第11話 謎の桶狭間

 駿河の今川義元が、尾張侵攻に向けて準備を開始した――

 その情報が入ったのは、1560(永禄3)年の3月下旬のことだった。

 尾張南部の熱田から、三河、遠江、さらに駿河にまで、織田家は忍びを送り込んでいたわけだが、その忍びから次々と情報が入り込んできたのだ。


 今川家が、兵糧や武器、弾薬を揃え始めている。

 兵を募り、またその調練を繰り返している。

 その規模はかつてないほどで、兵の数は2万とも4万ともされる――


「いかに今川義元といえど、4万もの軍は動員できますまい」


 と発言したのは、柴田勝家さんである。


 場所は、清洲城内、評定の間。

 今川軍迫るとの情報が入り、対策を練るため、織田家の主だった者たちはここに集っていた。

 俺と藤吉郎さんも、末席に座っている。この場にいないのは、現在追放中の前田利家さんくらいだ。


「すると権六どのは、今川軍は総勢2万とする報のほうが、正しいとされるわけですな?」


 丹羽長秀さんが、穏やかに告げる。


「恐らくは。――いや、あるいはその数字さえ大げさでかもしれぬ。その2万という数は、雑兵や荷物運びの小者の数を入れての数字ではないか。いかに今川義元が、三河、遠江、駿河の3か国を領有する大名とは申せ、1か国から動員できる兵の数はおおよそ5000がやっとであろう」


「そうだとしても、今川軍の総勢は15000ということになり申す。いっぽう、当方が動かせる兵の数は、尾張全土から動員してもせいぜい5000……」


 丹羽さんが、ちらりと信長の顔を仰ぎ見る。

 信長は、なにやら眠そうな顔だ。半眼のまま、じっと宙を眺めている。


「しかしのう、丹羽さま。こちらには、山田弥五郎がおり申すぞ!」


 と、突如、大声を張り上げたのは俺の隣にいる藤吉郎さんだった。

 全員の注目が、俺たちに集まる。


「ご存知の通り、この弥五郎は連装銃やリボルバーなど、ひとりで複数の敵を倒しまくる武器を作って参りました。これらの鉄砲を用いれば、15000の兵も恐るるに足らず! 今川軍など木っ端微塵に粉砕してくれましょう。のう、弥五郎」


「は……」


 俺は恥ずかしくなったので、苦笑いを浮かべて平伏した。


「――確かに、山田の武器があれば、今川軍が来ても互角に戦えるか」


「いま、連装銃とリボルバーはどれくらいある? 弾薬も揃えておかねばならんが……」


「砦を築いて、そこに神砲衆を中心とした鉄砲兵を複数配置すれば今川にも勝てるか……」


 織田家の面々が、次々と意見を出し合う。

 意見のほとんどは、俺と神砲衆をどう使って、今川に勝つか、というものだった。

 俺たちもずいぶん、大きな存在になったもんだ。神砲衆というわずか数十人の集団と、その集団が有する武器が、織田家の切り札のようになっている。




 だが。

 そんな、誇らしい話題が広がる中、俺は内心でわずかに怪訝顔を浮かべていた。




 早い。

 今川の動きが、俺の知っているそれと微妙に異なる。




 今川義元が数万の兵を率いて、尾張に攻めてくるのはことしの5月のはずだ。

 正確には5月12日に、駿河を出て、17日に尾張の沓掛という土地に着陣という流れだ。

 だが、いまは3月だ。……少しだけ。ほんの少しだけ早いと思う、今川義元の動き。このままいけば来月早々には、今川軍が尾張に攻めてくるのでは……?


 さらに言えば。

 結論から言えば今川義元はこの戦いで死ぬ。

 5月19日に、織田信長が義元に戦いを挑み、織田方の毛利新助に討ち取られてしまうのだ。

 その結果、今川軍は退却。そして戦国大名としての今川家は、嫡男の今川氏真が継ぐものの、しかし衰退していき、最終的には滅亡する。




 ――そうなるはずだ。

 そうなるはず、なのだが……。




 そして数で劣る織田軍が、今川軍に勝つ理由。これは諸説ある。


 山の上に陣取っていた今川軍に織田軍が攻撃をしかけ、混戦になったところ、義元が討ち取られた――

 という、ほとんどマグレで織田軍が勝ったという説。


 あるいは、谷の中で休憩していた今川軍を、織田軍が奇襲して討ち取ったという説。

 この説の場合、織田軍は雨の中を進軍したため、今川軍はその接近に気がつかなかった、という説だ。


 正面激突&マグレ撃破説。

 雨の中、奇襲した説。

 どちらが事実かは、21世紀になっても完全には判明していない。


 桶狭間の戦いは、日本史上でもかなり有名な戦いだが、なぜ信長が勝ったのか。

 その理由は、21世紀になってもよく分かっていない、不思議な戦いなのだ。




 だから――

 俺はいまいち、現状をつかみきれていない。

 史実より少し早い、今川軍の動きは、なぜそうなっているのか。

 そしてこの戦い、信長がどうやって勝利するのか。正面衝突か、雨天奇襲か。

 それともこの俺、山田弥五郎の武器を使うつもりなのか。まったく分からないのだ。


 もう少し、様子を見ないとなんとも言えない。

 どう動けばいいのか。それともいっそ、なにも動かないほうがいいのか。

 連装銃などの武器の手入れだけは、部下たちに命じてきっちりさせてはいるのだが……。




 そのときだ。

 評定の間に、男が入ってきた。

 よほど急いできたのか、肩で呼吸を繰り返している。

 あまり身分が高くない人物なのか、彼は信長に向けてやたらと平伏していたが、やがて、


「お人払いを」


 と言う。

 信長はかぶりを振った。


「構わぬ。ここにいるのは我が腹心ばかりじゃ。申せ」


「はっ。……それならば」


 男は、わずかに顔を上げて、言った。


「今川治部少輔、2万の兵を率いて、明日にも駿河を発する見込み」


「――――」


 ざわ、と室内の空気が波打った。

 信長は、なお眉一つ動かさない。


 俺も、冷静を装っていたが――

 しかし内心、首をひたすらかしげていた。


 早い。

 史実よりも、やはり早い。

 どういうことだ。これはなにかの前触れなのか? それとも――

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