第12話 田楽狭間の戦い。……そして。

 今川義元は、またたく間に軍備を整え。

 そして尾張に向けて進軍を開始した。

 1560年(永禄3) 4月のことである。


 今川軍は尾張南部に侵入。

 沓掛くつかけというところに陣を構えた。

 さらに、尾張国内にある大高城、これは尾張の城だが今川家の所属だったので、配下の松平元康――そう、のちの徳川家康に命じて、兵糧を運び込ませた。


 ――この戦いは、長期戦になる。

 今川義元は、そう見込んだのだ。


 このように、今川軍の動きは素早い。

 これに比べて、織田側の動きは、どうひいき目に見ても鈍い。

 信長は迫りくる今川軍に対して、ほとんどなんの動きも見せないのだ。

 策を練るでもなく、どこかの勢力に援軍を頼むでもなく、ただ時間を費やすのみ。


「我らが殿様を信じよ。上総介さまはいつだって、逆境をはねのけてきたではないか」


 藤吉郎さんは先日から、配下の足軽や、尾張の領民たちに向けて、そのように喋りまくっている。

 だがこれは、尾張側の士気が下がらないように、藤吉郎さんが独自に動いているのだ。織田家の足軽・雑兵・領民が、信長を見捨てないように、藤吉郎さんが弁舌をふるっているのである。信長から命じられたわけでもなく、彼が独断で動きまわっているわけだ。藤吉郎さんらしい動きだった。


 だがそんな藤吉郎さんでも、今川軍が沓掛に陣を構えたと聞いて、ふと、俺に漏らした。


「殿様は勝てるかのう」


 藤吉郎さんの明晰な頭脳は、悲しいほどに戦いの結末が見えているようだ。


「柴田さまの見込みでは、今川軍の数は15000。これに対し我らが殿様は、どう頑張っても5000がやっと。このままでは、万に一つの勝ち目もない。弥五郎、例え汝の武器を用いてでも勝利は難しかろう」


「それはそうですが……。殿様にはきっと、なにか考えがありますよ」


「わしもそう思う。……いや、そう信じたい。そうでなければ尾張は破滅じゃ。しかし……」


 藤吉郎さんは、首を振った。


「弥五郎。今川屋形は手強いぞ。これまでの敵とはわけが違う」


「……分かります」


 かつて駿府の今川屋敷に乗り込んだとき、一度だけ目撃した今川義元。

 あの風体から放たれる迫力は、ものすごいものがあった。伊達に東海一の弓取りと呼ばれていないと思ったものだ。

 頭も回る。当時、身分を偽っていた俺と藤吉郎さんの正体を見抜き、牢に捕らえたのも義元なのだ。


 今川義元といえば、織田信長に桶狭間の戦いで敗北する運命にある人物。

 のちの信長が、あまりにも有名になりすぎたがゆえに、小説などでは信長のかませ犬的なキャラクターとして扱われやすい武将でもある。しかし実際には、この時点で今川義元ほど優秀な大名もいない。シガル衆や熱田の銭巫女、織田信勝たちとは段違いの強さを誇る、当代随一の戦国大名、それが今川義元だ。


 ――俺はいま、内心でひどく首をかしげている。


 信長は、今川義元に勝てるのか?

 そんな疑問が湧いてきて仕方がないのだ。

 信長も、むろん強い。極めて優秀な武将だ。結してうつけなんかじゃない。それは未来人の俺が一番よく知っている。


 しかし、そんな俺でさえ、信長が義元に勝てるイメージがいまひとつ湧かないのだ。

 桶狭間の戦いが、俺の知る史実より1か月も早く起きていることも、引っかかっている。


 考えすぎかもしれない。

 しかし嫌な予感が消えない。


「弥五郎、頼むぞ。いつものように素晴らしい武器や道具を作って、織田家をどうか助けてくれ。汝ならばそれができる。わしゃ、信じておるでよ」


 藤吉郎さんが、俺の肩を叩いて言った。

 俺もそうしたい。信長と藤吉郎さんを助けたい。

 とにかくベストを尽くそう。いつでも出陣できるよう、部下たちに戦闘の準備をさせておこう。俺の知る史実が確かなら、この後、信長は出陣。今川義元に戦いを挑み、勝利をおさめるのだから。


