだのか。確実に負ける。生き残ることだけ考えれば、神砲衆の仲間だけ連れて、甲賀あたりにでも逃げればよかったのだ。だが俺はそうしなかった。ここで逃げることは負けだと思っていた。二度目の人生、戦国乱世における俺の使命。ただ一度。ここだけは、桶狭間の戦いだけは、敗北も逃亡も許されない。そんな気がしていた。ここを逃げたら、俺はもうきっと、男として人として、お天道様の下を歩けないと――
逃げないと決めたじゃないか。
藤吉郎さんとあの場所で、木の下で黄金色の誓いを立てたあの瞬間から。
この乱世を終わらせるために、全身全霊を振り絞るのだと――
そんな一心を胸に抱き、俺は銃刀槍を構えたまま、今川軍目がけて走っていた。
奇跡が起きた。
山のふもとまで信長軍が迫ったとき、ふいに天候が崩れた。
石のようなひょうが、空から降り注ぎ始めたのだ。
それだけじゃない。
雷鳴が轟いた。光がまたたいた。
風が北西から強く吹き抜け、ひょうは南東に向かって降りまくる。
それは本当に偶然だった。
北西に向けて軍を構えていた今川軍は、顔面でひょうを受けたことになる。
視界が、一気に悪くなった。
「なんだ、いきなりなんという天気だ。――ええい、者ども、慌てるな!」
義元は下知を下した。
しかしあまりに突然のことに、今川軍は混乱する。
敵が攻めてきて、いざ激突という段階で、ひょうが降り注いできた。
彼らは、あるいは神か仏がお怒りか、と思った。
この時代の人間は大なり小なり迷信深い。信長も例外ではない。
「これは熱田大明神のご加護か」
と、感激した。
信長軍にも、もちろんひょうは降り注いだ。
しかし信長軍は、あくまで背中でひょうを受けているのだ。視界は悪くならない。
「山をのぼれ! 治部を討て! かかれ、かかれっ!」
信長の大音声が轟き渡る。
俺たちはひょうを受けながら、山をひたすら上った。
迎え撃つはずの今川軍はこのとき、ほとんど混乱状態にあった。
それは短い混乱時間であったが、しかしそのすきに信長軍は山中に布陣していた複数の今川軍の隙間をくぐり抜け、そしてついに、
「見つけたぞ」
それはなんと言う奇跡だったか。
信長軍は、今川義元の本隊の前に到着していたのである。
山の中腹。
義元が陣取っていたその山の名は、桶狭間山――
「うつけめ、なんたることじゃ。ここまできおったか」
義元は、突然のことにさすがに目を見開く。
いっぽう信長は、高笑いした。
「見よ! あれに見えるは今川治部ぞ。天は我らに味方した。治部さえ殺せば我らの勝ちじゃ。いけ、者ども! かかれっ、かかれっ!!」
「こしゃくな、うつけ。返り討ちにしてくれるわ! 者ども、なにをもたもたしておるか。上総介を討ち取れい!」
両大将の声音が響く。
信長軍2000と今川軍本隊5000が激突したのはこのときだった。
ひょうは、いつの間にか、止んでいた。空はあくまでも薄暗く、いまなお、
「俊明、いくぞ。今川治部を我らの手で!」
「治部を倒すのは神砲衆たい。今川本隊をブッ倒して、手柄たくさんもろうたるけん!」
伊与とカンナの声を聞きながら、俺は――
俺は、俺も、俺もまた、声にならない声を上げながら、銃刀槍を身構えて、今川軍に向けて銃弾を放ち――しかし泣きそうな心の震えを感じていた。なぜなら。
さっき。
今川軍に向けて信長軍が突っ込んだとき。
空で光ったあのカミナリ。雷鳴は――あれは、俺が死んだときの稲妻ではなかったか。
電撃に種類もくそもない。
21世紀の稲妻と16世紀の稲妻が、同じものであるはずがない。
それなのに、転生者の直感で悟っていた。あのカミナリが俺に機会を与えてくれたのだと。
「神砲衆っ――」
俺は、銃弾を撃ちこんだあと、吼えていた。
「俺のもとにまとまれ。連装銃を構えて撃ち込め。続けて銃刀槍組、前へ。弾を撃ち込んだあと、敵に向かって突撃する。狙うは――」
それこそ
「狙うは今川治部大輔、ただ
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