第17話 雨上がりにもう一度戦いを
俺と伊与が、佐々さんに案内されたのは、熱田の町の外れにある屋敷だった。
薄汚れてはいるが、だだっ広いこの屋敷は、
「かつて、あの熱田の銭巫女が所有していた屋敷だ」
と、佐々さんは言った。
「銭巫女が……」
「だが銭巫女は倒れた。その後、織田家が熱田における拠点のひとつとして使っていたのだが――いま役に立った」
屋敷の中を歩きながら、佐々さんが説明する。
内部は、しんと静まり返っていた。人の気配は、まるで感じない。
やがて屋敷の最深部にある部屋に到達すると、
「……山田!」
「滝川さん!」
そこにいたのは、滝川一益さんだった。
「ご無事でしたか!」
「お前もな! 堤も無事だったか。よかったぜ……!」
無精ひげを生やしまくった顔を、くしゃくしゃに歪ませながら、滝川さんは俺たちの生還を喜んでくれた。
それから、俺と滝川さんは、互いにきょろきょろし合う。
「山田。蜂楽屋はいないのか? それに次郎兵衛や石川も……」
「……いません。いまここにいるのは、俺と伊与だけです。そちらこそ……藤吉郎さんや丹羽さんは?」
「いない。ここに辿り着いたのは、我ら3人だけだ」
滝川さんではなく、佐々さんがぼそりと言った。
3人? 3人だって? 佐々さん、滝川さん、そしてもうひとり誰か助かったのか……?
そう思って、俺は部屋の奥に目をやると、そこには――
「上総介さま!?」
伊与が、すっとんきょうな声で叫んだ。
――そう。
その部屋の中に身体を横たえていたのは、なんと信長だったのだ。
俺と伊与は、慌ててその場に平伏する。……だが、信長はぴくりとも動かない。
「よせ、山田。……上総介さまは意識を失っておられる」
佐々さんがそう言ったので、俺たちは恐る恐る、顔を上げた。
信長は、胸をかすかに上下させている。生きてはいるようだ。
確かに、反応はまるで見られないが――
「しかし、なにはともあれ生きておられたなんて。よかった。本当によかった。俺は敵にやられたとばかり……」
そう、俺は確かにこの目で見たのだ。
敵のパームピストルから放たれた銃弾が、信長の胸を貫いたのを。
「これのおかげだろうぜ」
滝川さんが、俺に右手を突き出した。
その右手の上には、砕け散ってしまってはいるが――
銀の十字架が、載っていた。
俺は思わず、目を見開いた。
堺で貰ったあの十字架だ!
信長に土産として献上した十字架!!
信長はずっと肌身離さず持ってくれていたのか!
そして、それが銃弾を受け止める防具になったのか……!!
「そうだ、山田。お前が献上したその道具のおかげで、上総介さまはお命を取り留めた」
佐々さんは、静かに言った。
だが、やがてすぐに悲しげにかぶりを振る。
「しかし……意識はまだ戻っておられぬ」
「…………」
「昨日からのことを話そう。……田楽狭間で敗戦した我らだが、しかし上総介さまがまだ生きておられることを知った自分と滝川殿は、上総介さまを担いで、戦場から離脱しようとした。――当然、今川兵が襲いかかってきたのだが――」
「そこで、柴田さまと前田又左が獅子奮迅の活躍をしたのさ」
「柴田さんと、前田さんが……!?」
俺が怪訝声を出すと、佐々さんと滝川さんは揃ってうなずいた。
おふたり、曰く。
稲生の戦いと、拾阿弥殺人事件で揃って信長に迷惑をかけた柴田さんと前田さんは、
――いまこそ、主君を守りかつての汚名を返上するとき!
