第15話 俺は転生者

 誰だ?

 身をかがめ、息を殺す。

 ここで敵と出くわしたら最後だが――


「……弥五郎」


 か細い声が聞こえてきた。

 この声音。小声でも聞きまちがえるはずがない。


「伊与!」


 俺は身体を起こし、その名を呼ぶ。

 すると眼前には、雨によってしこたま濡れた幼馴染が、脇差を下げて立っていた。


 戦いに疲れたのか。

 肩で呼吸を繰り返している。


 刀は、鞘だけになっていた。

 折れたのか、無くしたのか。

 だから脇差を持っているのだろうが、これではろくに戦えまい。


 とにかく。

 伊与が生きていたことに、俺は心底ほっとした。


「無事だったか、伊与」


「お前もな、弥五郎。……カンナたちは?」


「分からん。俺はさっきまで気を失っていたんだ」


「そうか……」


 雨は、ますます激しくなっていく。

 よく見えないが、敵の兵も、あたりをうろついているようだ。


「このままじゃ、私たちもやられる。いったんこの場から逃げよう」


「……そうするしかないか」


 俺としては、仲間を見捨てたくはないが、


「五右衛門や次郎兵衛もいるんだ。彼女たちなら、必ず生きて帰ってくるさ」


「そう願いたいが……」


 カンナや藤吉郎さんたちのことは気になる。

 しかしこのままでは、どうしようもない。俺たちまでやられてしまう。


 仕方なく俺たちは、仲間たちの無事を祈りながら。

 少しずつ、その場から退却を始めたのだ。


 草むらの中を、ほふく前進で進んでいく。

 泥水が服の中から下着のところまで入り込んできて、気持ちが悪い。


 それでも、前へ、前へ。

 戦場からやや離れてから、俺たちは立ち上がり、駆けだした。

 雨の中、さしあたっては西に向かって。――尾張の方角へと進む。


「弥五郎。このあたり、見覚えがないか?」


「三河に旅をしたときに、通ったあたりだな。一度歩いただけだが、なんとなく場所は分かるぞ」


「私もだ。何事も経験だな」


 田楽狭間から離れて、やっと少しだけ軽口が出てくる。

 雑談をしている場合でもないが、それでも会話をしなければやっていられなかった。


 あたりに、今川の兵や、落武者狩りの姿は見えない。

 ここで俺たちは、いよいよ小走りになる。急いでその場から逃げたかった。


 とはいえ――

 どこに戻るべきなのか?