 俺はその手助けをする。

 いまの俺にできることは、それしかないのだから。




 今川義元が沓掛に陣を構えたと聞いた、翌朝。

 まだ東に太陽が昇る前のことだ。……神砲衆の屋敷、その一室にいた俺のところに、伊与が駆け込んできた。


「弥五郎! 上総介さまが、出陣なされたぞ!」


「来たか!」


 俺は立ち上がった。

 すでに鎧を着込んでいる。

 準備は万端だった。信長は必ず出陣すると信じて、神砲衆には出撃の用意をさせていたのだ。


「やっぱり、弥五郎の言うた通りになったねえ」


「相変わらずの智謀だね。先のことを全部読んでいるようだ」


「へっへ、うちのアニキにかかれば、今川義元も敵じゃないッスよ」


 カンナが、五右衛門が、次郎兵衛が、俺の先読みを褒めたたえる。

 俺は微笑だけ浮かべると、屋敷の前に部下を集合させた。神砲衆。その数、現在80人。


「清洲の藤吉郎から、急ぎの使いが来たぜ」


 いまは俺の部下になっている前田さんが、槍を持ったまま言った。


「殿様、小姓数騎を連れてご出陣。我々もあとに続く。熱田神宮にて集合されたし。……だってよ」


「承知しました。……みんな、聞いての通りだ! これより織田上総介さまの援軍に駆け付ける。敵は今川治部大輔! シガル衆や熱田の銭巫女とはわけが違う強敵だ。だが恐れることはない!」


 声を、張り上げた。


「相手が何者であろうとも、この山田弥五郎は、いや神砲衆は勝利をおさめてきた。今回も必ずそうなる。俺たちは強い! 俺たち自身の強さを、勇気を信じるんだ! ……いくぞ!!」


 えいえいおう、と拳を振り上げる。

 伊与が、続いてえいえいおう、と叫んだ。

 さらに続いて、カンナ以下、仲間たちが合唱した。


 神砲衆の団結は固く、士気は高い。

 相手が鬼神であろうとも、必ず勝てる。そんな空気がみなぎった。

 俺たちは出撃した。津島衆の大橋さんや蜂須賀小六さんも、すぐに合流。

 200人を超える大所帯となった俺たちは、駆けに駆け、夜明け前の熱田へと向かう。




 なぜだろう。

 俺はこれほど士気が上がった集団の中でもただひとり、まだ胸に不安を残していた。

 ……なぜだ。どうして、こんなに嫌な予感がする……?



 雨が、降り始めた。

 俺たちが熱田に到着したころには、土砂降りになった。


「弥五郎、来たか」


 藤吉郎さんと合流はしたものの、お互いの顔もよく見えない。


「汝を待っておった。殿様や丹羽様たちも、神砲衆を待っておったぞ」


「光栄です。……しかしこれじゃ前もろくに見えませんね」


「おかげで又左がおっても、殿さまにはバレん」


 藤吉郎さんはカラカラ笑った。

 なるほど、確かに前田さんがいてもこれなら信長に見つかることはないが……

 ともあれ、この大雨。信長自身は、


「これぞ天祐」


 と言って喜んだ。


「皆、聞け」


 神宮前に集合した、主だった織田家の家臣たち――

 丹羽さんや柴田さん、佐々さん、滝川さん、藤吉郎さん、そして俺に向けて、叫ぶ。


「よいか。これより我らは、今川義元の本陣に奇襲を仕掛ける。――元より兵の数で劣る我ら、勝利するにはこれより他に策はなし。……そう思っていたところへ、この雨じゃ。これならば、近付く我らの姿を、今川軍は見つけることができぬ。確実に今川本陣に接近することができる! ――この戦、勝ったぞ!」


「おお!」


 柴田さんが、声を張り上げる。

 そして先ほどの神砲衆と同じように、織田家家臣団は、揃って右手を挙げた。俺も挙げた。


 桶狭間迂回奇襲……。

 信長軍は雨の中、今川義元の本隊に接近してこれを奇襲し打ち破った、とされる話。

 この説は、実は誤りで、桶狭間の戦いは信長軍と義元軍が正面からぶつかり合ったのだという話もある。しかし事実は目の前の通りだ。


 ここまで来たら、俺がごちゃごちゃ言うこともない。

 信長軍は、雨の中を進んでいく。俺も前に進んでいこう。

 なに、大丈夫だ。これまでだって、ピンチは何度もあった。

 しかしいつだって、俺は、藤吉郎さんは、織田信長は、勝ってきたじゃないか。


「今回だって、きっとそうなる」


「なにがだ、弥五郎」


 隣の伊与が、俺の独り言を聞いて眉を上げた。

 額からあごの下まで、雨を滴らせている幼馴染の顔立ちが、今日はやけに美しく見えた。


「いや。……必ず勝てるって言ったのさ」


 俺はそう言って笑った。伊与はキョトンとした。

 織田軍は、ますます激しくなる雨と、ぬかるんだ地面の中を進む。

 やがて鳴海の北方、善照寺のあたりまで来たところで、信長以下、織田家の家臣団のところに吉報が届いた。


「今川治部大輔の本陣は、現在、南のくぼ地――田楽狭間にあり。その場所にて雨を避け、ちょうど休息をとっておりまする。尾張各地に兵を分散させているためか、その数はせいぜい200人程度」