として、ふたり揃って槍を構え、今川軍へと突撃していったそうだ。
ふたりの戦いぶりは、まさに一騎当千。迫る敵兵を次から次へと突いて、刺して、崩しまくり、打ち払い薙ぎ払い追い払った。
そして今川軍深くにまで入り込み、今川義元本人にまで手傷を負わせた、という。
その結果。
今川軍は動きを一時的に止めた。
佐々さんと滝川さんは、これ幸いとばかりに信長を担いで逃亡。
途中、落ち武者狩りなどにも遭いながら――
しかしなんとか窮地を切り抜け、熱田まで戻ってきたらしい。
だが。
前田さんと柴田さんがどうなったのかは分からない。
他の織田家の仲間たちも、どこにいるのか皆目分からない、とのことだった。
「……情けない話だ。逃げるだけが精いっぱいだったとは」
佐々さんは、くちびるを噛み締めながら言った。
「土壇場で何の役にも立てなんだ。傾奇者の又左ごときに遅れを取った。……歯がゆいにもほどがある」
「……佐々さん。そんなに自分を責めないでください。佐々さんがいればこそ、上総介さまは助かったのですから」
「その上総介さまも、どうなるか分からんだろう。昨日からなにも召し上がっておらんし、意識も戻られんのだ。……傷の処置だけはしたが、このままでは……!」
佐々さんにしては珍しく、険しい顔と荒々しい声だった。
自分でもそれに気が付いたのか、佐々さんはそこで大きく息を吐き、声を止める。
そして少しだけ、冷静さを取り戻したような声で、小さく、
「強くありさえすれば……」
それだけ言うと、佐々さんは部屋を出て、いずこかへと立ち去った。
部屋には、俺と伊与と滝川さん、そして目を閉じたままの信長だけが残される。
「……あいつ、兄貴を亡くしたんだよ」
滝川さんが、ぽつりと言った。
伊与が、片眉を上げて「お兄様を……?」と問う。滝川さんは、首肯した。
「佐々隼人正政次……っていったかな。あいつの兄貴も織田家に仕えていたんだ。だがな、今回の田楽狭間の戦いで、オレたちを逃がすために……。立派な最期だったぜ」
滝川さんの言葉で、俺は思い出した。
佐々成政はもともと、佐々家の三男だ。
長男の名前は、まさにその佐々隼人正政次。
織田信長の父、織田信秀にも仕えていた優秀な武士だった。
しかし桶狭間の戦いで、今川軍と戦って死ぬはずだった人物でもある。
その結果、佐々家は、次男もすでに死んでいたため、三男の佐々成政があとを継ぐことになるのだが……。
まさかこんな流れで佐々政次が死に、佐々成政さんがあとを継ぐことになろうとは。
――しょせん俺は
かつて、佐々さんと出会ったばかりのころ、彼が連呼していた言葉を思い出す。
兄と、自分の立場に対して複雑な思いを抱えていたであろう佐々成政。それが……。
――強くありさえすれば。
そう言って部屋を出ていった、先ほどの彼の背中。
妙に、小さく見えた。……その姿は俺の網膜から消えない。
雨が、また降り始めた。
うっとうしい湿気だけが、部屋を覆っていく。
「なにもかも、霧の中か」
詩的な表現を用いて、伊与が現状を嘆いた。
その通りだ。仲間たちの生死は分からず、信長だってどうなるか分からない。
これからどうするべきだろう? 熱田に留まるべきか? それとも津島か清州に戻って……。
そのときであった。
「なんじゃ、なんじゃ、辛気臭い顔をしおって!!
馬鹿でかい声が聞こえてきた。
俺も伊与も滝川さんも、顔を上げる。
顔を見ずとも、はっきりと分かった。
どすどすどすと、大きな足音を立てて、こちらの部屋に向かってきているのは――
「弥五郎! 伊与! 無事じゃったか!」
「「藤吉郎さん!!」」
俺と伊与は、揃ってその名を呼んだ。
藤吉郎さんが、そこに立っていた。
うるせえやつが来やがった、と俺の背後で滝川さんが小さく言ったが――
俺はとにかく顔を明るくした。藤吉郎さんが生きていた! そしてこの屋敷にやってきたのだ!!