 それは分からない。信長が討たれた以上、織田家の今後はどうなるのか。

 とりあえずは清洲城か、津島に戻るべきなのだろうが……。


「弥五郎、見ろ」


 伊与が、口を開いた。

 目の前には田園地帯が広がり、その中央には小さな森が見える。

 そしてその森の中には、石の鳥居と、小屋のような建物が建っていた。さながら鎮守の森のようだ。


「雨宿りには持ってこいだな」


「どうする、弥五郎。一刻も早く逃げるべきか、それとも」


「……逃げたいのは山々だが」


 雨はますます激しくなっていく。

 時おり、春雷まで聞こえる始末だ。

 空は、はっきりと暗くなっていく。

 もう時刻は夕方のようだ。その上、俺も伊与も戦闘と逃亡を続けたせいで疲労が激しい。正直に言えば、この場でいいからぶっ倒れて横になりたいほどだ。


「休んでいこう。このままじゃ途中でふたりとも倒れてしまう」


 俺はそう言った。

 すると伊与も、休みたかったのだろう。こくりと素直にうなずいた。




 小屋の戸は、鍵もかかっておらず、押すだけで開いた。

 中には乾いた藁が積まれている。広さは四畳半くらいの板張りだ。

 中に入った瞬間、身体が急に暖かくなった。やはり雨に打たれて、身体がそうとう冷えていたのだ。


「乾いた手拭いが欲しいところだな。身体をよく洗って拭きたい」


 伊与が言った。


「それと、火にあたりたいな。とにかく寒い」


「しかしできないな。焚き火でも起こせば敵に見つかる」


「なにより火を起こす道具がないさ」


 俺は、薄く笑いながら言った。


「とにかく服を脱ごう。このままじゃ風邪を引いちまう」


「…………」


「……どうした? 伊与」


「変なこと、考えてないだろうな」


「馬鹿。こんなときになに言ってんだ。早く脱いで、そのへんに服を干しとけよ」


 慌ててそう言ったが、実際のところ、そういうことはまったく考えてなかった。

 とにかく濡れた服を着たままじゃよくないと思って、それで……。


 ……隣で絹擦れの音がする。

 伊与が鎧を外し、その下の衣服さえ外しているのが分かった。

 間の悪いことに、というべきか。このころになると薄暗い小屋の中にも目が慣れて、それなりに目の前の光景が見える。


 狭い室内。

 無理やり顔を横に向けていないと、隣の伊与の肉体が、嫌でも目に入ってしまうだろう。

 俺は自分も服を脱いで、下着一丁の姿になる。


 藁の中に入った。

 暖かい。……驚くほど、乾いた藁の中は、居心地がよかった。


「風邪を引かずに、済みそうだな」


 伊与もまた、藁の中に入ってくる。

 彼女の体温が、藁を通じて俺の全身に伝わってくるような気がした。


「……」


「……」


 しばしの沈黙。

 それから、


「これから、どうなるのだろうな」


 伊与が、ぽつりとつぶやいた。


「上総介さまがいなくなり、織田家は奇襲に失敗し。……これで尾張は今川家のものかな」


「…………」


「私たちはどうする。今川に仕えるか? それともいっそ、別の町に移動するか」


「…………」


 俺は黙っていた。

 伊与がなにか提案してくれているのは分かるが……

 それは音として聞こえるだけで、いまいち、頭には入ってこない。

 頭が、とにかくぼーっとしている……。


「甲賀に身を寄せるのもいいかもな。和田様なら、私たちを受け入れてくれそうだ」


「…………」


「……弥五郎。聞いてるのか?」


「……ああ、聞いてるよ……」


 そう返すのが、やっとだった。


「だったら返事くらいしてくれ」


 伊与は、やや不満げに言った。


「弥五郎はこれから、どうするつもりなんだ。なにか考えでもあるのか?」


「……なにもないよ……。……頼む、少し静かにしてくれ。疲れてるんだ」


「……そういう言い方はないだろう」


 伊与は、さらにむっとした口調で告げた。


「疲れてるのは私だっていっしょだ。だが、ここは少しでも次の策を考えるべきときだ。そうじゃないのか!?」


「次の策? ……次なんて……次を考えるには情報が足りなさすぎるだろう!」


 疲れ果てていた俺は、思わず荒っぽい口調で返してしまった。


「次の策、次の策って、よくそんなに気が回るな。俺はいま、そこまで考えられないよ。とにかくここを脱出すること。カンナやみんなが無事でいること、そこだけを考えてる。なにはともあれ、それからだろ。なにもかも、カンナたちと合流してからだ!」


「なにもそんな、怒鳴らなくてもいいじゃないか! 私だってカンナたちのことは考えているさ! しかし戻ってからのことだって、考えないといけないじゃないか! それなのに……」


「だから、カンナや藤吉郎さんたちがいるかどうかで、その後は全然変わってくるんだ。みんなのことを無視して考えなんか進められねえよ!」


「別に無視なんかしてないだろう! 私は神砲衆が、弥五郎が、これからどうやったら生き延びていけるかも、ちゃんと考えないといけないって……!」


 俺たちは、激しく言い争う。

 お互いの顔を見ていないせいか、その口喧嘩はどんどん勢いを増していった。

 まるで、外の豪雨のように――


「……」


「……」


 気まずい沈黙。

 それが、10分か……もう少し続いてから。


「ごめん、伊与。言い過ぎた。……伊与はちゃんと将来のこと、考えて言ってくれていたのにな」


「いや。……私も先走りすぎたよ。悪かった。怒鳴ってしまって……」


 お互いに謝る。

 ちらり、と伊与のほうに首を向ける。


 藁の中に全身を埋めていた彼女の姿が見えた。

 首筋から鎖骨のあたりまで、真っ白な美しい肌がまぶしい。


 彼女は、少し顔を赤くしながらも、微笑んでいた。

 俺も笑う。


「何年ぶりかな。弥五郎と喧嘩をしたのは」


「もう10年以上してなかったな。小さいころはしょっちゅうしていたけど」


「私たちは、なんでこんなに喧嘩をしなくなったかな?」


「そりゃ、10年くらい前からあまりにいろいろあったから……」


「違うな。……弥五郎が突然、落ち着いたからだ」


 伊与の言葉。

 俺は、ぎょっとした。


「あのシガル衆が、村に攻めてくる直前くらいから。……弥五郎はなんだか、分別がついた。それまでは本当に子供っぽかったのに、急に落ち着いて、道具作りにも詳しくなって」


「……」


「あのころから、私と弥五郎は、あまり喧嘩をしなくなったんだ」


 伊与は、懐かしむように言っている。

 しかし俺にとっては、冷や汗もののセリフだった。

 だって俺は、転生者だから。……シガル衆との戦いの直前。それは俺の『山田俊明』としての意識が、覚醒したころにあたるから。


「あのころを思えば、弥五郎は凄くなったよ。大樹村の炭売りの子が、いまや織田家にお仕えして、東海一の弓取りを相手に大喧嘩だ。それだけでも大出世だよ。……なあ?」


「……そうかな」


「そうさ。目もくらむような出世ぶりだ」


「……結果的に、こんなふうに負けちまっちゃ、意味ないけどな」


「そうでもないだろう。結果はどうあれ、これだけ頑張ってきたことは、胸を張っていいと思う。……前々から思っていたが、弥五郎。お前は自分のことを、もう少し認めてやっていいと思うぞ」