「治部大輔、天運尽きたわ!」


 信長は、珍しく快活に笑った。


「皆の者、配下の者たちに伝えよ。いよいよ決戦じゃ。よいか、雑魚には構うな、狙うは義元の首ひとつ。この一戦におのれと家運と、尾張一国の命運がかかっていると思え!」


 その一言で、集団は完全にひとつとなった。

 勝てる。この戦いは勝てる。尾張は守れる。おのれも立身出世できる!

 足軽雑兵に至るまで、気持ちはひとつになった。おおお、と誰もが声をあげた。


 織田軍は、突っ走った。

 南へ、南へ。目指すは、田楽狭間。

 くぼ地の下に、義元がいる。その首を獲れば、我らの勝利だ。

 それを信じて、疾走した。俺も駆けた。――もはやこのころには、進軍当初の不安など吹き飛んでいた。

 これが、これが桶狭間の戦いだ。史上に名高い、信長の運の開きはじめとなる戦争だ。勝つぞ、必ず勝つぞ。信長のため、藤吉郎さんのため、仲間のため、俺自身のために! やるぞ、やるぞ、やるぞ。いくぞ、みんな。今川義元をブッ倒せ!!


 そう信じていた。




 はずだった。




「……なに?」


 田楽狭間に最初に乗り込んだのは、津島衆のひとり、服部小平太さんだ。

 勢いのままに突っ込んだ彼は、我こそは服部小平太、今川治部どのさあお覚悟、とばかりに槍を構えたのだが――

 直後、ぽかんと口を開けた。その様子を見て、すぐ後ろにいた俺たち神砲衆も怪訝顔をする。


「どうした、服部どの」


 伊与が、服部さんに声をかけ――すぐに目を見開かせる。

 その表情の意味は、俺にも分かった。


 いない。

 田楽狭間。

 そこにいるはずの今川義元本隊が、いない。誰もいないのだ。


「なんじゃ、こりゃ。今川の兵がひとりもおらんぞ」


「ふむ。……妙だ。義元はすでに、ここを離れてしまったのだろうか?」


「…………」


 藤吉郎さん、丹羽さん、そして信長本人も田楽狭間にやってきて、周囲を見回す。

 そのときだ。


「おい、あれ!」


 目のいい五右衛門が、すっとんきょうな声をあげた。

 誰もがその声に反応した。彼女は、田楽狭間――くぼ地の上を指さしている。

 その場所には――先ほどまでは誰もいなかったはずのその土地には、なんとずらりと数百人の兵たちが、堂々と立ち並んでいるではないか!


「あれは……今川兵……? まさか――」


「いかん! みんな、伏せろ! ……いや、逃げろ――」


 俺が呆然とし、藤吉郎さんが叫ぶのと。

 そして――「射かけよ!」という声が敵陣から上がるのは、ほぼ同時だった。




 ひゅん、ひゅんっ!!




 無数の矢が、狭間の中にいた織田軍に浴びせられる。

 悲鳴が上がった。誰かが喚き、誰かが吼えた。なんだ、これは。いったいなにが起こっているんだ――


「罠だ!」


 俺の疑問に答えるかのように、柴田さんが怒号をあげた。


「我らは罠にかけられた。奇襲するのは読まれていたのだ! 逃げろ! 狭間の上まで逃げるのだッ!」


 柴田さんの叫び声。

 しかしそれも悲鳴にかき消されて、すぐに聞こえなくなった。

 織田軍は大混乱だ。当然だ。攻めるつもりが攻められるなんて、そんな、そんな。


 田楽狭間の戦いが――

『桶狭間の戦い』が、まさかこんなことになるなんて!


「ち、ちくしょう!」


 俺は吐き捨てるように叫んだ。

 こんな、こんな史実、俺は知らないぞ。

 なんで、どうして、こんなことになっているんだ……!!

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