藤吉郎さんの後ろには「よう」と手を挙げて、立っていた女がいる。
五右衛門だ。石川五右衛門が、照れ笑いを浮かべてその場にいる。
「五右衛門。お前も生きていたのか!」
「当たり前さ。うちがあんな戦いで死ぬもんかい。藤吉郎さんを助ける手柄まで立てちまったぜ」
「藤吉郎さんを……?」
「わっはっは、その通りじゃ。この木下藤吉郎、落ち武者狩りに遭って絶体絶命じゃったところを五右衛門に救われた。いや五右衛門、助かったぞ。礼を言う、礼を言う。いずれわしが立身したら、恋女房にしてやるでよ!」
「なにを言ってんだい、あんたみたいな猿顔侍の女房なんて、釜茹でにされてもごめんだね!」
「釜茹でとはよかった。うわっはっは!」
藤吉郎さんと五右衛門は、軽口を叩き合う。
釜茹で、という物騒――というか石川五右衛門の結末を思われるキーワードに、俺は思わずドキリとしたが……とりあえずふたりが無事だったのは喜ばしい。藤吉郎さんとはウマが合わない滝川さんは、その場で渋面を作ったし、そして藤吉郎さんと五右衛門をこの部屋にまで案内してきたらしい佐々さんは、不愉快そうに腕を組んでいて、
「木下。仮にも上総介さまの御前である。少し馬鹿笑いを慎め」
そんな言葉を言ったのだが、藤吉郎さんはニヤニヤ笑い、
「なに、我らの殿様がこんなことで不愉快がるはずがない。むしろ賑やかでよいと笑われるはずじゃ」
「なにを、貴様……」
「内蔵助。辛気臭いのはいかん。さっきも言ったじゃろう。殿様はいま、三途の川をあちら側にいこうかこちら側に戻ろうか悩んでおられるのじゃ。ならばよ、ここで我らがどんちゃん騒ぎをして、この世がまだまだ楽しいことを殿にお伝えせねばならぬ。そうじゃろう?」
「…………」
藤吉郎さんのやけに明朗な語り口に、佐々さんは唖然としてしまう。
俺たちも、なにも言えずに呆然とする。五右衛門だけが、くすくす笑っていた。
「それ、殿様!」
藤吉郎さんは、横たわったままの信長の近くにまでずいずいすり寄って――
「まだ戦という名の大祭りは、終わっておりませぬぞおっ!」
吼えた。
「こちらに戻ってきてくだされ! 藤吉郎、一生のお願いでござる! 尾張の大うつけが三国一の弓取りを、ずばりばさりと切り捨てる姿、ぜひとも見てみとうござるなあ!」
腹の底から、出ているのだろう。
それはもう、すさまじい大声で。
にこにこと笑いながら、しかし目尻に涙を浮かべて。
「さ、殿様! ――目をお開きなさいませ!! いまこそ、この場所こそが、男一匹の踏ん張りどころでございますぞ!! ――上総介さまッ!! 上総介さまあッッ……!!」
咆哮だった。
血液さえ伴っていそうな、熱のこもった大声が、部屋中に轟いた。
藤吉郎さんは最初こそ笑い声で、しかしやがて熱気のこもった、この上なく真剣な声音を出しつつ、土下座をしながら信長に、二度、三度と呼びかけたのだ。
もう、誰も笑っていなかった。
怒ってもいなかった。俺も伊与も五右衛門も、滝川さんも佐々さんも、藤吉郎さんの声に聞き入っていた。
藤吉郎さんは、やがて弁舌をふるわなくなった。
あとはひたすら、上総介さま、上総介さま、殿様、殿様、我らの殿様、とひたすら叫び続けるのみだ。
気が付けば、俺もあとに続いていた。
「上総介さま!」
「殿様!」
「我らの殿様……!!」
伊与たちも含め、その場にいた誰もが信長を呼び続ける。
心から、励まし続ける。織田信長。あなたの死に場所はまだここじゃない。甦ってきてくれ、戦いはこれからだ。どうか、目を開けてくれ。どうか、どうか……!!
……どうか!!
「「殿様ぁッ!!」」
俺と藤吉郎さんの声が、ひときわ高く響いた。
木造の壁に、沁みこむかのような声だった。
「……藤吉郎、山田……」
小さな声が、聞こえた。
はっと、俺と藤吉郎さんは顔を上げた。
「ちと、うるさい」
「殿様――」
「そう何度も呼ばれずとも」
信長は、まぶたをゆっくりと開けつつ――
「聞こえておる」
か細い声で、そう言った。
目は、充血している。肌もまだ、青白い。
しかし確かに、生命の息吹を感じさせる声を、彼は発したのだ。
「殿様ッ!」
藤吉郎さんが、再び叫んだ。
信長は、薄く笑った。……それだけで充分だった。魂の存在は、確かに伝わった。
わっと、俺たちは飛びあがった。物静かな佐々さんでさえ、口許を緩め涙を浮かべて右手を挙げたのだ。
「殿様! 殿様、殿様、上総介さま! 上総介さまああァァァァ……!」
藤吉郎さんは何度も何度も、その名を呼ぶ。
――まだ戦という名の大祭りは、終わっておりませぬぞ!
藤吉郎さんの大声が、俺の脳裏を再びよぎった。
外の雨は、いつの間にか上がっていた。
雲が切れているのだろう。部屋の中に、どこからか陽射しが射し込んできていた。
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