「……」


「カンナも言っていた。弥五郎はなしてあんなに、くよくよするんやろうか。あんなに頑張り抜いている自分を、どうしてもう少し誇れんのやろうか。……なんてな」


 嘘臭い博多弁を使いながら、言ってくる。カンナのマネだ。

 伊与が、沈みこみがちな俺のことを、励ましてくれているのが分かった。


 しかし……


「……最後まで勝たなきゃ意味ないんだよ。こんなところで負けてる俺じゃ……ましてや桶狭間で信長を負けさせてしまったんじゃ……」


「上総介さまが敗れたのは、上総介さまご自身の采配のためだろう。弥五郎のせいじゃない」


「俺の責任もあるんだよ。奇襲作戦が敵に見抜かれたのも、敵がパームピストルを使ったのも、俺の失策なんだ」


 湿っぽい口調で、俺は自虐する。

 頭は、ますますぼーっとしていた。

 自分でも嫌になるほど、ネガティブな発言しか出てこない。

 もともと自分が根暗なのは自覚していたが……。しかし、これは――


 伊与は、再び声を荒らげて告げてくる。 


「考えすぎだ! 弥五郎、本当にお前の悪いくせだぞ。自分の大きな成功はまるで誇らないくせに、小さな失敗はやたらとなんでもかんでもくっつけて、なにもかも自分のせいだと落ち込んで。天下の不幸を自分ひとりで背負っているつもりか!?」


「そうじゃない……!」


 俺は、かぶりを振りつつ言った。


「そうじゃないさ。ただ俺は、こんな、よりにもよって絶対に負けられない戦いで信長を負けさせたことについて悔やんでいるんだ! ここだけは、ここだけはしくじっちゃいけない場面だったのに!」


「普通に考えればそもそも負ける戦いだったろう。相手は今川治部だ、東海一の弓取りなんだ。勝てると思うほうがおかしい……」


「勝つんだよ、ここだけは!」


 頭がいよいよ熱っぽかった。

 もしかして、俺はいま、熱があるんじゃないか。

 そう思いながら、しかし頭の思考は渦を巻いてまとまらず、口だけが勝手に動いていき――


「勝って織田信長が天下に名乗りをあげる第一歩になるはずだったんだ! そういう未来になるはずだったんだよ!」


「……………………」


 ……失言だった。

 いや、失言なんてもんじゃない。

 俺はそのとき、相手が伊与だという気安さもあったせいか。疲労や心労もあったせいか。


 つい、言ってしまった。

 その、フォローしようがない言葉を。


「未来、だと?」


 大きな瞳を、この上なく歪ませながら、伊与はくちびるを震わせる。


「…………弥五郎。未来とは、どういうことだ?」


「……いや……それは……」


「待て。しゃべるな。……ごまかすなよ、弥五郎。未来? 未来になるはずだった? どういうことだ。まさか、まさかお前は――いやしかし、そうだとしたら――」


「…………」


 俺は、伊与から目をそらす。

 外の雨は、ますます激しい。


「弥五郎。……私は……私はお前が好きだ」


 伊与はふいに、そんなことを言った。


「お前のことを、誰より大切に思っている」


「それは……俺だってそうだ」


「それなら、私たちの間に隠し事はなしだ。そうだろう?」


「……」


 詰めてくるような、口調。

 嘘もごまかしも許さないという話し方。

 そんな表情で、彼女は言った。


「弥五郎。真剣に答えろ」


「……」


「お前の、さっきの言葉はなんだ?」


「…………」


「そういう未来になるはずだった、とはなんだ? ……お前はもしかして、未来を知っているのか? そういうなにかをもっているのか……? そう……そうなのか? そうだとしたら、お前のすべてに説明がついてくるんだ。あの日から、シガル衆が攻めてきたときから、義父様と義母様といっしょに商売を始めたころから、お前は少し変わってきた。まるで、そう、まるではるか未来を知っているように。占い師かなにかのように。――答えろ。正直に答えてくれ、弥五郎」


 伊与は、澄んだ声で。

 しかし喉を震わせて、なぜだか薄い笑みまで浮かべて尋ねてきたのだ。


「お前は誰だ?」


「………………」


 わずかに瞳を動かして、幼馴染の、堤伊与の表情をまっすぐに見つめる。

 綺麗な、本当に綺麗な双眸だった。幼いころからずっと一緒だった彼女。一時離別してから、その後再会し、それからずっと俺を支え続けてくれた彼女。そんな彼女に嘘をついていることに、たまらない罪悪感を感じた。


 俺は、戦国時代の少年弥五郎だ。

 だがそれと同時に21世紀の人間、山田俊明でもある。

 俺は本当の俺を隠しながら、こんなにも一途で生真面目な女性をあざむき続けている。


 それがもう、耐えられなかった。

 だから、だからこそ。……ああ……脳を支配している熱のせいも、あるいはあったのかもしれないが、俺は、俺は。


 わずかに涙を浮かべて、ついに告げた。


「俺は、転生者なんだ」


 喉をカラカラにさせながら、言ったのだ。


「俺は、山田俊明。……いまから数百年後の未来から、この時代の人間に生まれ変わった男なんだ」

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